(記事中の写真はクリックで拡大します。プライバシー保護等の為、人の顔部分に修正を加えていることがあります)
どうも、こんにちは。
シリーズ前々回と前回続きで、疫病(いわゆるコロナ、新型肺炎)退散祈願も込めて、「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」の聖地を巡ります。
「祇園御霊会」とは何かと言いますと、現在でも有名な京都・祇園祭の元になったとも言われる祭事です。
元々は貞観年間(859~877年)、京の都に疫病が流行し、天災が頻発した時、京都・神泉苑での行われた御霊(ごりょう、みたま)や疫神を鎮める為に行われた祭事のことです。
御霊とは、政争に敗れたりして非業の死をとげた人々の霊、わかりやすくいえば怨霊ですが、当時は疫病や災害などの原因は、怨霊や疫神だと考えられていたからです。
今回はこの御霊会で祀られた御霊(怨霊)が、現在でも祀られているという上御霊神社を巡ります。
烏丸通りに面した京都市営地下鉄「鞍馬口」駅の1番出入り口から。
そのすぐ南、こういう案内板のある道を東へと歩きます。
その途中、猿田彦神社が建っています。
猿田彦(サルタヒコ)といえば、日本神話の天孫降臨のエピソードで、天から降りてきたアマテラス神の孫ニニギの案内役を務めたことから、旅の安全を守る神様として有名ですが。
私もごく最近に知ったばかりなのですが、この猿田彦という神様には「怨霊を導く」という役割も、「怨霊を監視し、そこから遠く離れて動き回らないように誘導する」という役割も与えられていたようです。
以前訪れた時(シリーズ第56回)にはそれを知らず、呑気に「旅の無事を祈る神社なのだな」としか思っていたなかったのですが。
猿田彦神社があるということは、この先にある上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)には、間違いなく多くの人々から恐れられている怨霊が祀られているということなのです。
まずは礼拝(らいはい)していきます。
さらに東へ進むと、その先に上御霊神社の鳥居と楼門が建っています。
楼門の横には「応仁の乱勃発地」の石碑が。
京都の街を焼け野原に変えたという応仁の乱。
元々は室町幕府の管領職にあった畠山氏の内紛に、山名・細川など他の有力大名や、さらに足利将軍家の後継者争いなども加わって、より複雑化、長期化、泥沼化し、10年以上も続く大乱となってしまいまいました。
文正2年(応仁元年、1467年)1月18日、この地に陣を敷いていた畠山政長を畠山義就(よしなり)が襲撃したことを契機に大乱が始まったとされています。
場所が場所だっただけに、この大乱も怨霊の仕業だと考える人も居たようですが・・・その真偽は不明です。
門をくぐり境内へ。
以前訪れた時もそうでしたが、歴史を揺るがし、多くの人々から恐れられた怨霊が祀られているとは一見して思えないほど、静かで落ち着いた雰囲気の場所です。
本殿へ礼拝。
この神社は延暦13年(794年)、崇道神社(※シリーズ第236回参照)のように、早良親王(さわらしんのう)の霊を祀ったのが始まりとされていますが、貞観5年(863年)に神泉苑で行われた御霊会(ごりょうえ)で祀られた6柱(6名)の怨霊を祭神として現在に至ると言われています。
ただ、この時の6名の顔ぶれが、資料によって違っていたりするので、どれが正確なのか正直よくわからないのですが・・・。
シリーズ第56回の時にここの社務所で授与された資料「御霊神社由緒略記」によれば、その6名とは以下の通り。
*崇道天皇(早良親王)
光仁天皇の御子、桓武天皇の同母弟。藤原種継暗殺事件に関わった容疑で廃太子され、無実を訴えるため絶食しが、淡路国に配流の途中、河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死。これは、息子の安殿親王(後の平城天皇)を皇位につけたかった桓武天皇による冤罪ではないか、と考えられている。
*井上内親王(いのえないしんのう)
光仁天皇の后。天皇を呪詛したという罪で息子の他戸親王と共に幽閉され、幽閉先で他戸親王と共に死亡。これは山部親王(後の桓武天皇)を皇位につけるため、藤原百川らによる陰謀とも考えられ、その死に関して暗殺説もある。
*他戸親王(おさべしんのう)
光仁天皇と井上内親王との子。井上内親王に同じ。
*藤原吉子(ふじわらのよしこ)
桓武天皇の夫人で、伊予親王の母。藤原氏の権力闘争に巻き込まれ、謀反の疑いをかけられて幽閉され、伊予親王と共に自害。のちに二人の無罪が認められる。
*橘逸勢(たちばなのはやなり)
平安時代の官人で、空海・嵯峨天皇と共に「三筆」と称された文人。謀反の疑いをかけられ、拷問まで受けたあげくに、伊豆へ流罪に。その途中で病没。
*文屋宮田麿(ふんやのみやたまろ)
平安時代初期の官人。謀反の疑いをかけられ、伊豆国へ流刑になった。
更に後世、次の2柱が主祭神に加えられます。
*火雷神(菅原道真)
学問の神様でもある、京都で、日本で最も有名な怨霊の一人。まとめ記事はこちら。
*吉備大臣(吉備真備)
遣唐使として、また政治家として有名な人物。陰陽道を日本に伝えた人物としても言われている。しかし右大臣にまで登りつめ、天寿を全うしたはずですが、何故他の七人の怨霊と共に祀られているのかは、謎。
729年の「長屋王の変」で自殺に追い込まれた吉備内親王(きびないしんのう)とする説もあるらしい。
本殿へ礼拝した後は、本殿裏手など境内や摂末社も散策。
そういえば昔(※シリーズ第58回の時)、ここの摂末社を巡って、八幡社の賽銭をケチろうとした時、「神様から怒られた」ような体験をしたことがありましたが・・・今回はそのようなことはありませんでした。
当時はビビりましたが、今となってはあれも面白い思い出です(笑)。
境内の稲荷社。
その付近に咲くイチハツの花。
実を言いますと、今回この霊場を訪れたのには、このイチハツの花を観るという目的もあったのです。
元々はカキツバタの花が咲いていたのですが、戦後水が涸れてしまった為、現在では同じアヤメ科のイチハツを植えたそうです。現在でも氏子や有志の方々が世話をされて、毎年5月頃には満開の花々が咲く光景が観られるそうですが・・・今回は既に見頃を過ぎてしまったようで、残念ながらわずかしか花が残っていませんでした。
また来年ですね。
やはりこの霊場も、今年のコロナ危機の影響を避けられなかったようで、御霊祭(例祭)も大幅に縮小して一部の神事を行うだけになってしまったようですが。
それでも、疫病退散の祈願が込められた、今年の特別なご朱印とお札をいただいて帰りました。
ところで、もし「疫病や天災は御霊(怨霊)の仕業」だというのならば、今年初めからのコロナ危機や3・11から相次ぐ天災は、果たして誰の怨霊の仕業なのだろうか。
・・・などとも、一瞬考えてしまいました。
本日はここまで。
また次回。
*上御霊神社のHP
http://www.kyoto-jinjacho.or.jp/shrine/02/004/
*『京都妖怪探訪』まとめページ
https://kyotoyokai.jp/
最新の画像もっと見る
最近の「妖怪スポット」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
2008年
人気記事