京都の闇に魅せられて(新館)

霊明神社と猿田彦の神石 @ 京都妖怪探訪(885)

 


 どうもこんにちは。
 本シリーズで何度か登場されてきた京都の妖怪絵師・伝道師、葛城トオル氏
 この度、京都・東山の古社・霊明神社で発見された幕末期の青龍と白虎の絵馬を新たに創り直され、さらにその記念として、青龍と白虎のオリジナル御朱印も描かれました。
 さる2024年(令和6年)3月31日、霊明神社にて記念の御朱印会が開催され、筆者も参加してきました。

 ・・・がその際、その霊明神社の境内で非常に面白いものを発見しました。
 御朱印会の記事の前に今回は、霊明神社の境内庭で発見した、その面白いものについての記事にします。

 


 まずはいつもの通りアクセスから。
 最寄りの交通機関には、京都市営バス「東山安井」停留所があります。



 その付近、安井金比羅(※本シリーズでは、シリーズ第5回第555界で紹介)の建つ東山安井の交差点から東へ。



 霊山神社高台寺へと続く坂道を上がっていきます。


 


 霊山神社の前を通り過ぎ、さらに上がって行きます。


 


 その坂を上がりきった山道の途中に、霊明神社の入り口はあります。



 この時は、葛城氏の御朱印会の案内板も。

 


 ここ霊明神社と隣接する霊明神社及びその墓地には、坂本龍馬をはじめとする、多くの幕末の尊皇攘夷派志士たちが葬られており、維新志士の聖地となっているそうです。
 江戸時代にこの地は、時宗正法寺の寺域であり、1809年にその一角を朝廷に仕えていた村上都愷(むらかみくにやす)という人が買い取り、神道による葬祭の場として霊明神社を創建したのがはじまりだそうです。
 こうして霊明神社の初代神主となった村上都愷という人は、国学思想を学び、仏教を外来思想と、神道を日本古来の思想として考えたようです。神職を含む全ての人が仏教寺院の檀家となり、葬祭も仏式で行われていたことに反発し、ここで神道式の葬祭を執り行ったという話です。
 これは当時の幕府や仏教勢力に対する反逆にも等しい行為であり、当然体制権力からもにらまれて、厳しい迫害等も受けたそうですが、これが後の尊皇攘夷思想や、さらに後の明治の神仏分離などの政策にも影響を与えたと思われます。
 今では東山の上にある小さな神社ですが、このように幕末・明治の思想や政策にも重大な影響を及ぼした地であると思うと、驚きを隠せません。
 賛否はあるかもしれませんが、こういう町中の小さな寺院や山中の神社などが、実は歴史上極めて重大な場所でもあった。
 こういうことがしばしばあるのも、京都という地の面白いところです。

 


 話を霊明神社参拝と御朱印会に戻します。
 霊明神社の鳥居をくぐり境内へ。



 現在は一般の民家くらいの庭と社殿が。
 ここには、本殿には日本神話の創世神・天之御中主命(あめのみなかぬしのみこと)、熊野三柱大神、菊理媛命(きくりひめのみこと)などが。

 

 境内庭の相殿には、アマテラス、猿田彦、アマノウズメなど、日本神話上有名なそうそうたる顔ぶれが祀られています。


 

 さらに末社には、宇多天皇が六条河原院造営の際に発見されたという石が、猿田彦の神石として祀られています。



 ところで宇多天皇の六条河原院といえば・・・元々は『源氏物語』のモデルともされる源融の死霊が現れたという場所でもあります。(※その詳細はシリーズ第15回第568回を参照)
 かつて怨霊の現れたという場所で、怨霊を監視し導くという神・猿田彦の御神体が発見され、それがここにあるのかと思うと・・・。
 『京都妖怪探訪』シリーズを続けてきた者としては、非常に興味をそそられる話です。


 さらにこの神石のそばの案内板には以下のような由来話が記されていました。
 霊明神社所蔵の『神石奏送一礼』(文化4年、1807年)によれは、河原院造営の時より祀られていましたが、河原院が衰退・荒廃してはるか後の、江戸時代の頃には河原院跡地の塩竃(しおがま)町・生薬(きぐすり)屋権兵衛の持ち家裏に埋まっていました。
 その為、この神石は付近の人々に祟りを為し、権兵衛は神石にお祓いを執り行い、謝罪をしました。
 その日、権兵衛の夢の中に「我は猿田彦なり。ここ数百年、神徳が隠され、悪水の流れの不浄に耐えかねる。早く遷座を」とお告げがありました。
 こうして現在では、この地に祀られているわけですが。


 猿田彦といえば(シリーズ第568回記事でも触れましたが)、日本神話上で天孫ニニギの道案内をしたことから、怨霊をも導き監視する神とも考えられ、怨霊が祀られている場所には一緒に、または近くに祀られていることも多い神様です。
 河原院に祀られていたという話を知り、最初は死後に怨霊として河原院にとどまり続けた源融の霊(※その詳細についてはシリーズ第15回記事を参照)を監視するために祀られていたのかと思いましたが・・・。
 しかし、先述の『神石奏送一礼』によれば、この神石は河原院造営の時から祀られていたという話ですから、監視対象は源融の霊ではないと考えられます。
 だとすれば、誰の霊? 源融を怨む誰かの霊?
 源融が捨てた女性の霊か?
 源融との出世・権力争いに敗れたライバルの霊か?
 あるいは怨霊関係なく祀られていたのか・・・?
 その真相はわかりませんが、いろいろ想像がわいてきます。

 もうこの神石に出遭えただけでも、ここに来て良かったなあ、と思えます(笑)。


 


 おおっと。
 境内の神石の話だけで、長い記事になってしまいました。
 なお、霊明神社に来た当初の目的である、葛城トオル氏の御朱印会と、葛城氏が復刻したという青竜と白虎の絵馬については、シリーズ次回にとりあげます。
 今回はここまで。
 また次回。

 

 

*霊明神社のHP
https://www.reimeijinja.org/

 

 

*『京都妖怪探訪』シリーズ
https://kyotoyokai.jp/

 

 

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