浅田次郎原作『地下鉄(メトロ)に乗って』の初日を観ました。
しっとりとしたストーリの中に、消化できないやるせなさが残ったのは、昭和という過去の時代に対する許容力の欠如というより、原作に対するそれでした。
若い同僚女性<みち子>の部屋に通う妻子持ちの男<真治>。過去へのタイムスリップによって、真治と自分の血が繋がっていることを知ったみち子は、タイムスリップした世界で、自分を妊娠している母親を石段の上から落とすことを決意します。
浅田次郎が狙ったのは、「愛する人の幸せためになら、自分の命を犠牲にできる究極の愛」でしょうか。
そのみち子の行為が、母親の命をも消す危険があること、自分の存在が消えても真治には一切の記憶が残ること、の矛盾について、浅田次郎は語っていません。
真治に妻子がいることの現実ではなく、自分と兄妹であることの事実で、みち子が自分の存在を消すことの先にどのような未来が開けるのか、映画は伝えていません。
みち子は真治の目の前で、母親を抱えて石段を落ちていくのですから、その強烈なイメージは真治の記憶から生涯消されることはないはず。みち子が自死することにより自分の存在をはっきり焼き付けたいと考えているのであれば、この美しい物語が語ろうとしている本質からはずれてしまうので、そんなことは深く考えてはいけないのかもしれません。
その場を演出し美しく見えるだけの愛は苦手です。
主人公真治の、父親に対する確執が、タイムスリップで知る事実によってゆっくり解けていくストーリーで完結すれば、もっと素直に楽しめた映画でした。
↓映画評はこちらのブログにも
しっとりとしたストーリの中に、消化できないやるせなさが残ったのは、昭和という過去の時代に対する許容力の欠如というより、原作に対するそれでした。
若い同僚女性<みち子>の部屋に通う妻子持ちの男<真治>。過去へのタイムスリップによって、真治と自分の血が繋がっていることを知ったみち子は、タイムスリップした世界で、自分を妊娠している母親を石段の上から落とすことを決意します。
浅田次郎が狙ったのは、「愛する人の幸せためになら、自分の命を犠牲にできる究極の愛」でしょうか。
そのみち子の行為が、母親の命をも消す危険があること、自分の存在が消えても真治には一切の記憶が残ること、の矛盾について、浅田次郎は語っていません。
真治に妻子がいることの現実ではなく、自分と兄妹であることの事実で、みち子が自分の存在を消すことの先にどのような未来が開けるのか、映画は伝えていません。
みち子は真治の目の前で、母親を抱えて石段を落ちていくのですから、その強烈なイメージは真治の記憶から生涯消されることはないはず。みち子が自死することにより自分の存在をはっきり焼き付けたいと考えているのであれば、この美しい物語が語ろうとしている本質からはずれてしまうので、そんなことは深く考えてはいけないのかもしれません。
その場を演出し美しく見えるだけの愛は苦手です。
主人公真治の、父親に対する確執が、タイムスリップで知る事実によってゆっくり解けていくストーリーで完結すれば、もっと素直に楽しめた映画でした。
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