どうもこんにちは。
もうリアルでは紅葉の時期は終わっているようですが、それでも今年の紅葉巡りに記事を引き続いてあげていきたいと思います。
リアルでは一介のサラリーマンにすぎないので、なかなか記事が書けずにおりますが。それでも、次行きます。
今回は私のお気に入り紅葉スポットのひとつである京都嵯峨の宝筐院(ほうきょういん)を巡ります。
(記事中の写真はクリックで拡大します。プライバシー保護等の為、人の顔部分に修正を加えていることがあります)
前回記事の‘嵯峨釈迦堂’清涼寺の正門前から西へ。
塀伝いにも真っ赤な紅葉が。
西の端に門が。
この外見からは想像できませんが・・・中に入ると、まさに別世界の光景が広がっています。
過去記事の繰り返しになりますが、ここで宝筐院について、簡単に解説を。
寺で配布されていた案内パンフレットに書かれていた「略史」によれば、だいたい以下の通り。
この寺は、平安時代に白河天皇により建てられ、善入寺と名付けられました。
南北朝時代に夢窓国師の高弟・黙庵周諭禅師が入寺し、室町幕府二代将軍・足利義詮(あしかが・よしあきら)の保護を得て、それ以後は臨済宗の寺となりました。
貞治6年(1367年)、義詮が没すると、善入寺はその菩提寺となり、義詮の因業に因んで「宝筐院」と改められました。
室町幕府の保護を受けていた時代は隆盛を誇っていましたが、応仁の乱以後は衰退し、明治の頃には廃寺となりましたが、それから五十数年を経て復興され、今に至るそうです。
寺の歴史についてはここまで。
本堂前とその周辺にも紅葉風景が広がっています。
ところで、宝筐院境内の奥には、面白いスポットがあります。
楠木正成(くすのき・まさしげ)の嫡男である、楠木 正行(くすのき・まさつら)の首塚と。
仲良く(?)墓を並べているかに見えること二人、父親同士が敵同士。元々は共に鎌倉幕府を打倒した戦友同士でしたが、後に敵対、最後は楠木正成が足利尊氏に敗れて戦死したはずですが……。
さらに案内パンフレットを読むと。
正平3年・貞和4年(1348年)、楠木正行が四條畷の合戦で戦死すると、生前に縁があった黙庵禅師がこの寺にその首を葬った。後にこの話を聞いた義詮は、故・正行の人柄を評価し、自分も死後は隣に葬るように言い遺したそうです。
生前敵対関係にあった相手にそこまでの経緯を払えるとは、足利義詮という人物もなかなかの人物だったのでは、という気がしてきました。初代・尊氏や三代・義満と比べたら、今ひとつ影が薄い印象があったのですが、これで義詮に対するイメージが変わりました。
このお二人は果たして、あちらの世界でうまくやっているだろうか、と少し気にはなりましたが。
そこから先、出口までも紅葉の森が続きます。
いかがだったでしょうか。
ここが私のお気に入り紅葉スポットのひとつだという理由がおわかりいただけたでしょうか。
今回はここまで。
また次回。
*宝筐院への地図・アクセスはこちら。
*宝筐院のHP
https://houkyouin.jp/
*『京都妖怪探訪』シリーズ
https://kyotoyokai.jp/