香竹日記

書道の奥深さを楽しんでいます

『鐵齋・八一の文人世界』 新潟に行って来ました🚅

2024-09-13 21:13:36 | 国内旅行
2024年9月8日(日)~9日(月) 新潟市に行って来ました🚅

富岡鐵齋(1837~1924)と
會津八一(1881~1956)  のお二人ともに学芸に身を投じ、それぞれが
独自の世界を切り開き、凄まじ いまでの人生を送っております。



大正13年の大晦日、近代日本画の巨匠富岡鐵齋がその生涯を閉じて今年は丁度百年になる。


會津八一記念館でもこれを記念し
「富岡鐵齋没後百年記念 鐵齋・八一の文人記念展」が開催されました。



ここの館長さんが野中吟雪先生でしたので、安藤先生の個展にもお出で下さった関係で、勝手に親しさも感じて思い切って
館長の野中吟雪先生の 「鐵齋・八一の作品解説会」 を聞くためと

跡見学園女子大学文学部教授 横田恭三先生の文芸講演会
「八一がみた中国古代金石」を聞くために


急遽新潟市に出かけることにしたのです。



早速、書縁會の新潟県にお住いの仲間に連絡していろいろ助けてもらうことにし、バタバタと準備にとりかかりました。
何でもない日常だけでも相当多忙な私、さてどうなりますかね。




9月8日(日)朝6時01分富士急行線月江寺駅発
(自宅からゆっくり歩いて15分で駅に到着)
勿論、無人でした → 乗車券は電車に乗ってから車掌さんが巡回して来てくれますのでそこで購入します。






なんとまぁ 日本晴れです!
駅のホームから富士山をみてー🗻




途中、大月駅~高尾駅~乗り換え無しで~東京駅に8時32分到着
東京駅にてちょこっとブラブラと気分転換して



朝ご飯買ってみました→ 古市庵のお寿司はこちらです







9時12分発 JR上越新幹線 とき311号
 




東京駅始発なので自由席でも充分ゆとりがあり、
快適なうちに10時41分新潟駅到着🚅 
※東京🚅新潟間は1時間29分でした。案外近いんですね。



新潟駅ホームで丹羽先生が手を振ってくれていました。
あぁ~ひと安心です。。



_文人の書につづく_

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古都奈良三人旅ー6(飛鳥寺、酒船石遺跡 等 巨石文化の跡)

2020-04-20 15:31:19 | 国内旅行
☆奈良の旅3日目ー2
2019年11月11日(月)

〇 飛鳥寺
用明天皇2年(578年)仏教の受容を強く推進していた蘇我馬子は飛鳥寺の建立を発願。
その翌年、朝鮮半島の百済からは、崇峻天皇に仏舎利が奉献され、同時に僧6人を始め、寺工2人、鑪盤博士1人、瓦博士4人、画工1人が派遣されてきました。

仏教伝来の大きな意味は、単に仏教が伝わったというだけではなく、それを取り囲む仏教文化全体と当時の最先端技術が伝来したことにあります。

🚖 樫原神宮前駅からタクシーで飛鳥寺に向かう間、田園風景でのどか、、、
季節も秋、柿の実が日に映えて、今こうして目にするものがいにしえの時代にも同じようであったろうか、、、などと頭をめぐらせているうちに飛鳥寺に着きました。


〇 釈迦如来坐像(重文) 飛鳥時代・銅造
この仏像は、我が国の現存する最古の釈迦如来像とされていて、その開眼供養は609年です。
作者は法隆寺釈迦三尊像の作者でもある鞍作止利(くらつくりのとり)という人物であります。


       

嘗て聖徳太子の師といわれる高句麗の高僧恵慈や寺の完成時に来朝した百済の高僧恵聡などがこの寺に住んで本格的な教学研究の場となっていました。

そして、その後推古天皇33年(625年)高句麗僧恵灌が入り我が国に初めて体系的な仏教教学を伝え、さらに斉明天皇7年(661年)当時の僧道昭が唐留学を終え帰朝して玄奘三蔵より学んだ唯識説(法相宗)を初めて伝えています。

