千鳥足こと博多のおいしゃんの独り言

博多と奴国

紀元57年、大陸の漢の時代の「後漢書・東夷伝・倭人条」に

ニッポン(倭国)の奴国の王様に印綬ば与えたて書いてあります。

倭人が住むクニがすなわち「倭国」です。

ちなみに「倭人」とは「小さい人」って言う意味らしいです。

有名な金印「漢委奴国王」ですね。

大きゅう見えますばってんが福岡市博物館に見に行ってみなっせ。

小指の先ほどの小さい代物です。

江戸時代に志賀の島で発見されたて言いますばってんが通説はありますばってんが

正確に誰がどこで発見したかは本当のことはわかっておりません。

発見当時これがとんでもない発見て言うとば説いたとが福岡藩の儒学者の

「亀井南冥」です。南冥は「委奴国」ば「ヤマトノクニ」と訳したゲナです。

今までも「イト」ていう説もあったばってんが今では「わのなの」が定説です。

だいたいそげな大事なもんがなんで志賀島で見つかるとか?もね(>_<)

志賀の百姓甚兵衛さんが発見ば那珂郡役所に届けたてありますが

地元では見つけたとは「秀治と喜平」て言われとり定かではありまっせん。

これはそう当時の奴国(博多)の王ば倭のクニ(ニッポン)の王様と認める

て言う中国の王様のお墨付きですね。

おいしゃん、調べれば調べるほど大陸に一番近いけんか?

ここ博多はニッポン最初ってのがいっぱいあるとに気づきます。

こん中でなしてか博多に根付いたとは「うどん」だけですね。

これもなしてか?どっかの「うどん県」のごと威張らんけん

博多がうどん文化ってのは意外と日本国民には知られておりません。

普段から普通に食べて自慢せんけんですね。

お茶、外郎、蕎麦、うどん、禅、大陸から最初に入ってくるけん当然ですけどね。

蕎麦、お茶は風土的に博多では栽培に向かんかったとでしょう。

外郎は名古屋に任せときまっしょう!

この金印の時代より5~600年後にはこの地からこれらのもんが

仏教とともに博多ば通じてニッポンに伝えられますっちゃもんね。

かの金印は綬(じゅ)とセットで送られたはずやばってん綬はまだ発見されておりません。

布やけん当然と言えば当然ですけどね・・・・

未だに卑弥呼に送られた「親魏倭王」の印も見つからんけんもう見つからんっちゃないかいな?

綬て言うたら印ば下げて持っとく布みたいなもんやばってんがいろいろな色があります。

各地に贈られた金印もそれぞれ格式に違いがあったようです。

我が国の金印とセットやった綬は「紫」やったっちゃないかいな?て言われとります。

金印も取っ手「鈕(ちゅう)て言います」の部分が蛇やら駱駝・羊があって

南方の民族に与えられるとが「蛇」北方の民族に与えるときは「駱駝・羊」やったそうです。

うち(我が家のもんのごと言いよります(^^♪)の金印は蛇の鈕ですね。

この金印が贈られたとは弥生時代後期です。

そのもっと昔(もっとていうたっちゃ万年単位ですばい)石器時代の

今から2万年前は九州と大陸はつながっとったとですよ!!

これが今やったら日帰りで釜山で焼き肉食って帰ってこられますね(^^♪

トンネルやら掘らんだっちゃ、博釜高速道路もできとったかもですね、

途中、壱岐サ-ビスエリア、対馬サービスエリアやらあって(^^♪

対馬でのジャンクションはこちら釜山こちら海雲台やらくさ・・

山笠も半島まで伝承しとったかもしれませんぜ・・・・

明太と合わせてキムチも博多名産になっとったかも!?

現在、貝塚が内陸部で見つかるともこのようなことからです。

この時代は地球の氷期にあたり海水面が低い状態です。

それからだんだん氷が溶けて海面が上昇し暖かい対馬海流が日本海に流れ込み

今の地形になってます。それも万年単位のことやけんその間、朝鮮半島と

北部九州はいわばずぶずぶのお隣さんで人の出入りは当たり前やったでしょう。

国というものが確立される前はヤマト(近畿地方)より密接な関係やったはずです。

秀吉の唐入りで間に入った対馬の宗氏はそれは困ったでしょう。

昔から大陸との中継地であり大陸との貿易の利があった地域ですけんね。

弥生時代には漢が衛氏朝鮮ば滅ぼして半島に「楽浪郡」ば作ります。

「魏志倭人伝」にも楽浪郡のはるか南に倭人ありて書かれとりますね。

当時、奴国はこの楽浪郡ば経て漢とやり取りしよったみたいです。

さてこの奴国ちゃいったいどこかいな?

答えば先に言うたら今の博多区・南区・春日市一帯です。

那珂・師岡・野多目・柏原、西の方では有田・四箇田やらに

農耕集落ができ始めます。水利関係のもめごとやらが当然起こってきます。

いつの頃からかそればまとめる実力者が出現し始めそれが王てなるとです。

日本書紀では奴国にかわり「儺縣(なのあがた)」律令時代以後は「那珂郡」

那の土地の港ば意味する「那の津」は今でちゃその名は残っとりますね。

今回、日本の歴史とその時代の博多がどげんやったか?から書き始め

それから山笠やらの祭編ば書いて行こうて思いよったっちゃけど

調べれば調べるほど面白うなって石器時代~飛鳥時代からなかなか抜け出せません。

それだけ博多は日本の始まりに大きくかかわっとりますっちゃん!

本ば書こうか?やら大それたこと思いよるっちゃばってんがそれこそ

今からのライフワークになりそうです。調べるとの方が面白うなってきましたやね(^^♪

先日、博多署に行った際、知っとったばってんがなかなか見にはいかん

「房州濠」の跡初めて見てきました・・・・

大友氏が筑前博多ば支配しとった時、配下の臼杵鑑続「安房守」が

博多の防備のため掘った濠のことでその役職から「房州濠」て言われてます。

その濠の見張に作った櫓から「矢倉門」の地名が博多に残っとります。

金印の時代からこの房州濠まで1500年ばかり、縄文時代の何万年からしたら

人間の歴史はたかだか2000年、それでもその中身は一杯詰まっとります。

縄文人が何万年も進歩せんでおんなじ暮らししてきたっちゃけど

それからしたら弥生時代からの人類の発展は加速度がついてます。

おいしゃん絶対縄文時代の後期にあの2001年宇宙の旅の「謎の石板」が

出て来たて思いますやね!

そげん考えな、こげな人類の進歩は考えられんもんね。

前にも書いたっちゃばってんがこげな長い人類の歴史のスパンで

まだこれといった進化が見られんちゃけど・・・ ・・

今日、ニュースで見たアフリカゾウの件が凄かっちゃん・・・・・

最近のアフリカゾウに牙が生えとらんらしい、調べてみたら象牙の密漁に対した

進化らしい、牙があったら密漁者に殺されるけんって!

たかが50年のスパンでの進化は珍しいって!

奴国からアフリカまでだいぶ話のそれてしまいました。

そげなこげなこと考えながら日々過ごしよるおいしゃんです。

 

チャンチャンです


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