京都の闇に魅せられて(新館)

泉涌寺塔頭法音院 @ 京都妖怪探訪(806)

 

(記事中の写真はクリックで拡大します。プライバシー保護等の為、人の顔部分に修正を加えていることがあります)


 どうも、こんにちは。
 今回は、泉涌寺とその塔頭(たっちゅう)寺院を幾つか巡ってみることにしました。
 泉涌寺と言えば、皇室の菩提寺として知られ、また最近では、芸能人の石田純一が、美人祈願の仏様として紹介した「楊貴妃(ようきひ)観音」が有名な寺院です。
 私ももう大分長いこと『京都妖怪探訪』シリーズをやっていながら、塔頭寺院のひとつである「即成院(そくじょういん)」以外はまだ訪れていなかったのです。
 これではいかん、このままでは『京都妖怪探訪』シリーズ著者としての名折れではないか、という自分でも謎の使命感のようなものに駆られ、この度訪れることにしました。
 また泉涌寺の塔頭寺院の中には、本シリーズでもとりあげるにふさわしそうな、不思議な伝承が遺るスポットもあります。
 「後水尾天皇の身代わりになった」という‘身代わり仏’と呼ばれる仏像が遺る「戒光寺(かいこうじ)」。
 「弘法大師・空海が独鈷という法具で水湧き出させた」という伝承の遺る「来迎院(らいごういん)」。
 「悟りの窓」に「走り大黒天」があり、さらに『忠臣蔵』で有名な大石内蔵助(おおいし・くらのすけ)が「龍が住む」と言ったという池の痕跡が遺るという「雲龍院(うんりゅういん)」など。
 このように面白いスポットも幾つもあるので、是非とも訪れようと思い立ちました。
 今回から何回かに渡って、その塔頭寺院と泉涌寺とを紹介していきます。
 その第1回目は、泉涌寺七福神の一人・寿老人と、春日三社(三神)とを祀る、「法音院(ほうおんいん)」を紹介します。

 

 最寄りの交通機関には京都市営バス「泉涌寺道(せんにゅうじみち)」停留所があります。
 そこから、東大路通りと泉涌寺道通りとが交わる交差点から、泉涌寺道通りを山手へ、山手へと進みます。

 

 

 


 歩いて5~10分ほど緩い坂道を進むと、泉涌寺の山門と、その脇に塔頭寺院のひとつ、「即成院」の門が見えてきます。

 

 

 

 ここ即成院も、源平合戦で活躍した弓矢の名手・那須与一の墓があるなどの面白い場所ですが、こちらはシリーズ第423回記事でも紹介したことがありますので、今回は省略します。

 

 

 


 山門をくぐると、しばらくは両側を高い木々や石垣で覆われた道が続きます。

 

 

 

 

 しばらく歩くと、横に「法音院」と書かれた門が見えてきます。

 ここが泉涌寺の塔頭寺院のひとつ、「法音院」です。

 

 

 

 この塔頭寺院は、鎌倉時代末期にあたる嘉暦元年(1326年)、無人如導宗師によって泉涌寺山内に創建されますが、室町時代の応仁の乱によって焼失、その後寛文4~5(1664~1665)年に江戸幕府の支援を受けて現在の地に再建されます。

 

 

 

 中へ入ります。

 

 

 

 ご本尊は「不空羂索観音菩薩(ふくうけんさくかんのんぼさつ)」という、一面・三眼・八臂(八本腕か?)という姿で、「羂索(けんさく)」という投げ縄の一種を使って、あらゆる衆生(人間を含むあらゆる生き物)を掬い(救い)上げてという仏様です。

 

 

 こちらが本堂のようです。

 

 

 ただこの日、本堂は閉まっていて、入れなかったので、その姿を見ることは出来ませんでしたが。
 後で調べてみたら、この古刹では予約をすれば写仏体験をさせてもらうそうで、その後に内陣で、ご本尊に参拝させてもらえるそうです。
 私はそれをしていなかったので、ご本尊を見ることも、内陣に入ることもできなかったのですが。
 ただ、それでも面白いものはあったと思いますので、以下に紹介していきます。

 

 寿老人を祀っているお堂。

 

 

 

 