さらに天平期には当時の僧智光が三輪宗の「空」の概念から、後の浄土思想の源流となる思想を独自に展開したという。

これらの史実が示す通り、日本仏教はこの寺から全て出発し発展していて、まさに日本仏教のルーツはこの寺にある。と言えます。。


靴を脱いで本堂に入らせて頂くと、釈迦如来坐像が手の届くところにあり、ここでゆっくり三人で座して、1400年前の聖徳太子に思いを馳せたりして、、、旅のひとときを楽しみました。


やっぱり 釈迦如来坐像の横にはこの人 聖徳太子16歳の時、
父用明天皇の病気平癒のご祈祷をされているお姿の像
       


飛鳥寺近くにある「蘇我入鹿首塚」も見てきましたが、

曽我と小綱生まれの者は多武峰(談山神社)には決して参拝せず、縁組もしないとされた、筋金入りの鎌足嫌いな蘇我一族とゆかりの深い人たちの話とか

入鹿の首は切られてもなお飛び跳ねたという日本史上一大事件の「乙巳の変」の話とか、 ここでは割愛する。
  
   ↓

秋深い晴天の午後、嘗て蘇我蝦夷や中大兄皇子たちも歩いただろう野の道を三人で、テクテク歩いて・・・
  
   

〇 酒船石遺跡(さかふねいしいせき)

今は、きれいに整備されていて歩きやすい
ここを登って行く
        


すると小高い丘の上の少々鬱蒼としたジメジメ感のある場所にあった

 

ほぼ東西で長さ 5.5m  幅(南北)約 2.3  厚さ 1

酒船石のある丘陵全体は自然のままではなく、人工的な丘である。

巨石を自在に移動させた形跡、非常に鋭利な石の切り口
飛鳥時代には謎の巨石文化が発達したのでしようか・・・

  ↓ 🚖 タクシー

石舞台古墳 蘇我馬子の墓と伝えられている
        

飛鳥時代592年~710年の118年間にかけて奈良の飛鳥に宮・都が置かれていた時代、この短い期間にこのような巨石文化が発達したことは謎多きことです。
因みに、聖徳太子は574年2月7日~622年4月8日 政治の中枢で活躍されていました。

   ↓ 🚖 タクシー
タクシーの運転手さんは観光地の説明が慣れていて、お陰様で楽しくこの辺りの巨石の跡を回ることができました。
  
   ↓
   
15:07 樫原神宮前駅
     ↓ 🚊
 京都駅 ※ここではいろいろお買い物
    ↓ 🚅 新幹線
 三島駅
    ↓ 🚙 Cさん運転で帰路に

20:30ごろ自宅 いい旅をありがとう♡


<旅行感想>
奈良という土地と,そこで1400年も重ねてきた歴史、言葉で言えないもどかしい感想・・・

バタバタとすぎる日常からほんの3日間、悠久の歴史を垣間見させて頂いたわけですが、心の奥になんとも温かい、豊かな感情が目覚めてくれてたら嬉しいのです。

帰ってから にわか奈良好きとなり、光明皇后と三体の観音像の話、楽毅論の臨書作品は勿論。 
持統天皇の一生と藤原不比等の台頭、 
それになんといっても聖徳太子につきましては出生の秘密から謎めいて、その一生と未来記、法隆寺全体が太子の供養塔といわれる以所、、、等々。

ただ日本の歴史を読むと、天皇のお名前、その同じ人の子供時代のお名前とか、誰が誰と結婚してそのまた両親は???これが慣れてくるまでがなんとも・・・

ちょちょっとほんの一部回っただけでしたので、此処も行きたい、あそこも行きたい、もっと時間をほしい、、、とか思ってしまいます。
それと、仏像に関してろくな知識もありませんが、日本の美術として相当高い価値を感じました。
日本人として世界に誇っていいなと、こころから感じています。

そして同行のお二人さん、笑える場面ばかりが浮かんできますが、お疲れ様でした いつもいつも ありがとう♡


※旅に際して以下の著書を携えて大変参考にさせて頂きました。お礼を申し上げます。
入江泰吉と歩く『大和路仏像巡礼』 入江泰吉・田中昭三
『土門拳の古寺巡礼』他写真集各種
其の他、ネット上の多くの情報





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古都奈良三人旅―5(長谷寺~)

2020-04-17 21:55:56 | 国内旅行
☆奈良の旅3日目ー1
2019年11月11日(月)

