見果てぬ夢

様々な土地をゆっくりと歩き、そこに暮らす人たちに出会い、風景の中に立てば、何か見えてくるものがあるかもしれない。

日航機事故の記憶の共有

2006-11-14 23:55:23 | 仕事・職業
記者クラブとの懇親会があった。20代から50代まで様々な報道関係者と語り合うと、個々の記者による価値観の多様性が浮き彫りになり、マスコミの発信する情報が社会に与える影響の重さと難しさを改めて感じた夜だった。

建設に関する業界紙記者は、冷酒を飲みながら、「富の公平な配分意識から談合を再考しなければ、格差社会は広がるばかりだ」と静かに熱く論じた。

この地が2ヶ所目の赴任局という全国紙の若手記者は、ビールを飲みながら、「おっしゃる通りです」と何度も繰り返し、聞き役のスタンスを外さない。

私と2つ違いの全国紙支局長は、無精ひげを撫ぜながら、「この前のセレモニーで君が代を歌っているときの顔に悲哀を感じましたよ」とわかったように嘯く。

一次会の後の誘いを断り切れず、新聞社・TV局・当局職員の6名でワインバーに流れた。

しばらく各種行政施策についての議論に花を咲かせている内に、いつのまにか、1985年8月12日に起きた日航ジャンボ機墜落事故に話題が移り、TV局報道部長と全国紙支局長の二人の話に、皆の顔が神妙になった。

「乗員乗客524名のうち520名もの人が死んだ。しかも、最後の最後までマスコミが墜落場所の確定に翻弄され続けた、一生忘れられない事故でしたよ」

その時はまだ30代。体力もエネルギーも溢れる時だったとうなづき合う二人は、たまたま長野県に赴任中でその事故に出会ったと言う。
「忘れもしない。ボクは彼女と二人でワインを飲んでいたんですよ。ポケットベルが鳴って、すぐに支局に戻れと指示が来て何事かと思いました。あの日は、珍しい流星が流れるという日だった」と、今はふさふさとした白髪が落ち着きと貫禄を感じさせる新聞社支局長。

「自衛隊の確認ミスが元で、墜落現場は長野県の川上村付近と、ずっと報道され続けていたんですよ。しかし、我々は、微かな炎上を確認しているのは群馬県側だと確信していた。なのに、東京の報道局の判断が優先される。そのときは地方局の情報なんて相手にもされなかった。結局、明け方になってようやく群馬県だと報道されたというわけです」昨日のことのように悔しそうに語る。

私にとっても、記憶に残る事故だった。
2週間の夏期休暇中、テントと自炊用具をもって友人と九州を回っていた。牛深市の公園で、トランジスターラジオをかけながら、コッヘルを火にかけ夕食の準備をしていると突然、「番組の途中ですが、」とニュースの声が介入した。日航機がレーダーから消えたことを告げる緊張感に満ちた速報だった。
バーナーの火を止め、思わずラジオに聞き入ったことを覚えている。乗客500人を乗せたジャンボ機が迷走するイメージが夜の公園の中でリアルに浮かんだ。

団塊の世代の二人は、当時の状況を意外なほど詳細に覚えていて、それぞれ途切れることなく語り続けた。墜落現場となった御巣鷹山を登ろうとして途中で挫折した報道関係者の多さを。山の木々の間に肉片を確認したときに背筋を走った戦慄の冷たさを。

「私の人生の中で一生忘れられない出来事。今でも数年毎に山に登って慰霊碑を参拝する」と。

二人を囲んだ中堅記者たちは、知識としてある事故の情報を頭の中で整理しながら、ときどき相槌を打つ程度で口を挟むことができない。

壮年の二人は、まるで戦地の緊張感と悲惨さを語る戦友のように遠い目をしていた。



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