さて、問題です。
上の写真はどこの写真でしょうか?
「神田明神」と聞いて、東京都千代田区の神田明神を思い出された方が多いでしょう。「神田明神」と言えば、東京の神田明神の方が有名でしょうから。
しかし上の写真は、京都市内で、しかも京都の中心地・四条烏丸で撮った写真なのです。
神田明神と言えば、祭神として祀られている武将・平将門(たいらのまさかど)。
承平5(935)~天慶3(940)年の「平将門の乱」において、自ら「新皇」と名乗り、朝廷に反旗を翻したとされる人物です。
当時から、「妖術を使う」とか、「七人の影武者が居る」とか、「将門の身体は鉄でできていて矢が当たっても死なない」とか、不思議で怪しい噂が流れた人物でもあります。
さらに敗れて戦死してからも、様々な祟りや怪現象を為した大怨霊としても、現在でもなお恐れ続けられています。
本シリーズで何度も取り上げた菅原道真、崇徳上皇と共に「日本の3大怨霊」に数えられる大物でもあります。
今回紹介する「膏薬図子」は、かつて俵藤太(藤原秀郷)に討たれた将門の首が晒され、様々な祟りや怪現象が起こった伝えられる場所です。
京都の中心部ともいうべき、四条烏丸の交差点。
京都市営バスの四条烏丸・停留所や、京都市営地下鉄・烏丸線の四条駅など、交通も多く、多くの人々で賑わう場所です。
その交差点から、南側の歩道を西へと進みます。
池坊短大の前を通り過ぎ、さらに四条新町の交差点を越えます。
すると南側に、小さな図子が見えてきます。
図子(辻子)というのは、道と道とをつなぐ短い裏道・小道のことを言います。
京都市営バス・四条西洞院停留所のすぐそばです。
この小さな横道が、「膏薬図子」です。
この写真を撮影した時は、古い町屋とコインパーキングとの間にありました。
この小さな図子を、南へと下っていきますと、赤い幟を立てた町屋が見えてきます。
そこが、目指す神田明神の祠です。
将門の首が晒されて以来、この地には祟りや怪現象などが相次いだため、将門一族を処刑から救ったという名僧・空也上人を迎えて供養が行われたと伝えられます。
空也上人が道場を建て、「空也供養道場」というのが、「空也供養→膏薬」となまって「膏薬図子」と呼ばれるようになったそうです。
ちなみに空也上人は、シリーズ第54回でとりあげた「六波羅蜜寺」を開いた僧としても有名です。
ここが、神田明神の祠がある町屋です。
なお、この町屋は戸が閉まって中に入れない日もありますのでご注意ください。
この町屋の軒下にこんな札が。
ここで間違いないようです。
足下には、こんな蛙の像が。
将門の娘・滝夜叉姫が、蝦蟇を操るなどの妖術を使って朝廷転覆の反乱を起こしたという伝説も遺されていますが、この蛙像もそれと関連あるのでしょうか?
町屋の中に入って見ました。
将門の肖像画が飾られた祠や石碑のようなものが立っていました。
礼儀として賽銭を供え、礼拝をします。
なお、中は撮影を認められてなさそうなので、内部の写真は撮りませんでした。
というより、「万が一でも、不用意に撮影して祟られたりしたら、どうしよう」などとびびってしまい、撮影する気さえ起こりませんでした。
伝説によれば、将門の首は晒されてから何ヶ月経っても腐らず、目は輝きを失わず、夜になると「我が身体、いずこにある。ここに来たれ、首をつないで一戦せん」と叫び続けたと言われてきます。
また、他の怨霊と同じように災害や疫病などを起こしたとも伝えられます。
さらに、首が関東までに飛んだという伝説もあり、その首が落ちた場所が、あの「現在でも祟る」と恐れられている有名な東京都千代田区大手町の魔所「将門首塚」だそうです。
京都市の中心部とも言えるこの辺りには、他にもシリーズ第111回でとりあげた「小町化粧水石碑」や、第36回とシリーズ第74回でとりあげた「菅大臣社」などの霊場魔所がいくつもあるのです。
そうした霊場魔所も、今後の本シリーズでとりあげていこうと思います。
本シリーズでもしばしばありましたように、京都とは何気ない町中の光景、市民の生活空間の中にいきなり、とんでもなく恐ろしい伝説が残る魔所や、歴史的大事件の現場などがあったりして。
そこがまた、京都の面白さのひとつだったりもするのです。
それでは、今回はここまで。
また次回。
*膏薬図子、神田明神の祠の周辺地図はこちらをご覧ください。
*京都妖怪探訪まとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm
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わ~い、お茶
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