 8:48 近鉄奈良駅
 ↓  🚊
 9:58 長谷寺駅
 ↓  🚖 タクシー
10:20 長谷寺


〇 長谷寺
真言宗豊山派総本山

長谷寺に残されている『銅板法華説相図』(国宝)という貴重な資料によれば、朱鳥元年(686年)道明という僧がその銅板を天武天皇の為に今の五重塔近くの西の岡に安置したという、それが「本長谷寺」の成立とされている。

その後神亀4年(727年)聖武天皇の発願により僧徳道が今の本堂のある東の岡に伽藍を造営し十一面観音像を祀った。こうして「後長谷寺」が誕生し現在の隆盛につながっていく。


399段の登廊(重文)を登りきると
       



本堂があり
        
この本堂の左側の奥に十一面観音立像はおわします


   
祟りがある、不吉な事があるといい、長い間人々から恐れられていた大きな古木がありまして、、、この古木の話を聞いた徳道上人は、そのような霊験あらたかな木こそ御衣木(仏像彫刻の用材)に最もふさわしい、とその楠の大木を譲り受けました。

そして徳道上人は15年間修行に励み、祟りのあるその古木を神仏の力で霊木となし、その後それを彫って十一面観音立像を造ったそうです。


十一面観音立像(重文) 室町時代 木造・漆箔
   
提供 長谷寺

不思議なことに、私達三人がこの十一面観音立像の御足に触れてお参りさせて頂いていますと、とたんに、本当にちょうどその時、外では雷鳴が轟き、大粒の雹が一瞬にしてどしゃぶりとなってしまいました。

登ってくるときは晴れていて暑く、あせを拭きながら来たのに、、、

       

さて、どうしましょう帰れなくなってしまいました

でも、なんとなく直ぐに止むと思って、本堂にいらした僧侶の方々のご厚意に甘え、暫くここで休ませて頂く事にしました。

本堂の中
           
暫くするとすると、やっぱり、、、
さぁっと雲が去り山々が姿を現し青空がもどって来ました。

そこで、懸崖造になっているところに出てみましたら
                          
                     縦1.3m × 横3.8m

ええええー 金箔仕上げの巨大な刻字の扁額ではありませんか
先ほどの突然の雹といい 驚きの連続です、
よくよく見ましたら 大久保翠洞先生の作。
現・刻字協会副会長中川先生(長谷寺の関係)のご縁でこちらにあったのでしょうか。

※大久保翠洞先生は日光輪王寺、ニューヨーク国連本部・・・等々にも作品がおさめられていまして、現在の毎日書道展刻字部門の創設者であり、日本刻字協会会長も歴任されております。


長谷寺で戴きました記念品 『美しい五色線』
       

やれやれ、
山にかかっていた靄が晴れ、辺りの山々は燃えるような紅葉の真っ盛りで、まるで仙境にいるかの様な風景の中の山道をくだり、ようやく寺の門前で昼食にありつけました。
三輪そうめんの温かいのと、柿の葉寿司🍚🍣・・・なんと美味しかったことでしょうか。

13:00 長谷寺門前
 ↓ 🚖 タクシー
13:15 長谷寺駅
 ↓ 🚊
13:40樫原神宮前駅
 ↓ 🚖 タクシー
13:55 飛鳥寺着


🚖 タクシーの運転手さんに突然大粒の雹に降られた、、、話をしましたら、「あなた方の中に凄い霊力の強い方がいらっしゃいます」と話されました・・・
ですが私達三人はまったくの霊感ゼロ、能天気な田舎人間でございます。。
                  

※入江泰吉と歩く『大和路仏像巡礼』の入江泰吉・田中昭三 を参照

                 
       ―飛鳥寺へつづく―



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古都奈良三人旅ー4(法隆寺、中宮寺)

2020-04-13 21:02:09 | 国内旅行
☆奈良の旅2日目ー2
2019年11月10日(日)

薬師寺
  ↓
12:00 西ノ京駅
  ↓   🚖 タクシー
12:25法隆寺 門前

(門前のお店で昼食)

〇 法隆寺 
『日本書紀』によれば、聖徳太子こと厩戸皇子(用明天皇の皇子)は、推古天皇9年(601年)、飛鳥からこの地に移ることを決意し、宮室(斑鳩宮)の建造に着手、
推古天皇13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだと言われている。

