浩氣塾稽古日誌

わびさびの空手道

武道の極めの正体

2019-12-22 07:00:00 | 日記

   空手道の本質は、技を極めることにある。基本でも形においてももちろん組手でも極めの足りない空手は見栄えがしないし、当然威力もない。だから普段の稽古でも極めのことはやかましく指摘される。しかし極めとはいったい何なのか、どういう具合にやれば極まるかと問われても、さて答えるのに窮するのである。極めは極めなのだからそれ以上の答えはない、といってしまえばそれまでである。寸止めとの区別をよく言われる。曰く寸止めと極めは違うのだと、極めは目標物の一寸手前で技を爆発させることにある、対し寸止めは目標物の手前で技を止めることにある、と。む、む、む、それではその爆発と止めでは体の使い方にいかなる違いのあるのか。そこを探求しないことには答えにならないような気がするのである。でないと協会空手は、極めの空手だと言ってみても空念仏と変わらないと断じられる恐れがあるからである。

 組手試合においては、軽いが速くて目標に的確にヒットしていれば技ありが取れ、試合で勝ち上がることができる。一方遅いがパワーがあり強烈な技が相手に極まれば相手は倒れるが技ありが取れないばかりか反則となる場合もある。この場合は当然その試合には負けてしまう。だから軽くても速い組手を目指せばいい、という訳には単純にはならないのだ。当然極め技の制御が必要なことは言うまでもないことだが、的確な極め技を俊敏に繰り出すだけでは実はほんとうの協会空手にはなってはいないのだ。形試合においても全く同様なことが言える。速くて緩急がすばらしく安定していて形がきれいであっても、やはり極めが活かされていないと空手をしているとは言えないのではないのか、と頭の中では理解できるのだ。

 さてその極めなのだが、極まったと思われたときの状態はどのようになっているのかまず考えてみよう。突きの場合、極まった瞬間は当然腕が伸びきっている。もっと厳密に言うと違うのだが、とにかく上腕三頭筋が伸びきっているはずで触ると固くなっている。対して上腕二頭筋はゆるんでいなければいけない。なぜなら上腕三頭筋(二の腕)は伸筋で物を押し出すときに緊張して力を出す。二頭筋の方は屈筋でいわゆる力こぶと言われるように、物を引き寄せたり持ち上げたりするときに曲げることにより入力の力として発揮されるのだ。腕を胸の前に出して伸ばせば外側の三頭筋が固くなり内側の二頭筋は柔らかいはずである。逆に曲げれば二頭筋が固くなり三頭筋がゆるむ。空手の突きにおいて力んだ状態は、この二頭筋に力こぶができている状態で、力が内向きにしか働かなくて突きが外へ伸びない。だから威力のある速い突きを出すには、三頭筋のみを働かす必要があるのだ。しかも脇を締めるというより背中の広背筋をのばすことにより(胸筋の脱力)さらに威力が高まる。もっというと脚のハムストリングス、ふくらはぎを伸ばしてその反動で腰を落とせばもっともっと威力が出せるのだ。中国武道では寸頸とよばれているものだ。

 しかし空手では拳を握る。拳を握ると二頭筋に力が入って伸筋である三頭筋の運動を妨げてしまう。この一見矛盾した力の分布が極めの正体のような気がする。三頭筋の伸筋を最大限のばしきったところで拳を強く握って二頭筋を働かせ、外向きに働いている力の運動に思い切り逆らうようにぶつけるのだ。こうすると物に激突したかのようなものすごい破壊力が生まれるのだ。この瞬間の動きがいわゆる極めなのではないのか。だからこの理屈で言えばたとえ対象物に攻撃技が当たらなくてもすばらしいエネルギーが生まれているのだ。

 と、頭の中では解析できてもそれをくまなく形や組手に活かし切るとなるととても容易なことではない。たとえば腕だけでも屈筋と伸筋を区別して動かすのも困難なのに、体中の筋肉を効率よく区別して動かすことなんか至難の業である。物を持ち上げたり引きつけたりする力より伸筋の物を押し出す力の方が実はパワーがあるのだ。そして年を取っても屈筋は力がなくなってもこの伸筋はあまり衰えない。空手がこの伸筋優位の武道であると言うことが、実は生涯空手が成り立つ証ではないかと気がつく。本当の力の出し方というのは屈筋が衰え始めたときにしかわからないというのも、これ武道空手の奥の深いところではないのか

続編 追突きの研究

2019-12-22 06:42:00 | 日記

身体の各部分の延長線は、すべて攻撃目標に対して正対していないといけない。大げさに言えば、脱力してあらゆる方向に向けられた身体の動きの不調和が一瞬にして調和の動きとなったときに最大の力が発揮される。これはまだまだ到達には程遠いずっと先にある自分の思い描く武道の境地だ。まずは追い突きでその境地に少しでも近づきたいものである。

運足の膝の倒し込み、軸足の引きつけと後ろ足のケリによる腰の押し出し。両腰は突きの目標を頂点とする底辺にあたり、突きの反作用をしっかりと受け止める役目を担うから、その底辺(つまり腰)をぐっと前へ押し出すことにより、より追い突きの威力は増すはずである。

 ここで問題なのが後ろ足のケリである。 追い突きの初速を速くしようとして後ろ足でける場合が多く見られるが、こうすると、前の軸足の膝が伸び上体が上に浮いた状態になってしまう。こうなるとスピードが出ないばかりか、相手に対する面積が大きくなり、つまり的が大きくなって非常に不利になってしまう。だから後ろ足で蹴って推進力をつけるのは避けるべきである。やはり体を小さくして位置エネルギーを生み出しその力で身体を押し出すようにした方がいい。つまり前膝を倒し込んで腰を落とし、落とした勢いで前に運足するのである。つまり身体を力で押し出すのではなく、身体の重心の位置そのものを移動するのである。手や脚などからだの末端部分を使って身体の中心にある重心を動かそうとするよりも、中心にある重心そのものを移動する方が遥かに小さな力ですむのは当然のことである。ただこの中心に位置する重心を動かすことはとてもむつかしい。なぜなら、重心とはあらゆる方向の力が釣り合っている状態で生まれるものだからである。人間の生理は本能的に不調和を嫌うものである。これを活かしてわざと身体の中に不調和を作り、身体の本能的な調和への動きを起こすエネルギーを利用するのである。

つまり前膝をいかに思い切りよく倒しこむことができるかにかかってくるのである。前膝を倒し込むということは素早く重心を前方へ移動させることができるということである。当然、前脚一本に全体重をかける訳だから、身体を収縮させてできるだけ素早くバランスを取らなければいけないのである。結局、この体の収縮こそが追い突きの要になるのではないだろうか。これはまた、突きだけでなく、蹴りについても言えそうである。

追突きの研究

2019-12-22 06:36:00 | 日記

  武道の基本は歩み足にあると思っている。柔術、剣術、居合などは古来から寄り足とか摺り足などではなく、普段の歩みに近い歩み足を使ってきた。それは戦う場が平坦な地の上であるとは限らないと言うことや、行動が普段の動きと異なればそれだけで見破られやすいからである。特に居合などは、歩み足一歩の間で、抜刀して斬って納刀しているのである。その居合の精神や身体操作を濃く受け継いでいると思われる空手において歩み足がその基本となるのは自然の流れではないか。

しかし最近の柔道や剣道、空手道の最も多く見られる足さばきは摺り足、寄り足、継ぎ足である。これはボクシングやレスリングなどでよく見られるが、空手道に於いてもそういう足捌きによる逆突き、刻突きが多用されるようになった。スピードを競う競技空手に適した技であり何よりも高校大学の期間の比較的短い間に即製できるからいっきに広まったのではないか。しかしより強く確実に相手を倒すということが本文であった武道の動きからは明らかに外れてしまっている。やはり歩み足を基本とした追い突きこそが武道の流れの本流なのではないかと考える。

とは言えなぜそういう本流の追い突きが競技空手といえども、本流になり得なかったのかということも考えてみる必要もある。その主な理由は、追い突きでは動きが大きくしたがって、スピードが遅いため相手に気がつかれやすいということが最大の欠点であった。では歩み足を基本とした居合は遅かったのかというと、そんなことは全く無いのである。それでは何が現在の追い突きを遅くしているのかというとそれは、歩み足そのものつまり、歩み足自体が変質してしまっていたからなのであった。

その一番大きな違いが体をひねってしまうことにある。体の捻りは、タメを作るともいうが、空手に限らずあらゆるスポーツでよく肯定的に使われる言葉である。しかし武道に於いてはためを作ることが予備動作になり、それが致命傷にもなりかねない場合もある。そのため古来の武道は、身体を捻らず主に重心移動のみで身体操作を行なってきた。ということで歩みも身体を捻らないいわゆるナンバ歩きが必要になってくるのだ。ナンバ歩きというとすぐ手と脚が同じ側を出す歩き方を思い浮かべる人が多いと思うが、手と脚が逆のナンバ歩きもある。そういう形式的なことでなく要は、身体を捻らずに摺り足気味で、体重移動を行いながら進む歩き方をするということである。実は追い突きはまさしくナンバ歩きを土台にしているのである。(と思う)

逆突きを6級あたりから習い始めるが、その時はまだ腰を回転して半身姿勢となることを教わる。上半身と下半身の動きの違いをはっきりと理解してもらうためである。それが1級くらいになると身体の締め特に太ももの伸縮を覚える。この時にためによる身体操作を覚える。初期の段階では、ためと反動を使った動きが大きく混同して上手く動きを身体の中に封じ込めることができないが、だんだんとためを作る身体操作ができるようになる。追い突きも前脚の引きつけと後ろ足のケリで体の伸縮による追い突きを行うことができる。正しくタメによる追い突きである。

しかしまだこの段階が仕上げではなく、さらにその上の段階があった。それが重心移動による追い突きだ。身体の中で新たなエネルギーを生み出す方法ではなく、すでにあるエネルギーを使う身体操作である。つまり筋肉内で生まれるタメのエネルギではなく、立っていることで生み出している身体の位置エネルギーを使うことである。体を沈めることによって位置エネルギーは即座に運動エネルギーへと変わる。これを使って追い突きをするのだ。

我々は無意識に立って歩き、手を振って何気なくバランスを保っている。この無意識の身体操作の中に実は大きなエネルギーがすでに内包されていたのだ。それが意識して体を動かそうとすると、不自然な力が身体の中に籠って、それが本来内包しているエネルギーの発露を妨げているのだ。そのため動きがぎこちなくしかもそんなに力強くもないのだ。だから力を抜くということが重要になってくる。

武道を修行するということは、新しい力を得ることではなく、自分の本来持っている力に気がつくこととそれを有効に使うことなのである。

割れの感覚を身につける

2019-12-22 06:29:00 | 日記

普段我々は 体を動かす時にどこをどうやって動かすかなんて考えずにただ進もうとした方向に自然と体は動いている。この感覚が最も基本でしかも正しい身体操作なのである。しかし無意識に行なっている身体操作なので、空手の動きの中でいざ、それと同じように動けと言われてもどうやっていいか戸惑い、考え悩んであげくガチガチの不自然な動きになってしまう。空手でもなんでも概ね武道の動きというものは、本来我々に備わっている動きか、たとえ高度な動きとなっても、それは他の動物の動きからヒントを得たものに過ぎない。何も特別な工夫とか修練を経なければ得られないというものではけっしてないものと考える。

攻撃を加える時の身体操作もそれを避ける時の身体操作も、じつは同じ動きなのである。最も安定したしかもどのようにも変化できる姿勢になることである。つまり最も有効な攻撃の体勢は、同時に万全の受けの体勢になることであり、逆に有効な受けの体勢というのは、同時に最も万全な攻撃体勢となることであると考える。

最近多く見られる攻撃技のほとんどが、単なる攻撃体勢のみにしかなり得ない不安定な姿勢であるのが多い。できるだけ速く遠くへ攻撃できる体勢である。攻撃はあくまで攻撃のみの形を追求しているのだ。受け即ち攻撃という武道の基本理念からまったくかけ離れた動きをしている。もしそういう競技としての空手を目指すならこの理論は不要である。あくまで我々は、空手を修行していると同時に空手で生き方を修行していると思っている空手家なのである。受け極めはあくまで表裏一体なのである。武道に勝ち負けは存在しない。勝ちは負けを、負けは勝ちを含んだ概念なのだ。

