かつて「昭和」という年号があり、昭和「39年」は西暦「1964年」で、その年の10月10日(土)から24日(同)まで東京オリンピックが開催された。
大垣市を「聖火ランナー」が走ったのは10月1日(木)午後4時過ぎから小一時間のことだった(参照)。
▼広報おおがきNo1854のp6から抜粋加工(写真はこれ)▼
その前日、つまり9月30日(水)、大垣市教育長が退任した(就任したのは1957年6月28日、金曜日)。
次の教育長の就任は10月5日(月)である。
大垣市に教育長が4日間「不在」だったことは歴代教育長一覧表(※)を見るとよく分かる。
よく分からないのは退任した教育長の任期終盤の言動である。まるで「第二教育委員会」を作りたくて作りたくてたまらないようだったのだ。
実際、作ってしまった。それがOBK。彼を「OBKの生みの親・育ての親」と評する人々もいる。
しかし正確には、「大垣市教育研究会」なるものを生み、それを「大垣市文教振興会」を経てOBKとなるまで育てた、といった印象だ。
▼OBKサイト資料(※)から抜粋加工▼
1964年、8月21日は金曜日で9月12日は土曜日である。
彼が「大垣市教育研究会」を生んだのは教育長に就任して5年め、1962年だったらしい。10月20日(土)に『大垣市教育研究会報』を刊行している。
▲OBK会報No632のp.9から抜粋コラージュ加工▲
▼文字塊▼
9.大垣市文教協会の発足
第3代大垣市教育長に就任した山田光之助は,市の教育前進のためには教師一人一人の資質向上をはかることが大切と考え,昭和37年(1962)10月20日に『大垣市教育研究会報』を刊行した。
10ページのガリ版印刷で毎月発刊された会報には生きた内容が盛り込まれており,それに基づき多くの実践がなされるなど,現場の教師にとっては,まさに教育のバイブルのようなものであった。
昭和39年(1964)9月12日には,山田により大垣市文教振興会(仮称)の設立が呼びかけられ,会報の特集号(号外)でその草案が提唱された。
その会則案の中で「本会は大垣市の教育尊重の伝統にかんがみ,いよいよその風尚(ふうしょう)を作興し,本市教育の刷新充実をはかることを目的とする」とその趣旨を述べている。
文教振興会は後に文教協会と改称され,同年11月7日,興文小学校で第1回総会が開催された。
会長には大垣共立銀行頭取の土屋斉(ひとし)が選任された。
文教協会の生みの親であり,育ての親である山田は,総会の挨拶の中で文教協会の進むべき方向と責務について,次のように述べている。
「先人の偉業を顕彰しつつ,大垣市の教育を前進させる時が来た。諸君の豊かな技量が永劫に輝き,立派な子どもを輩出させねばならない。知恵ある者は知恵を,力ある者は力を,金ある者は金をと,市民各層がそれぞれの立場で協力し合って育てられるべきである。その母体,それが文教協会である。」
【大垣市立図書館歴史研究グループ 早崎善晴(平成26年度)】
総会挨拶のこの箇所は何が「育てられるべき」なのかが不明瞭な迷文。文の書き手はロジックで考えるよりもパッションに駆られる傾向があったようだ。ロジックを度外視してパッションで暴走する特徴は現在のブラック法人OBKに一貫している。
なお第1回OBK総会の翌日、つまり1964年11月8日(日)、「第2回パラリンピック」が東京で開催された。閉会は12日(木)だった(参照)。
呼称「パラリンピック」はこの時に始まる(参照)。