法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地であります。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺である。

皇極天皇2年(643年)、おりしも蘇我入鹿が山背大兄王子を襲った際に斑鳩宮は焼失したが、法隆寺はこの時は無事だったと考えられる。                         

13:00 法隆寺見学スタート

〇 法隆寺 中門(国宝)
この門は正面柱間が4間で、真ん中に柱が建っていることで特異
建物の入り口の門に堂々と大きな柱が建っていることはなぜだろうか?
このことで、学者は諸説推論を展開していますが、

梅原猛氏は著書『隠された十字架』で法隆寺は王権によって子孫(山背大兄王ら上宮王家)を抹殺された聖徳太子の怨霊を封じ込めるための寺なのではないかとの説を主張した。

しかし歴史研究者の間では、一般的な怨霊信仰の成立が奈良時代末期であることなどを指摘し、概ね梅原説には批判的であったようです。

ここで私は『隠された十字架』というタイトルに惹かれてこの本をよくよく読みましたが、結局のところ聖徳太子の出生からして、確証は得られず、何故十字架なのか?
600年、607年と遣隋使を派遣し、仏教を広めたではないか。。


〇 五重塔(国宝)
      
                           
〇 法隆寺 金堂(国宝)

〇釈迦三尊像(国宝)  飛鳥時代・銅造鍍金
推古天皇29年(621年)12月、聖徳太子の母 間人皇后(はしひとこうごう)が亡くなり、翌年太子と后が重い病に伏した。

その病気平癒を祈って、聖徳太子等身大 の釈迦像造立が発願されたのですが、

2か月後の2月21日に后が亡くなり、 翌22日に太子も亡くなった。
※推古30年2月22日は 西暦622年4月8日です。

そこで、翌623年発願通りに鞍首止利(くらつくりのおびととり)仏師に釈迦三尊を造立させた。
この釈迦三尊像は止利仏師の代表作であるとともに、この時代の仏像研究の基準作となっている。


〇 鞍首止利仏師作 釈迦三尊像 (国宝)
中尊・釈迦如来
左脇侍(向かって右)薬王 ・ 右脇侍 薬上(やくじょう)
              


ここで、止利仏師策作の仏像には手本があるとされている。
目下モデルとされているのはの、北魏の都・洛陽の近くの龍門石窟の中の賓陽中洞の本尊で摩崖仏と言われています。

北魏・賓陽中洞の本尊 釈迦牟尼仏 高さ8.4メートル
        

洛陽の龍門石窟にも何回か行っていますが、凄い霊気が集まっている場所で、この釈迦牟尼仏は、賓陽中洞の本尊です。 
何故か、親しみを感じる・・・

※ ここ 龍門石窟は北魏楷書の宝のありかでもあります。
龍門二十品の内十九品はここの古陽洞にあり,あと一品の「比丘尼慈香慧政造像記」は慈香洞に刻されています。


          ↓

〇 法隆寺 聖霊院(国宝)
 聖徳太子像(国宝)平安時代末期・木造 彩色
   ↓
〇 法隆寺 大宝蔵院
 百済観音立像(国宝) 飛鳥時代・木造 彩色

 ※夢違観音立像(国宝) 白鳳時代・銅造 鍍金
 ※イギリスへ出張中で不在

〇 回廊(国宝)
       
なぜだろう、ここに佇みたくて今回の旅を計画したくらい、この回廊が好きです。


◎ 法隆寺東院伽藍
東院伽藍は聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮の跡に建立された。
739年 斑鳩宮が荒廃しているのを見て嘆いた行信僧都が斑鳩宮の旧地に太子を偲んで建立したものである。

〇 夢殿(八角堂)・国宝
        

夢殿 写真右側から中を覗いて見ています 公開中の秘仏
            ↓
〇 救世観音立像(国宝)
              
(法隆寺夢殿救世観音立像より)
聖徳太子の等身大像とされる 像の高さは178.8㎝

この像は数百年間公開されなかった厳重な秘仏で、1884年(明治17年)国より調査の委嘱を受けたアメリカ人アーネスト・フェノロサが寺に頼み込んだが、僧たちは開けると「大地震が起きてこの世が滅ぶ、、、」とまで言って懼れたそうです。

