香竹日記

書道の奥深さを楽しんでいます

古都奈良三人旅ー4(法隆寺、中宮寺)

2020-04-13 21:02:09 | 国内旅行
☆奈良の旅2日目ー2
2019年11月10日(日)

薬師寺
  ↓
12:00 西ノ京駅
  ↓   🚖 タクシー
12:25法隆寺 門前

(門前のお店で昼食)

〇 法隆寺 
『日本書紀』によれば、聖徳太子こと厩戸皇子(用明天皇の皇子)は、推古天皇9年(601年)、飛鳥からこの地に移ることを決意し、宮室(斑鳩宮)の建造に着手、
推古天皇13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだと言われている。

法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地であります。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺である。

皇極天皇2年(643年)、おりしも蘇我入鹿が山背大兄王子を襲った際に斑鳩宮は焼失したが、法隆寺はこの時は無事だったと考えられる。                         

13:00 法隆寺見学スタート

〇 法隆寺 中門(国宝)
この門は正面柱間が4間で、真ん中に柱が建っていることで特異
建物の入り口の門に堂々と大きな柱が建っていることはなぜだろうか?
このことで、学者は諸説推論を展開していますが、

梅原猛氏は著書『隠された十字架』で法隆寺は王権によって子孫(山背大兄王ら上宮王家)を抹殺された聖徳太子の怨霊を封じ込めるための寺なのではないかとの説を主張した。

しかし歴史研究者の間では、一般的な怨霊信仰の成立が奈良時代末期であることなどを指摘し、概ね梅原説には批判的であったようです。

ここで私は『隠された十字架』というタイトルに惹かれてこの本をよくよく読みましたが、結局のところ聖徳太子の出生からして、確証は得られず、何故十字架なのか?
600年、607年と遣隋使を派遣し、仏教を広めたではないか。。


〇 五重塔(国宝)
      
                           
〇 法隆寺 金堂(国宝)

〇釈迦三尊像(国宝)  飛鳥時代・銅造鍍金
推古天皇29年(621年)12月、聖徳太子の母 間人皇后(はしひとこうごう)が亡くなり、翌年太子と后が重い病に伏した。

その病気平癒を祈って、聖徳太子等身大 の釈迦像造立が発願されたのですが、

2か月後の2月21日に后が亡くなり、 翌22日に太子も亡くなった。
※推古30年2月22日は 西暦622年4月8日です。

そこで、翌623年発願通りに鞍首止利(くらつくりのおびととり)仏師に釈迦三尊を造立させた。
この釈迦三尊像は止利仏師の代表作であるとともに、この時代の仏像研究の基準作となっている。


〇 鞍首止利仏師作 釈迦三尊像 (国宝)
中尊・釈迦如来
左脇侍(向かって右)薬王 ・ 右脇侍 薬上(やくじょう)
              


ここで、止利仏師策作の仏像には手本があるとされている。
目下モデルとされているのはの、北魏の都・洛陽の近くの龍門石窟の中の賓陽中洞の本尊で摩崖仏と言われています。

北魏・賓陽中洞の本尊 釈迦牟尼仏 高さ8.4メートル
        

洛陽の龍門石窟にも何回か行っていますが、凄い霊気が集まっている場所で、この釈迦牟尼仏は、賓陽中洞の本尊です。 
何故か、親しみを感じる・・・

※ ここ 龍門石窟は北魏楷書の宝のありかでもあります。
龍門二十品の内十九品はここの古陽洞にあり,あと一品の「比丘尼慈香慧政造像記」は慈香洞に刻されています。


          ↓

〇 法隆寺 聖霊院(国宝)
 聖徳太子像(国宝)平安時代末期・木造 彩色
   ↓
〇 法隆寺 大宝蔵院
 百済観音立像(国宝) 飛鳥時代・木造 彩色

 ※夢違観音立像(国宝) 白鳳時代・銅造 鍍金
 ※イギリスへ出張中で不在

〇 回廊(国宝)
       
なぜだろう、ここに佇みたくて今回の旅を計画したくらい、この回廊が好きです。


◎ 法隆寺東院伽藍
東院伽藍は聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮の跡に建立された。
739年 斑鳩宮が荒廃しているのを見て嘆いた行信僧都が斑鳩宮の旧地に太子を偲んで建立したものである。

