☆奈良の旅2日目ー2
2019年11月10日(日)
薬師寺
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12:00 西ノ京駅
↓ 🚖 タクシー
12:25法隆寺 門前
(門前のお店で昼食)
〇 法隆寺
『日本書紀』によれば、聖徳太子こと厩戸皇子(用明天皇の皇子)は、推古天皇9年(601年)、飛鳥からこの地に移ることを決意し、宮室(斑鳩宮)の建造に着手、
推古天皇13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだと言われている。
法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地であります。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺である。
皇極天皇2年(643年)、おりしも蘇我入鹿が山背大兄王子を襲った際に斑鳩宮は焼失したが、法隆寺はこの時は無事だったと考えられる。
13:00 法隆寺見学スタート
〇 法隆寺 中門(国宝)
この門は正面柱間が4間で、真ん中に柱が建っていることで特異
建物の入り口の門に堂々と大きな柱が建っていることはなぜだろうか?
このことで、学者は諸説推論を展開していますが、
梅原猛氏は著書『隠された十字架』で法隆寺は王権によって子孫(山背大兄王ら上宮王家)を抹殺された聖徳太子の怨霊を封じ込めるための寺なのではないかとの説を主張した。
しかし歴史研究者の間では、一般的な怨霊信仰の成立が奈良時代末期であることなどを指摘し、概ね梅原説には批判的であったようです。
ここで私は『隠された十字架』というタイトルに惹かれてこの本をよくよく読みましたが、結局のところ聖徳太子の出生からして、確証は得られず、何故十字架なのか?
600年、607年と遣隋使を派遣し、仏教を広めたではないか。。
〇 五重塔(国宝)
〇 法隆寺 金堂(国宝)
〇釈迦三尊像(国宝) 飛鳥時代・銅造鍍金
推古天皇29年(621年)12月、聖徳太子の母 間人皇后(はしひとこうごう)が亡くなり、翌年太子と后が重い病に伏した。
その病気平癒を祈って、聖徳太子等身大 の釈迦像造立が発願されたのですが、
2か月後の2月21日に后が亡くなり、 翌22日に太子も亡くなった。
※推古30年2月22日は 西暦622年4月8日です。
そこで、翌623年発願通りに鞍首止利(くらつくりのおびととり)仏師に釈迦三尊を造立させた。
この釈迦三尊像は止利仏師の代表作であるとともに、この時代の仏像研究の基準作となっている。
〇 鞍首止利仏師作 釈迦三尊像 (国宝)
中尊・釈迦如来
左脇侍(向かって右)薬王 ・ 右脇侍 薬上(やくじょう)
ここで、止利仏師策作の仏像には手本があるとされている。
目下モデルとされているのはの、北魏の都・洛陽の近くの龍門石窟の中の賓陽中洞の本尊で摩崖仏と言われています。
北魏・賓陽中洞の本尊 釈迦牟尼仏 高さ8.4メートル
洛陽の龍門石窟にも何回か行っていますが、凄い霊気が集まっている場所で、この釈迦牟尼仏は、賓陽中洞の本尊です。
何故か、親しみを感じる・・・
※ ここ 龍門石窟は北魏楷書の宝のありかでもあります。
龍門二十品の内十九品はここの古陽洞にあり,あと一品の「比丘尼慈香慧政造像記」は慈香洞に刻されています。
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〇 法隆寺 聖霊院(国宝)
聖徳太子像(国宝)平安時代末期・木造 彩色
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〇 法隆寺 大宝蔵院
百済観音立像(国宝) 飛鳥時代・木造 彩色
※夢違観音立像(国宝) 白鳳時代・銅造 鍍金
※イギリスへ出張中で不在
〇 回廊(国宝)
なぜだろう、ここに佇みたくて今回の旅を計画したくらい、この回廊が好きです。
◎ 法隆寺東院伽藍
東院伽藍は聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮の跡に建立された。
739年 斑鳩宮が荒廃しているのを見て嘆いた行信僧都が斑鳩宮の旧地に太子を偲んで建立したものである。
〇 夢殿(八角堂)・国宝
夢殿 写真右側から中を覗いて見ています 公開中の秘仏
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〇 救世観音立像(国宝)
(法隆寺夢殿救世観音立像より)
聖徳太子の等身大像とされる 像の高さは178.8㎝