しかし、漸く説得が功を奏してついに逗子を開けてみると幾重もの白い木綿で覆われた何だかわからなもののようでした。
丁寧に布を巻き取り、、、最後の布を取り除くとそこには畏怖さえ抱く様な笑みをたたえた救世観音像が現れたのです。。
その瞬間、その場に居合わせた人達は息をころして見つめたのでしょうか・・・ 

保存状態が良く、当初のものと思われる金箔が多く残っていました。

ちなみに秘仏が巻かれていた白い布は、500ヤード(約457メートル)もの長さがあったとのことですが、
おかげで今私達は、春と秋の年に2回公開される恩恵にあずかることが出来ています。

※私達3人も最高のタイミングで、ドキドキじっくり見てきました♡

この像はクスノキの一木彫刻で、漆を塗り金箔を押して仕上げています。
ところが彫った仏師は、仏の完成後まもなく原因不明の死を遂げたらしい。 う~ん 謎多き秘仏ですね。


※フェノロサはハーバード大学哲学科を首席で卒業され、後に25歳で東大で教授として招かれ来日、法隆寺の救世観音立像を見た翌年にはキリスト教徒を捨てて仏教徒となりました。

明治政府は廃仏毀釈「西洋に追いつけ追い越せ」という風潮のせいで、自国の文化を過剰に卑下する傾向があり、

そのため、各地の仏像やお寺がむやみやたらと壊されていました。

南方熊楠も猛反対した神木の伐採などもこれにあたると考えられます。

この時期にいたドイツ人医師ベルツも「自国の文化を捨てて西洋に媚びるとは嘆かわしい」と記しています。

変な話、パリのルーブル美術館で『スリに気を付けてください📣 と言われながら見たモナ・リザの微笑み』は文句なしの美術品ですが、

しかし、今こうして歴史、文化を紐解く手立てを残してくれている大和の多くの仏像や建物はというと、
極めて高度な造形芸術であり、崇高なる人々の祈りの対象でもあり、

これはまさしく日本人の精神(魂)が揺さぶられる存在そのものであると私は考えます。


さてここで、謎の話しを少し書き留めておきます。


その1
写真家土門挙さんの「古寺巡礼」において、、、
・・・前略・・・
夢殿の中に、何か人の気配が、感じられるのである。
あのひとが、気息をこらして、結跏趺坐しているきびしい気配が感じられるのである。
聖徳太子は生きている。今も夢殿の中に金人の天啓を待ちながら、静かに禅定にはいっている。・・・後略
※金人:金色の人の意、仏陀や仏像のこと



その2 
日本紀略(にほんきりゃく・平安時代に編纂された歴史書)によりますと、天皇陛下が催事の時に着られます、『黄櫨染(こうろぜん)』という染め物の儀式用の着物があり、歴代の天皇陛下がお召しになった、黄櫨染は、京都・広隆寺の秘仏である聖徳太子像に着せてから保管される風習があるそうです。
天皇継承の跡目争いでの無念があったのでしょうか。
歴代の天皇が太子への鎮魂の思いをかけているのであれば、日本という国はなんと情けを掛ける国柄であることかと感じます。。
       
      
提供 広隆寺



その3 
大阪の四天王寺・推古天皇元年(593年)聖徳太子が建立のこの寺には嘗て、聖徳太子が書いたとされる『未来記』が、あったとされる。
未来記は予言書であり、内容は現在~未来迄、かなり正確な予言が書かれていると思われている。 だがここでは割愛する。。


   ↓

〇 中宮寺本堂  弥勒菩薩半跏像(国宝) 飛鳥時代 木造・彩色
※拝観は16時まで

         

会津八一歌
みほとけの あごとひぢとに あまでらの
 あさのひかりの ともしきろかも
   
    ↓

法隆寺門前のお茶屋で三人三様の手作り和菓子を注文し,ほっとひと息 🍵   ちなみに私は吉野の本葛での ” くずきり ”

  
バス 法隆寺門前
  ↓ 🚍
JR 法隆寺駅
  ↓ 🚆
JR 奈良駅
  ↓ 👣
お宿に到着♨

                  ―長谷寺に つづくー



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古都奈良三人旅ー3(秋篠寺、薬師寺~)

2020-04-12 22:30:52 | 国内旅行
☆奈良の旅2日目ー1    
2019年11月10日(日)

