邪馬台国の徳之島説は、何時か有力説となる!!
邪馬台国の徳之島説は、東京大学の「九州説」と京都大学の「大和説」、それに「マスコミ説」と「大手出版説」という巨大な勢力と戦わねばなりません。先日もある全国紙の優秀な記者が『魏志倭人伝』を片手に持ち取材にこられましたが、江戸時代から続いてきた今までの成果? はどうするのか!? とか、実に判らないことを発して帰られました。これは記事に出来ないとまで!? 首をかしげておられました。http://4travel.jp/domestic/area/kyushu/kagoshima/rito/tokunoshima/tips/10317818/
徐福の蓬莱山は、400年後「邪馬台国」となった!?
徐福は、中国の秦の時代(紀元前3世紀頃)の方士(学者)であった。
司馬遷の『史記』によると、徐福は秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある…」と具申し、3,000人の童男童女と百工(百人の技術者)を従え、五穀の種を持って、東方の蓬莱山を目指してに船出した。そして平原広沢(広い平野と湿地)を得て王となり戻らなかったと記述されている。この最初にたどり着いた場所が「徳之島」であり不老長寿の大海の島だったのである。そして、そのおよそ400年後に『魏志倭人伝』に記されている「大海の中の島」卑弥呼の邪馬台国が「徳之島」に誕生したのである。