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どうも、こんにちは。
シリーズ前回から一週間ほど間が空いてしまいましたが、「十日えびす」のえびす(ゑびす)神の神社をはじめとする、七福神の記事を書きます。
今回は、京都の有名な繁華街・観光地のひとつである祇園で祀られている「京都ゑびす神社」と「十日ゑびす」の様子をお届けします。
さらにこのゑびす神社には、心優しい天皇の存在がありました。
そして今回、私自身もゑびす様とその天皇に救われたような気がするのです。
まずはいつもの通り、アクセスから。
ここは京都有数の繁華街・観光地だけあって、交通の便は結構いいです。
京阪電車「祇園四条」駅、京都市営バス「四条京阪前」停留所、京阪バス「四条京阪」前などがあります。
そこから四条通りを少しだけ東、大和大路通りとの交差点へ。
四条通りとの交差点から北は「縄手通り」という不思議な通りなのですが、そこから南へと歩きます。
この通りは、あまり広くも無い車両一方通行の道路で、ゑびす神社までの道はご覧の通り、あまり人通りも少ないのですが。
「十日ゑびす」の期間になりますと、ご覧の通り多くの人と出店で賑わいます。
毎年、神社までの道のりには多くの出店が並び、それが楽しみのひとつでもあります。
とん平焼きとか。
トルコ出身の方が作っているケバブやトルコアイスの店とか。
あと昨年には「玉ねぎスープ」の店も出ていました。
よく煮込んだ玉ねぎを丸ごと一個スープに入れるというインパクト重視のものだそうです(注:お店の方のお話)が、私は「細かく刻んだ方がよろしいのでは?」と思ってそう申し上げたのですが。何故なら、寒い時期なので、体を温める汁物があっただけで十分にありがたいですし、確かにインパクトはあるのですが、人によっては少々食べにくいのではないか、と思いましたので。
なお、以上は昨年の「十日ゑびす」の時に買い食いしたものです。
今年訪れた時は……ちょうど検査の直前の時間帯だったので、何も食べることが出来なかったのです。多くの屋台が並び、美味しそうなものがたくさんある中、何も食べたり飲んだりすることも出来ずにいるとは、まるで拷問でした(苦笑)。
京都ゑびす神社の入り口から本殿までの境内です。
これは、十日ゑびすの時期より何日か前に訪れた時の光景です。
普段はこのように人もそれほど多くなく、祇園・東山界隈では静かで落ち着いた場所だと思うのですが……十日ゑびすとなりますと、ご覧のような人出になります。
多くの縁起物も売っています。
それらをここで授与される福笹に付けて、商売繁盛や家内安全を祈願します。
過去記事でも少し書きましたが、各地のえびす神社で「十日ゑびす」の期間に授与される福笹は、この神社独特のものであった笹の御札が元になったものだそうです。
笹は縁起物の松竹梅の竹の葉で、「節目正しく真直に伸び」「弾力があり折れない」「葉が落ちず常に青々と繁る」などの特徴から、家運隆昌、商売繁盛の象徴となったと伝えられています。
神前に供えられる大まぐろ。
このおおまぐろも、各地のえびす(ゑびす)神社で奉納されています。十日ゑびすを象徴するもののひとつです。
ところで。
過去記事の復習になりますが、ここでこの京都ゑびす神社についての話を少し。
元々は十三世紀頃、鎌倉時代に創建された建仁寺の鎮守社で、コトシロヌシを祀る社だったそうです。
それが何故、えびす(ゑびす)神社になったのか。
何故、2柱の神様が集合させられたのか。
それについてはまた、後述します。
ところで、見落とされることも多いようですが、本殿の右奥にも参拝する場所があります。
一度、妖怪伝道師・玄幽氏に教えていただいたことがあったのですが、「えびす様は耳の遠い神様だそうで、横で壁を叩いて音を出してお願いしなければ聞いてもらえない」そうです。
ここでは「優しく肩を叩いてあげてください」と書いてありますが。
私もそっと叩いて礼拝を。
ただ、礼拝はしましたが、私は何もお願いをしませんでした。
また、今回は福笹も縁起物も買いませんでした。
何故なら私は、神様や仏様にお祈りはしますが、お願い事はしないと決めています。その理由はこちらに書いてあります。
十日ゑびすの期間中、ゑびす神社は24時間ずっと開かれ続けて、参拝者を受け入れ続けます。
夜中でもゑびす神社とその周辺はご覧の通りの賑わいです。
最後に。