9:00 旅館・飛鳥荘出発 
     ↓ タクシー🚖
9:28 秋篠寺着    
     ※ 拝観は9時30分から

〇秋篠寺 
創建の正確な時期や事情は正確にはわかっていないが、776年光仁天皇の勅願により、興福寺の僧・善珠が創建したともいわれていて、光仁天皇の皇子で平安京遷都を決行した桓武天皇がこの秋篠寺の伽藍を奈良時代最後の官寺にふさわしい広大な規模に整えたと言われています。

🚖 猿沢の池から来ると、タクシーはのどかな風景を見ながら走り
やがて車がすれ違うのもスレスレな狭い道を通ってようやく到着します。 通り抜ける穏やかな風が心地良い 静かな集落、、、

しかしすぐ近くにあるバス停で帰りの時間をしっかりチェックしてから南門へ
うわぁ~紅葉が真っ盛り、で私達を迎えてくれました。

       

いざ境内へ、すると入って来た門のところとは打って変わって緑の絨毯が一面に広がっているではありませんか、

そして大きな樹木の間から木漏れる陽が苔を優しく照らしてくれています。

      

ふと足を止めると、時間までもが止まったかのような辺りの気配、

すっかり身心も浄化されいよいよ 今朝のクライマックス伎芸天立像
のある本堂(国宝)へ

〇 伎芸天立像(重文)
仄暗い明りの中でのご対面。。
嘗て20代の頃友人のKさんと一緒に訪れた時以来ですが、同じ仏像に出会っていても、こちら側が違った時空を超えて来て見ますと、
まるで初めて出会っている様な気持ちになり、
辺りに漂う気配までをもしっかりと受け止めた感覚になってしまいます。

2メートルを超える大きな像に圧倒される訳でもなく、
豊かでしっかりとした温もりに包まれている様で、とても心地良いひとときが記憶に残りました。。

  


又いつか、ゆっくりと来てみたい仏像です♡

伎芸天はヒンズー教の最高神シバ神が音楽に興じているときに、その髪の生え際から現れ、見事な演奏をしたといわれていて、

堀辰雄が「東洋のミューズ」と絶賛して依頼、特に女性に親しまれているそうです。

☆会津八一の歌
あきしのの みてらをいでて かえりみる
 いこまがたけに ひはおちむとす
 

10:21 大和西大寺
     ↓ 🚊2駅
10:25 西ノ京

〇薬師寺
『日本書紀』に天武天皇9年(680年)、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願した、とある。

この薬師寺は創建時、藤原京の地に有った。

その後710年、平城京への遷都に際して、薬師寺は飛鳥から平城京に移転した。
私の好きな東塔(三重塔)は730年に完成したと思われる。

〇薬師寺金堂
                  

1960年代以降、名物館長として知られた高田好胤(たかだこういん)が中心になって写経勧進による白鳳伽藍復興事業がすすめられ、現在の薬師寺金堂が1976年に再建されました。

偶々私は、この高田好胤による再建までの凄ましいエネルギーの様子をドキュメンタリー番組で見ることができたのです。

〇 薬師三尊 天平時代 国宝・銅造
中尊は薬師如来坐像、
薬師如来坐像仏足として左足の紋様も貴重な作

左脇侍(向かって右)に日光菩薩 ・ 右脇侍に月光菩薩

       

天武天皇が鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願して建立したしたとあって、三人旅の私達も厳かに手を合わせるのでした。。

〇 東塔(国宝)


         

現在、寺に残る建築のうち、奈良時代(天平年間)にさかのぼる唯一のもの。
私達が訪れた時、修理中で、シートがかかっておりました。

そして丁度今、2020年4月に大修理落慶法要がしめやかに執り行われる予定でしたが、
新型コロナウィルスによる感染拡大防止のため延期となりました。

収束を願うばかりです。。   
   ↓
薬師寺南門前 「奈良漬の寿吉屋」

ここで、始めて奈良漬けのお土産購入
添加物を使わず、素材にこだわった美味しい奈良漬けで有名
       
   ↓

西ノ京の駅まで戻り タクシーで法隆寺へ
  ↓ 🚖 20分ぐらい
法隆寺の 門前へ


                 ―いよいよ法隆寺へ つづくー


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