どうもこんにちは。
今回は、京都の妖怪絵師・伝道師の葛城トオル氏の案内で、京都は南山城付近の石仏巡りをしました。
この石仏群には、古来の日本人が持っていた信仰の形が表れていました。
(記事中の写真は、プライバシー保護等の為、人の顔部分等に修正を加えていることがあります)
2022年秋某日、午前10時に所定場所に集合。
葛城氏の運転する車で、目的地を目指します。
高速道路に入り、
木津方面へ。
カーナビで目的地まで。
この辺りは車・バイクか、長い距離を歩く覚悟で行くしかなさそうですね。
ミロクの辻と呼ばれる場所へ。
この辺りに立つ石仏が「弥勒磨崖仏(みろくまがいぶつ)」。
この写真では見えにくいかと思いますが・・・弥勒菩薩が岩盤に刻まれています。
岩船寺までの道中でも、いろんな石仏を目にします。
石仏を探し歩いて、山中の道も歩き・・・。
で結局、生い茂る草木に阻まれて、石仏に辿り着けなかったことも(苦笑)。
葛城氏の解説に寄れば、古来の日本人は、岩や巨木に神が宿るという・・・というより、岩や巨木そのものを神様として崇めていたということです。
縄文の、昔の日本人は現在よりもはるかに寿命が短かった。
そんな短命な人間からすれば、自分の祖父母よりも、それよりも遙かに昔から存在する岩石や巨木は、それだけで「人智の及ばないもの」であり神様そのもの、崇拝の対象であったのです。
そこへ6世紀頃に仏教が伝来、奈良時代に広まり、それが日本古来の信仰と融合し、神仏習合という日本独自の信仰が生まれます。
それが石仏というひとつの形で表されたわけですが、ただ「岩に仏様の姿を彫った」というのとは違う。岩という「神様」「御神体」に、仏様を彫る。まさしく「神様」と「仏様」とを融合した、或いは同一の存在としたものなのです。
それが、仏教が伝わり広まった奈良時代から平安京遷都までの間に、場所的にも平城京と平安京とのほぼ中間地域である南山城の辺りで大量に作られていった。
京都と奈良とのほぼ間に位置するこの地域に、多くの石仏が遺されているのはその為です。
後世になるにつれて、現在に良く知られている木製や金属製の仏像が主流になり、石仏は造られなくなっていきますが。
その時代の過渡期の産物といいますか、象徴だと思えば。
何気なく道端に立っているような石仏もこのように見ればまた楽しいものです。
今回はここまで。
また次回。
※ところで2023年の目標で、「新規スポットの記事を最低でも20以上、出来れば30以上書く」としましたが、これで1本目。
目標まであと19本です。
*葛城トオルのTwitter
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*『京都妖怪探訪』シリーズ
https://kyotoyokai.jp/