〇 夢殿(八角堂)・国宝
        

夢殿 写真右側から中を覗いて見ています 公開中の秘仏
            ↓
〇 救世観音立像(国宝)
              
(法隆寺夢殿救世観音立像より)
聖徳太子の等身大像とされる 像の高さは178.8㎝

この像は数百年間公開されなかった厳重な秘仏で、1884年(明治17年)国より調査の委嘱を受けたアメリカ人アーネスト・フェノロサが寺に頼み込んだが、僧たちは開けると「大地震が起きてこの世が滅ぶ、、、」とまで言って懼れたそうです。

しかし、漸く説得が功を奏してついに逗子を開けてみると幾重もの白い木綿で覆われた何だかわからなもののようでした。
丁寧に布を巻き取り、、、最後の布を取り除くとそこには畏怖さえ抱く様な笑みをたたえた救世観音像が現れたのです。。
その瞬間、その場に居合わせた人達は息をころして見つめたのでしょうか・・・ 

保存状態が良く、当初のものと思われる金箔が多く残っていました。

ちなみに秘仏が巻かれていた白い布は、500ヤード(約457メートル)もの長さがあったとのことですが、
おかげで今私達は、春と秋の年に2回公開される恩恵にあずかることが出来ています。

※私達3人も最高のタイミングで、ドキドキじっくり見てきました♡

この像はクスノキの一木彫刻で、漆を塗り金箔を押して仕上げています。
ところが彫った仏師は、仏の完成後まもなく原因不明の死を遂げたらしい。 う~ん 謎多き秘仏ですね。


※フェノロサはハーバード大学哲学科を首席で卒業され、後に25歳で東大で教授として招かれ来日、法隆寺の救世観音立像を見た翌年にはキリスト教徒を捨てて仏教徒となりました。

明治政府は廃仏毀釈「西洋に追いつけ追い越せ」という風潮のせいで、自国の文化を過剰に卑下する傾向があり、

そのため、各地の仏像やお寺がむやみやたらと壊されていました。

南方熊楠も猛反対した神木の伐採などもこれにあたると考えられます。

この時期にいたドイツ人医師ベルツも「自国の文化を捨てて西洋に媚びるとは嘆かわしい」と記しています。

変な話、パリのルーブル美術館で『スリに気を付けてください📣 と言われながら見たモナ・リザの微笑み』は文句なしの美術品ですが、

しかし、今こうして歴史、文化を紐解く手立てを残してくれている大和の多くの仏像や建物はというと、
極めて高度な造形芸術であり、崇高なる人々の祈りの対象でもあり、

これはまさしく日本人の精神(魂)が揺さぶられる存在そのものであると私は考えます。


さてここで、謎の話しを少し書き留めておきます。


その1
写真家土門挙さんの「古寺巡礼」において、、、
・・・前略・・・
夢殿の中に、何か人の気配が、感じられるのである。
あのひとが、気息をこらして、結跏趺坐しているきびしい気配が感じられるのである。
聖徳太子は生きている。今も夢殿の中に金人の天啓を待ちながら、静かに禅定にはいっている。・・・後略
※金人:金色の人の意、仏陀や仏像のこと



その2 
日本紀略(にほんきりゃく・平安時代に編纂された歴史書)によりますと、天皇陛下が催事の時に着られます、『黄櫨染(こうろぜん)』という染め物の儀式用の着物があり、歴代の天皇陛下がお召しになった、黄櫨染は、京都・広隆寺の秘仏である聖徳太子像に着せてから保管される風習があるそうです。
天皇継承の跡目争いでの無念があったのでしょうか。
歴代の天皇が太子への鎮魂の思いをかけているのであれば、日本という国はなんと情けを掛ける国柄であることかと感じます。。
       
      
提供 広隆寺



その3 
大阪の四天王寺・推古天皇元年(593年)聖徳太子が建立のこの寺には嘗て、聖徳太子が書いたとされる『未来記』が、あったとされる。
未来記は予言書であり、内容は現在~未来迄、かなり正確な予言が書かれていると思われている。 だがここでは割愛する。。


   ↓

〇 中宮寺本堂  弥勒菩薩半跏像(国宝) 飛鳥時代 木造・彩色
※拝観は16時まで

         