「何故、元はコトシロヌシ神を祀っていた神社がゑびす神社になったのか?」
「何故、ゑびす神とコトシロヌシ神とは集合されたのか?」
先ほどの疑問についてですが。
これには、土御門上皇という、心優しい悲劇の上皇の存在があったとも言われています。
土御門上皇とは、後鳥羽天皇(後の後鳥羽上皇)の第一皇子。
父である後鳥羽上皇は、後に「承久の乱」を起こして鎌倉幕府に敗れ、隠岐へ流された天皇として有名です。
土御門天皇は、父の譲位によって天皇の座につくも、実際には上皇となった父の院政で実権を与えられませんでした。それどころか、すぐに父から退位を迫られ、弟・順徳天皇に譲位させられてしまいます。あまりにも温和で優しすぎる性格だったため、「(当時対立関係にあった)鎌倉幕府に対抗するには頼りない」と、判断されたと思われます。
今でいえば、いわゆる「草食系」とか、「ハト派」とか言われるような、無欲で心優しい性格だったのかもしれません。
承久の乱においても、倒幕を主張する父や弟に対して「今はその時ではありません」と止めようとしています(現在から見れば、この判断が正しかったのですが)。
その結果は、歴史で習ったとおり。
後鳥羽上皇・順徳天皇側が大敗し、それぞれが隠岐・佐渡へと流されることになります。
当初から幕府との戦いに反対し、関わりのなかった土御門上皇だけが、何の処罰も受けることはなかった……はずなのですが、なんと「父と弟が流罪になったのに、自分だけが都に留まることはできない」と、自ら申し出て土佐に流されることを選びます。
後に土佐から阿波へと移されますが、出家して都に帰ることなく生涯を終えます。
こんなにも心の優しい天皇が居て、多くの人々に慕われ続けた。
えびす神は、日本の国生み神話に登場する蛭子(ヒルコ神)とも同一視されています。
海へと流された蛭子神(=えびす神)を、自ら進んで罪を被って流されていった上皇とを重ね合わせた当時の人々が。優しい上皇をえびす神に見立てて、この神社に祀ったのかもしれない、とも言われています。
それから千年近く経った現在では、この話を覚えている人たちもほとんど居ませんが。
こういう心の優しい君主を慕い続けた昔の京都の人々も、日本人もまた心の優しい人々だったのかもしれません。
こんなにも心の優しい天皇が居て、多くの人々に慕われ続けた。
えびす神は、日本の国生み神話に登場する蛭子(ヒルコ神)とも同一視されています。
海へと流された蛭子神(=えびす神)を、自ら進んで罪を被って流されていった上皇とを重ね合わせた当時の人々が。優しい上皇をえびす神に見立てて、この神社に祀ったのかもしれない、とも言われています。
それから千年近く経った現在では、この話を覚えている人たちもほとんど居ませんが。
こういう心の優しい君主を慕い続けた昔の京都の人々も、日本人もまた心の優しい人々だったのかもしれません。
ゑびす神社を訪れ、記事に書いていますと、何だか心が温かくなってくるようです。
最近も、心が凹むことがあったのですが、今またこの話に触れて癒やされているような思いがしてきます。
もしかしたら、えびす様が。土御門上皇が。えびす様を祀り、この話を伝えてきた先人が、私を励まし、奮い立たそうとしているのではないか。
勿論それは、私の妄想に過ぎないかもしれません。
しかしこうして、何年かぶりにゑびす神社の記事を書き、その裏にあった優しい上皇の話に触れていますと、胸と目頭が何やら熱くなってくるのです。
そして「こんな気高く、偉大な生き方をした人物が居たのに、それに比べたら俺はなんとちっぽけなのだ。こんなことでいつまでもウジウジ悩んでいてどうするんだよ」と思えてきました。「頑張って、次回以降の記事も書いて行こうか。あっ、それ以外にももっと頑張らなければ」という気持ちにもなってきました。
お願い事はしませんでしたが、これだけでも「ああ、参拝してよかった。この記事を書いていてよかった」と思いました。
やはり、えびす様は福をもたらす神様だったのです。
今回はここまで。
また次回。
*京都ゑびす神社へのアクセス・周辺地図はこちら。
*京都ゑびす神社のHP
http://www.kyoto-ebisu.jp/index.html
*『京都妖怪探訪』シリーズまとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm
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