この像は数百年間公開されなかった厳重な秘仏で、1884年(明治17年)国より調査の委嘱を受けたアメリカ人アーネスト・フェノロサが寺に頼み込んだが、僧たちは開けると「大地震が起きてこの世が滅ぶ、、、」とまで言って懼れたそうです。
しかし、漸く説得が功を奏してついに逗子を開けてみると幾重もの白い木綿で覆われた何だかわからなもののようでした。
丁寧に布を巻き取り、、、最後の布を取り除くとそこには畏怖さえ抱く様な笑みをたたえた救世観音像が現れたのです。。
その瞬間、その場に居合わせた人達は息をころして見つめたのでしょうか・・・
保存状態が良く、当初のものと思われる金箔が多く残っていました。
ちなみに秘仏が巻かれていた白い布は、500ヤード(約457メートル)もの長さがあったとのことですが、
おかげで今私達は、春と秋の年に2回公開される恩恵にあずかることが出来ています。
※私達3人も最高のタイミングで、ドキドキじっくり見てきました♡
この像はクスノキの一木彫刻で、漆を塗り金箔を押して仕上げています。
ところが彫った仏師は、仏の完成後まもなく原因不明の死を遂げたらしい。 う~ん 謎多き秘仏ですね。
※フェノロサはハーバード大学哲学科を首席で卒業され、後に25歳で東大で教授として招かれ来日、法隆寺の救世観音立像を見た翌年にはキリスト教徒を捨てて仏教徒となりました。
明治政府は廃仏毀釈「西洋に追いつけ追い越せ」という風潮のせいで、自国の文化を過剰に卑下する傾向があり、
そのため、各地の仏像やお寺がむやみやたらと壊されていました。
南方熊楠も猛反対した神木の伐採などもこれにあたると考えられます。
この時期にいたドイツ人医師ベルツも「自国の文化を捨てて西洋に媚びるとは嘆かわしい」と記しています。
変な話、パリのルーブル美術館で『スリに気を付けてください📣 と言われながら見たモナ・リザの微笑み』は文句なしの美術品ですが、
しかし、今こうして歴史、文化を紐解く手立てを残してくれている大和の多くの仏像や建物はというと、
極めて高度な造形芸術であり、崇高なる人々の祈りの対象でもあり、
これはまさしく日本人の精神(魂)が揺さぶられる存在そのものであると私は考えます。
さてここで、謎の話しを少し書き留めておきます。
その1
写真家土門挙さんの「古寺巡礼」において、、、
・・・前略・・・
夢殿の中に、何か人の気配が、感じられるのである。
あのひとが、気息をこらして、結跏趺坐しているきびしい気配が感じられるのである。
聖徳太子は生きている。今も夢殿の中に金人の天啓を待ちながら、静かに禅定にはいっている。・・・後略
※金人:金色の人の意、仏陀や仏像のこと
その2
日本紀略(にほんきりゃく・平安時代に編纂された歴史書)によりますと、天皇陛下が催事の時に着られます、『黄櫨染(こうろぜん)』という染め物の儀式用の着物があり、歴代の天皇陛下がお召しになった、黄櫨染は、京都・広隆寺の秘仏である聖徳太子像に着せてから保管される風習があるそうです。
天皇継承の跡目争いでの無念があったのでしょうか。
歴代の天皇が太子への鎮魂の思いをかけているのであれば、日本という国はなんと情けを掛ける国柄であることかと感じます。。
提供 広隆寺
その3
大阪の四天王寺・推古天皇元年(593年)聖徳太子が建立のこの寺には嘗て、聖徳太子が書いたとされる『未来記』が、あったとされる。
未来記は予言書であり、内容は現在~未来迄、かなり正確な予言が書かれていると思われている。 だがここでは割愛する。。
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〇 中宮寺本堂 弥勒菩薩半跏像(国宝) 飛鳥時代 木造・彩色
※拝観は16時まで
会津八一歌
みほとけの あごとひぢとに あまでらの
あさのひかりの ともしきろかも
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法隆寺門前のお茶屋で三人三様の手作り和菓子を注文し,ほっとひと息 🍵 ちなみに私は吉野の本葛での ” くずきり ”
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バス 法隆寺門前
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JR 法隆寺駅
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JR 奈良駅
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お宿に到着♨
―長谷寺に つづくー