会津八一歌
みほとけの あごとひぢとに あまでらの
 あさのひかりの ともしきろかも
   
    ↓

法隆寺門前のお茶屋で三人三様の手作り和菓子を注文し,ほっとひと息 🍵   ちなみに私は吉野の本葛での ” くずきり ”

  
バス 法隆寺門前
  ↓ 🚍
JR 法隆寺駅
  ↓ 🚆
JR 奈良駅
  ↓ 👣
お宿に到着♨

                  ―長谷寺に つづくー



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古都奈良三人旅ー3(秋篠寺、薬師寺~)

2020-04-12 22:30:52 | 国内旅行
☆奈良の旅2日目ー1    
2019年11月10日(日)

9:00 旅館・飛鳥荘出発 
     ↓ タクシー🚖
9:28 秋篠寺着    
     ※ 拝観は9時30分から

〇秋篠寺 
創建の正確な時期や事情は正確にはわかっていないが、776年光仁天皇の勅願により、興福寺の僧・善珠が創建したともいわれていて、光仁天皇の皇子で平安京遷都を決行した桓武天皇がこの秋篠寺の伽藍を奈良時代最後の官寺にふさわしい広大な規模に整えたと言われています。

🚖 猿沢の池から来ると、タクシーはのどかな風景を見ながら走り
やがて車がすれ違うのもスレスレな狭い道を通ってようやく到着します。 通り抜ける穏やかな風が心地良い 静かな集落、、、

しかしすぐ近くにあるバス停で帰りの時間をしっかりチェックしてから南門へ
うわぁ~紅葉が真っ盛り、で私達を迎えてくれました。

       

いざ境内へ、すると入って来た門のところとは打って変わって緑の絨毯が一面に広がっているではありませんか、

そして大きな樹木の間から木漏れる陽が苔を優しく照らしてくれています。

      

ふと足を止めると、時間までもが止まったかのような辺りの気配、

すっかり身心も浄化されいよいよ 今朝のクライマックス伎芸天立像
のある本堂(国宝)へ

〇 伎芸天立像(重文)
仄暗い明りの中でのご対面。。
嘗て20代の頃友人のKさんと一緒に訪れた時以来ですが、同じ仏像に出会っていても、こちら側が違った時空を超えて来て見ますと、
まるで初めて出会っている様な気持ちになり、
辺りに漂う気配までをもしっかりと受け止めた感覚になってしまいます。

2メートルを超える大きな像に圧倒される訳でもなく、
豊かでしっかりとした温もりに包まれている様で、とても心地良いひとときが記憶に残りました。。

  


又いつか、ゆっくりと来てみたい仏像です♡

伎芸天はヒンズー教の最高神シバ神が音楽に興じているときに、その髪の生え際から現れ、見事な演奏をしたといわれていて、

堀辰雄が「東洋のミューズ」と絶賛して依頼、特に女性に親しまれているそうです。

☆会津八一の歌
あきしのの みてらをいでて かえりみる
 いこまがたけに ひはおちむとす
 

10:21 大和西大寺
     ↓ 🚊2駅
10:25 西ノ京

〇薬師寺
『日本書紀』に天武天皇9年(680年)、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願した、とある。

この薬師寺は創建時、藤原京の地に有った。

その後710年、平城京への遷都に際して、薬師寺は飛鳥から平城京に移転した。
私の好きな東塔(三重塔)は730年に完成したと思われる。

〇薬師寺金堂
                  

1960年代以降、名物館長として知られた高田好胤(たかだこういん)が中心になって写経勧進による白鳳伽藍復興事業がすすめられ、現在の薬師寺金堂が1976年に再建されました。

偶々私は、この高田好胤による再建までの凄ましいエネルギーの様子をドキュメンタリー番組で見ることができたのです。

〇 薬師三尊 天平時代 国宝・銅造
中尊は薬師如来坐像、
薬師如来坐像仏足として左足の紋様も貴重な作

左脇侍(向かって右)に日光菩薩 ・ 右脇侍に月光菩薩

       

天武天皇が鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願して建立したしたとあって、三人旅の私達も厳かに手を合わせるのでした。。

〇 東塔(国宝)


         