万全な受けの体勢は、騎馬立ちである。それも腰を落とし抜いた立ち方である。しかしこの腰を落とすという言い方にも問題がある。腰を落としていては、受けにも極めにもその動きが不自由になってしまう。落とすのではなく、膝を抜いて腰を割ると言った方がより正確になる。膝を抜いて腰を割り、体が沈んだ瞬間に体重を移動すれば、移動した方向に瞬時に体を運ぶことができる。すなわち受け極めができるということである。人は身の危険を感じた時には、とっさに身を低くする。驚いて膝が抜けるというが、あれは人に備わっている防衛本能なのである。ひょっとして腰が抜けるところまで、その防衛反応なのかもしれない。とにかく攻撃も受けも体が伸び上がるという動きは不合理なのである。後ろ足で蹴って進んだり、ピョンピョン跳んだりする動きはいずれも体が伸び上がる動きなので、武道的な動きとは言えないのである。前足で引き付けるという動きも自然ではない。一般的に動きの速さというものは、動く物の寸法の平方根に比例して遅くなる。象の時間ネズミの時間という本が昔ヒットしたが、要するに大きい物ほど動きは遅くなるというのが物理学上の常識なのである。
体の寸法を小さくした方が素早く動けるということである。瞬時に腰を割って、体を沈め体の嵩を小さくすれば、それだけ素早く運動できるというのは、物理学上から言って正しいのである。

割れの感覚を身につけることによって、無理のない自然な素早い動きが得られるのである。しかも力のよどみがないから、自然な動きで捉えどころが分かりにくいため受けづらいのである

型と形

2019-12-17 22:21:00 | 日記
ここ最近の稽古はもっぱら22日に行われる稽古納め対策を行っている。つまり突き千本蹴り千本形百回の稽古である。これはもともと武道を習うためには繰り返し稽古が大切だということを知らしめるために行ったものだ。最初は突き1000本で終わっていたのが、蹴り千本が加わり10年くらい前から形百回も行うようになった。全部やってざっと3時間。人数も多くなったし時間も長いので会場の確保が毎年大変である。

 空手道のような武道は使う筋肉が違うので、空手に合った体を作ることがまず必要で、次には空手独特な体の使い方を習得しないといけない。そのためには昔はただひたすら巻き藁突きを行ったものだが、現在はどこも空突きしかやってないところが多い。それでも数をある程度やっていれば自然と突きや蹴りの様にはなってくるものだ。そして形をいろいろやれば形を通して空手の体の使い方が身についてくる。このような信念で毎年恒例で、稽古納めは突き蹴り千本形百回をやっているわけである。

 形は平安形と鉄騎初段、それに選定形の全部で10種類の形を各10回ずつ行う。白帯から黒帯まで、4歳児から80歳くらいまで一堂に行う。知らない形は観ながら覚える。号令もみんなが順番に大きな声でかける。たいへんだが、みんな嬉しそうにやっている。今は形でも組手でも丁寧に言葉や手に取って教えてくれるが、昔はすべて先生や先輩のやっているのを真似しながら覚えていったものだ。そもそも学ぶと言う言葉は、「真似ぶ」から来ているらしい。

 初心者が号令をかけると形の動きを無視した号令になるので、各技が打ち切りになったり、リズムが狂ってまるで違う形のようになってしまうから面白い。形の一つ一つの技がかえって浮き彫りになり、新しい気づきが得られることもある。また平安形や鉄騎の形など糸洲安恒が考案したものや大陸から伝来したものを改良したものなどが混合されて船越義珍が空手形として体系化したが、その毛色の違いがじっくりと形をやっていくとなんとなくわかるような気がするのも面白い。








 形には本来の意味が深く染み込んでいて、我々がまだ気付いていない隠されたメッセージもまだ多く含まれていると思う。形には明文化できない空手道の秘伝が盛り込まれているのだ。そういう意味でも形を疎かにする者は真の武道者ではありえない。