串田和美がフロイトを演じる「ヒステリア」を観た。
「ヒステリア~あるいは、ある脅迫神経症の分析の断片」は、串田和美・荻野目慶子・あさひ7オユキ・白井晃の4人が演じる悲喜劇。死期を悟ったフロイトの書斎兼診察室が舞台の全てだった。
フロイトの串田和美は茫洋と、荻野目慶子はヒステリックかつエロティックで観客を惹き込み、サルバドール・ダリ役の白井晃は饒舌過ぎる言動で笑いのつぼを巧みにくすぐった。
ノンストップの2時間公演の後、出演者4人が揃ってアフタートークに臨んだ。荻野目慶子の奔放なトーンと3人の抑えた語りのアンバランスが楽しい。
フロアーから「若い人は今日の作品をどこまでわかっただろうか」という質問が出た。「『難しい。わからない』と言う若者の声が聞こえた。私たちのような50代、60代はこういう不条理劇に慣れているけれど」と。
フロアーに向けた質問ではあったが、演出した白井晃がマイクを握った。「現代は『わかる』ことを重要視しているけれど、『感じる』ことも重視したい」と言葉を選びながら語り始めた。「演出したボクが伝えたいことと、観た人が感じたことは別でいい。作り手が意識していないことを感じることもあるだろう。変な芝居だったという感想でいい。家に帰って『あれはいったい何だったんだろう』と反芻することにも意味がある。わかることにどれほどの意味があるのだろうか」と。
メッセージの理解を強制する芸術家はどれだけいるだろう。作品は作り手個人の中で昇華され完結された結果なのかもしれない。手を離れた作品を鑑賞者がどう捉え理解するか、は、創り手にとってそうたいした問題ではないのかもしれない。
作者の手を離れた作品は、鑑賞者の自由な発想と受け止め方に委ねられる。作者の意図をあれこれ想像するのは鑑賞者の自由であり、勝手であると白井晃は言いたそうだった。
芸術は、意図と目的を明確にするという説明責任を負う行政とは全く別の存在なのだ。
芸術作品を「わかろう」とする人は、行政事業を「わかろう」とする人より遥かに多いことは確かである。
↓こちらには、芸術関係のブログも。
「ヒステリア~あるいは、ある脅迫神経症の分析の断片」は、串田和美・荻野目慶子・あさひ7オユキ・白井晃の4人が演じる悲喜劇。死期を悟ったフロイトの書斎兼診察室が舞台の全てだった。
フロイトの串田和美は茫洋と、荻野目慶子はヒステリックかつエロティックで観客を惹き込み、サルバドール・ダリ役の白井晃は饒舌過ぎる言動で笑いのつぼを巧みにくすぐった。
ノンストップの2時間公演の後、出演者4人が揃ってアフタートークに臨んだ。荻野目慶子の奔放なトーンと3人の抑えた語りのアンバランスが楽しい。
フロアーから「若い人は今日の作品をどこまでわかっただろうか」という質問が出た。「『難しい。わからない』と言う若者の声が聞こえた。私たちのような50代、60代はこういう不条理劇に慣れているけれど」と。
フロアーに向けた質問ではあったが、演出した白井晃がマイクを握った。「現代は『わかる』ことを重要視しているけれど、『感じる』ことも重視したい」と言葉を選びながら語り始めた。「演出したボクが伝えたいことと、観た人が感じたことは別でいい。作り手が意識していないことを感じることもあるだろう。変な芝居だったという感想でいい。家に帰って『あれはいったい何だったんだろう』と反芻することにも意味がある。わかることにどれほどの意味があるのだろうか」と。
メッセージの理解を強制する芸術家はどれだけいるだろう。作品は作り手個人の中で昇華され完結された結果なのかもしれない。手を離れた作品を鑑賞者がどう捉え理解するか、は、創り手にとってそうたいした問題ではないのかもしれない。
作者の手を離れた作品は、鑑賞者の自由な発想と受け止め方に委ねられる。作者の意図をあれこれ想像するのは鑑賞者の自由であり、勝手であると白井晃は言いたそうだった。
芸術は、意図と目的を明確にするという説明責任を負う行政とは全く別の存在なのだ。
芸術作品を「わかろう」とする人は、行政事業を「わかろう」とする人より遥かに多いことは確かである。
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