現在、寺に残る建築のうち、奈良時代(天平年間)にさかのぼる唯一のもの。
私達が訪れた時、修理中で、シートがかかっておりました。

そして丁度今、2020年4月に大修理落慶法要がしめやかに執り行われる予定でしたが、
新型コロナウィルスによる感染拡大防止のため延期となりました。

収束を願うばかりです。。   
   ↓
薬師寺南門前 「奈良漬の寿吉屋」

ここで、始めて奈良漬けのお土産購入
添加物を使わず、素材にこだわった美味しい奈良漬けで有名
       
   ↓

西ノ京の駅まで戻り タクシーで法隆寺へ
  ↓ 🚖 20分ぐらい
法隆寺の 門前へ


                 ―いよいよ法隆寺へ つづくー


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古都奈良三人旅ー2(東大寺ミュージアム、春日大社)

2020-03-12 14:57:33 | 国内旅行
奈良の旅1日目ー2    
2019年11月9日(土)

〇 東大寺ミュージアム
〇伝月光菩薩立像(国宝)奈良時代  ・ 伝日光菩薩立像(国宝)奈良時代
                             
東大寺 日光・月光菩薩立像  写真:(株)飛鳥園



こちらの二体の仏像も必ず見たかったものなので、かなり疲れてきていましたがここでゆっくり面会できました、

菩薩像とも2メートル以上もあり、材質は粘土なので衣類の曲線の美しさ、そして首から肩のラインはまるで生身の人間のような柔らかい流れ、、、

胸の前で合わせた両手の指の表情はこちらから触れたくなるような、ふくよかさで安心感が漂います。  
ずっと見ていたい 穏やかで清楚な雰囲気♡

    ↓

〇 東大寺南大門(国宝) 高さ25メートルにも及ぶ山門

門の左右に「金剛力士像」 正面から見て門の左側には阿形像、右側には吽形像が安置されていますが、これらは鎌倉時代の天才仏師である運慶が指揮をとり、快慶らとともにに彫り上げたものがダイナミックに配置されている。。

    ↓

〇 春日大社(平城京鎮護の神様・藤原氏の氏神)768年 奈良時代

平城京遷都にともない茨城の鹿島から 武甕槌命(タケミカズチノミコト)を迎えたのが春日神社のはじまりと言われています。

その後千葉の香取から 経津主命(フツヌシノミコト)、
大阪の枚岡から天児屋根命(アメノコヤネノミコト)と 比売神(ヒメガミ)を迎え
768年4つの神をまつって、今のような社殿ができました。


「藤原氏」の氏神として知られる春日大社はその「藤」にちなむ形で
「藤の神紋」を使用したり、「藤」づくしの神社として知られています。

有名な「砂ずりの藤」は鎌倉時代に近衛家から献木されたと言われており樹齢800年程だそうです。
20品種、200本の藤の花の季節には多くの人で賑わうことでしょう。。。

    ↓

さて、 朝 早かったせいで疲れてきて、ざっと見て帰ることとする。

    ↓

道路に出て路線バスに乗り🚌 奈良県庁前のバス停で下車

   ↓

又、興福寺の前を通って

   ↓

日も暮れて、興福寺の五重塔がライトアップされていて、折しも満月でした。

                           


〇 興福寺・五重塔(国宝)・・730年 光明皇后(藤原不比等の娘)が建立
塔は仏教の祖 釈迦の舎利ををおさめる墓標。
    
     ↓

「猿沢の池」の畔を歩き、
今宵と明日、二連泊するお宿「飛鳥荘♨」に到着

好立地のお宿で良かった♪ 食事は勿論お部屋で🍶🍚

お宿の露天風呂からは、すぐ近くの真正面に、先ほど通った興福寺五重塔のライトアップされた姿が ジャジャジャジャーン! 

素晴らしいです 感激(^_-)-☆


こうして一日目の夜は更けていきました。。

  
    
                  ー2日目につづくー




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古都奈良三人旅ー1(東大寺、興福寺~)

2020-03-10 23:06:18 | 国内旅行
令和元年(2019年)11月9日(土)~11日(月)の3日間 古都奈良の旅
この3日間の行程を記録として書き留めておくこととします。
おぼろげに去っていく記憶の片鱗を少しでも拾っておこうと思い綴ってみます。。

