どうも。
前回記事の続きで、“生の六道”こと、嵯峨・薬師寺の話です。
普段は非公開のこの寺ですが、年一回の地蔵盆にだけは一般公開されます。
今回はその地蔵盆の日に訪れたのですが、何と驚くべきことに、この寺に伝わる貴重な仏像など寺宝の数々を撮影することを許可していただきました。
弘法大師・空海や小野篁が彫ったと伝えられている、歴史的にも貴重で、しかも普段は非公開になっているような仏像を、私のような部外者が撮影させてもらうということは普通はないのですが……これは非常にラッキーな驚きです。
許可してくださったお寺の方々に感謝しつつ、今回は“生の六道”こと嵯峨・薬師寺に伝わってきた貴重な寺宝の数々を紹介します。
そして、このシリーズにふさわしく、これらの寺宝にはいずれにも、不思議な伝説が遺されています。
まずは、本堂に入ったところで撮った写真です。
正面に見えます小さな仏像が、薬師寺の本尊・心経秘鍵薬師如来です。
これは、嵯峨天皇の勅願によって弘法大師・空海が創ったという、非常に貴重な仏様だそうです。
薬師寺に伝わる「薬師堂縁起」には、次のような話が伝わっています。
平安時代はじめの弘仁9年(818年)、天下に疫病が蔓延した時のこと。当時の嵯峨天皇は弘法大師・空海に薬師如来像を創るように命じ、自らも写経を行い、病魔の退散を祈願しました。空海は神護寺にて如来像を刻み、その開眼供養を薬師寺で行ったところ、たちまち霊験が顕れ、万民は疫病から救われたといいます。
この時嵯峨天皇が写経した心経は、嵯峨御所(のちの大覚寺)に納められ、空海が刻んだ如来像は勅封の秘仏として薬師寺に祀られました。
明治に入るまで薬師寺は、嵯峨天皇勅願所として嵯峨御所(大覚寺)の保護を受け、さらに本尊・薬師如来像の厨子の開閉も大覚寺の手で行われ、薬師寺の住職にはあけることすら許されなかったという……。
以上、お寺からいただいた資料を後から読んでわかったことですが、そんな非常に貴重な仏像を撮影させていただいて本当によかったのか……(汗)。
なお、この写真の向かって右側に3体の仏像が見えますが、それは「船上阿弥陀三尊像」という仏像です。
もうちょっと近寄って撮ってみます。
うまく撮れてなくてすみません。
この3体の仏様も、非常に貴重な仏像だと一目でわかりましたので、カメラのシャッターを押す手が震えていたのかも……。
阿弥陀如来座像。
観音菩薩座像。
勢至菩薩座像。
この3体です。
いずれも平安時代の比叡山の高僧・恵心僧都(源信)の作だとされています。
この寺の縁起によれば、次のような話が伝わっています。
恵心僧都は生身の阿弥陀仏を拝することを願い、清涼寺において七日間参籠し、祈念し続けました。満行の日の暁、高貴な尼僧が現れました。その尼僧の導きによって僧都は、紫の雲の中に船に乗った阿弥陀三尊が現れ、西の空へと向かっていくのを拝することができました(注:「西方浄土」という言葉にもあるように、阿弥陀仏の居る浄土は西の方向にあると言われています)。
その時の感動を後世に伝えようと恵心僧都は、その阿弥陀三尊の像を彫り、薬師寺に遺したと伝えられます。
昔は船に乗っている阿弥陀三尊の像だったらしいのですが、現在は船はなく、阿弥陀三尊像だけが遺されている、ということらしいです。
その像が、この3体の仏様のようです。
なお、この像を創ったとされる恵心僧都(源信。942年~1017年)も、比叡山延暦寺の歴史の中で有名な高僧の一人です。
恵心僧都の師である良源(別名・元三大師)という高僧も、「比叡山中興の祖」とも言われる有名な高僧で、また「鬼の姿に変化して魔を払った」という、まるでデビルマンみたいな伝説も遺されているという人物でもあります。
そういう偉大な高僧に師事していましたが、師・良源の死をきっかけに、『往生要集』という書物記しました。
この書物は、極楽往生に関する書物をまとめて書いたもので、「死後極楽に往生するには、一心に仏を想い念仏の行をあげるべき」と説き、浄土教の基礎を創ったものです。
また、今日我々が抱く地獄のイメージは、この『往生要集』で書かれている地獄の様子が元になっているそうです。
そういう歴史的にも貴重な書物を記した高僧の手で創られたという仏像。
京都市指定文化財にもなっている、そんな歴史的にも貴重で、しかも不思議な伝説まで関わっているという……。
以上も、薬師寺から渡された資料を後から読んでわかったことなのですが、やはり、そんな貴重なものを撮影させていただいたとは……(汗)。
本堂内の一角に安置されていました、嵯峨天皇の像です。
小野篁が尊敬し、仕えた人物です。
この像も、京都市登録文化財に指定されている貴重なものです。
なお、薄暗い中で撮影したこともあって、あまりよく見えないかもしれません。
すみません。
ただ、フラッシュなどを使って撮影するのは、ためらってしまいましたので……。
そして、本尊の左脇にある仏像こそが、小野篁自身の作と伝えられている「生六道地蔵菩薩」像です。
シリーズ第65回でもふれましたように、地獄の亡者たちを救うために、亡者たちの代わりに地獄の炎で焼かれる地蔵菩薩の姿に感動し、地蔵菩薩の像を創って祀った、と伝えられています。
この地蔵菩薩像も、そうして創られた像のひとつだそうです。
ここを訪れた8月24日は、この生六道地蔵菩薩のお祭りの日なのです。
写真の地蔵菩薩像の手前には、野菜で作られた船がいくつも供えられています。これは「生御膳(なまごぜん)」と呼ばれるもので、七種類の野菜が使用され、湯葉で船の帆が作られています。
これはお盆に訪れるという精霊(しょうろう。お盆の時にあの世から来た死者の魂)があの世に帰る際の乗り物として使用される、と考えられています。
ところで、この写真では「生御膳」の影に隠れて見えにくいのですが、地蔵菩薩の両脇には、小野篁と聖徳太子の木像があります。
よく見える写真が撮れなかったのが残念でもありますが、仕方がありません。
いくら撮影を許可されたからといっても、壁となっている「生御膳」を越えるために、スカズカとその上まで上がり込むというのは、さすがに失礼だと思いましたので……。
以上。
いずれも歴史的にも貴重で、しかも不思議な伝説の遺る寺宝をとりあげました。
さて、そこそこの長さの記事になりましたので、今回はここまでとしますが、あと1回、この嵯峨・薬師寺の記事を書きます。
この後私は、薬師寺の地蔵盆の法要と、「送り火」の儀式に参加しましたので、その時の様子を、写真付きで紹介します。
では、今回はここまで。
また次回に。
嵯峨・薬師寺のホームページ
http://yotsuba.saiin.net/~saga/yakusiji/index.html
薬師寺付近の地図は以下を参照(楽天マップより)。
*京都妖怪探訪まとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm