「タイプ」という単語を
9極人間学に使うことに違和感があって
なんでかな?と掘り下げたら
あまりにも広範囲に使われていて
それによって誤解が生じるからだとわかった
「タイプ」と表現したことで
そういう意味ではないのに
別の意味に変換されてしまうことが多々あって
多分今でも
わたしが言いたいこととは違う意味で
捉えている人が多いだろう
特に多いのが
「型」や「枠」だと捉えている人
9極人間学で明確にしていくのは
そんな小さな枠組みのことではない
その捉え方のままだと
あの人とわたしが同じとは思えない
違うのではないか?
という疑問を生じやすい
なぜなら一般的にタイプと表現されているものは
表面に見えて観察できるもの
行動に現れるもの
だからだ
つまりそれらはそれぞれの
「個性」を表しているにすぎない
何度も言っているのだけれど
9極人間学で紐解いているのは
「個性」ではなく「氣質」
多分
あのセッションを本当の意味で
受け取っていただいた方々にしかわからない
「個性」を知るほど「型」にはまり
「氣質」を思い出すほど「解放」される
という感覚がある
なぜなら「個性」は
自分の生きる意味である「氣質」を
否定したり隠したりして上書き保存した
「社会的な仮面の自分」だから
その裏には「嫌な経験」がセットになっていた
ということに氣づき
それは本来の自分ではなかった
周りに合わせて作り込んだものではないか!
とわかった時に
生きる意味であり、着地点である「氣質」に
やっと自分で許可を出せる
それはとても解放感があって
脱力する感覚だ
実際腰が抜けて動けなくなる人もいるほど
わたしがエニアグラムでわかったと思ったときは
そこまでではなかったので
9極人間学目線で思い出せる人がちょっと
羨ましくもある(笑)
ということで
これからはあまりタイプと呼ばないことに
しようと思う