地元下吉田の中央区にて 平成7年に地域の婦人会の役員として始めて顔を合わせて知り合い、すぐに意気投合し、いいご縁を頂いたのでそれ以来食事をしたり、旅行に出かけたりの気ままな女性三人組として、今もお付き合いが続いていて、とっても大切な友人となっております♡

☆奈良の旅1日目-1

朝 6:00   中央銀行前・集合
          ↓  🚙 Cさんの車で出発🚙 
       7:15 三島駅着
    ↓       🚙 駅前の駐車場に入れます
  7:57 三島駅発
    ↓  🚅 新幹線「こだま」   
   11:50 近鉄奈良駅着
    ↓
  昼食 ※有名なお店はほとんど満席 予約無しでは無理かもね

  13:00 興福寺


〇 興福寺・・・藤原氏の氏寺として発展 710年 奈良時代

京都山科の藤原鎌足私邸に建立された山階寺が前身、
その山階寺(やましなでら)は天智8年(669)に藤原鎌足が重い病気を患った際に、夫人である鏡女王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために造営したものと伝えられており、

その後壬申の乱(672年)の後、飛鳥に都が移った際に、山階寺も移築され、その地名をとって厩坂寺(うまやさかでら)とされました。

さらに平城京遷都に伴い、藤原不比等の計画によって現在地に移転、以後藤原氏の氏寺として大いに繁栄。


国宝仏像は全国の13%が興福寺の仏像だそうです。

〇 興福寺   国宝館※阿修羅立像(国宝)734年 奈良時代

こちらの阿修羅像は聖武天皇と光明皇后との間の子で 基(もとい)親王 がモデルではないかと言われています、一歳にも満たないで夭逝され幼くして皇太子でした。そんな訳で優しい少年のような顔つきなのでしょう。
    
          




〇興福寺 北円堂(国宝) 721年 奈良時代

現存する八角円堂のうち最も美しいと称賛されるお堂
元明上皇と元正天皇が「長屋王」に勅命を発し藤原不比等の一周忌に建てたものと言われております。
ここは平城京を一望の下に見渡すことのできる一等地で、平城京造営の推進者であった藤原不比等の霊を慰めるには最良の場所とのこと。

〇北円堂・無著立像(国宝)

※この北円堂につきましては後日調べました。
次は是非とも訪れたいと思っております。



〇 東大寺・・・華厳宗大本山

〇 盧舎那仏坐像(国宝)752年 奈良時代
盧舎那仏は「華厳経」に説く「蓮華蔵世界」の中心的存在であり、世界の存在そのものを象徴する絶対的な仏である。

「続日本記」によれば河内国の知識寺(大阪府柏原市)でご本尊である盧舎那仏像を拝した光明皇后が聖武天皇に大仏造立を勧めたと言われております。
なおここで言う知識とは信仰を同じくする人々の集団である「同志」と言った意味です。

又、聖徳太子を専門に慰霊するために建立された「金鐘寺(こんしゅじ)」が、東大寺の前身といわれています。


聖武天皇とそのご母堂 藤原宮子(藤原不比等の子)は、災害・飢餓・疫病が継続したことにより、聖徳太子への慰霊をすることで収まると信じたようです。

その結果は、国家予算の大半を東大寺の建設に投入するという常識外れなことをなされました。

このように聖徳太子のご一族が滅ぼされたことは、歴代の天皇の畏れとして現代にまで影響をし続けたのです。

           
外国の方も多勢いて賑わっています  鹿はすっかり人になついて♪




〇 東大寺戒壇堂※広目天立像(国宝)・持国天・増長天・多聞天
        (四天王)他

戒壇堂の広目天像は帝釈天に観察と報告を行うために筆と巻物を持っています。
眼を細めにして遥か遠く、この世の隅々までも観察の眼を行き届かせているかの様である。

私は今回の旅でこの広目天像に会うのが楽しみで心躍る思いでおりまして、実は大好きな写真家大江泰吉氏の厳しい表情を想像しておりました。

そうしたらなんと、どの角度から見ても、又お堂の中を何回まわって来てみても、いつも優しい表情・・・

穏やかで 静か 温かくて やっぱり優しい・・・不思議

今度またここを訪れる機会に恵まれたなら、どんな感じの広目天にお目にかかれるかしら・・・と思う。。

 
  

うわぁーカッコイイです (⋈◍>◡<◍)。✧♡

       
                        ーつづくー
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