 この寿老人は、「泉涌寺七福神」の中の一柱だそうです。

 毎年1月、成人の日に行われる「泉涌寺泉山七福神巡り」のポイントのひとつで、そのうちの寿老人を祀ってあります。

 エビス神(えびす、ゑびす、蛭子)以外は、元は外来の神様だったという七福神。

 こそういう神様が古くから受け入れられているところから、日本の宗教が古くから外国の影響を受け続けてきた。元々日本人は(少なくとも宗教面に関しては)必ずしも閉鎖的・排外主義的な民族ではなかったのではないだろうか、という気もしてきます。

 

 

 

 ところで、寿老人のお堂の横に鹿の象が。

 

 

 

 鹿といえば、奈良・春日大社の神使。

 奈良公園など奈良市内に多くの鹿が居るのは、春日大社の神・春日大明神の使いだと信じられてきたから。

 この鹿の像があるということは・・・この古刹でも春日大明神は重要視されている、ということでしょうか。

 

 

 

 寿老人のお堂のさらに奥、鎮守社「三社明神」が祀られています。

 

 

 ここにも、春日大明神の神使・鹿の像。
 ここで守られている三社とは、「春日大明神」「八幡大菩薩」「天照太神宮(てんしょうだいじんぐう)」の三神。
 日本古来の神様と仏教の仏とを同一の存在として考える本地垂迹(ほんちすいじゃく)説によれば、ご本尊・「(ふくうけんさくかんのんぼさつ)」は、春日大明神の本地仏(注:仏としての真の姿)なのだそうです。
 春日大明神といえば元々は、平安時代頃まで絶大な勢力を誇った藤原氏の氏神だった神様。ここ法音院が創建されたのは、武士の時代となった鎌倉時代の末期でしたが。この古刹は、その頃か創建以降に、藤原氏の強い影響でも受けていたのだろうか?
 そんな邪推をしてしまいましたが・・・詳細はまだわからないままです。

 三社のひとつ「天照大神宮」は、皇室の祖ともされているアマテラス神。
 やはり三社のひとつ「八幡神」は、応神天皇とも同一視された「誉田別命(ほんだわけのみこと)」を主神とし、神仏習合によって「八幡大菩薩」とされています。
 アマテラス神に継ぐ皇室の守護神とされただけでなく、武運長久の神様として、清和源氏、桓武平氏をはじめとする武士に広く信仰され続け、全国にその信仰が広まったという神様でもあります。
 元々は皇室の菩提寺だった泉涌寺、その塔頭寺院である法音院も、皇室の強い影響を受け続けてきた・・・と考えられなくもないな、とは思うのですが。
 ただ、鎌倉時代末期になっても藤原氏の強い影響まで受け続けてきたとしたら・・・どういうことなのだろうか、だとしたら、この寺は藤原氏とはどういう関係だったのだろうか。
 『京都妖怪探訪』シリーズというわりには、七福神の他、あまり妖怪や怨霊などとは関係なさそうですが・・・日本人が古来より抱き続けてきた信仰「神仏習合」のあり方や、その歴史的背景などについて、ほんのちょっとだけですが、考える機会にはなったと思います。


 ところで、ここのご本尊を直接拝んでみたいという気はあるのですが、それにはここの写仏体験に参加しなければなりません。
 私は絵も書道も下手くそですし、あまり根性も無いので写仏写経なども含めた仏道修行するとしたらハードル高いかなあ、などと躊躇してしまうのですが。
 うじうじとそんなことも考えながら、この古刹を後にし、次の塔頭寺院を目指します。

 

 

 

 ところで気付いてみたら。

 「特別編・2022年の目標」で、「今年中に、本シリーズで新規スポットの記事を最低でも15以上、出来れば20以上書く」ことを目指していましたが。

 今回13本目。目標達成まであと2本です。

 果たして今年中に15達成できるか・・・!?(汗)

 

 今回はここまで。

 また次回。

 

 

 

 

 

*泉涌寺塔頭・法音院へのアクセス・周辺地図はこちら

 

 

 

 

*泉涌寺塔頭・法音院のHP

http://houonin.com/

 

 

 

 

*『京都妖怪探訪』シリーズ

https://kyotoyokai.jp/

 

 

 

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