鉱石ラジオ

艦これ二次創作小説同人
C105 日曜日 西地区 せ-27b(西2ホール)

斎藤環 「ひきこもり」救出マニュアル〈実践編〉

2019-01-03 23:21:15 | 日記
この書物はタイトル通り、ひきこもり状態にある人物が置かれている境遇を少しでも快方に向かわせるための実践的な知識を集積したものである。その知識とは斎藤自身による治療行為と支援活動によって日々積み重ねられたものなのであるから、これはまさしく臨床の知と呼ぶに相応しいものだろう。

「マニュアル」と言いながら、その外見は、例えば学習参考書のチャート式のように、決して整然としているわけではない。だがそれは、単に外見が網羅的に見えないと言うだけのことであって、ここには「ひきこもり」本人とその両親との間に生起しそうなあらゆる出来事が人生相談形式で列挙されている。曰く「両親を責め、謝れと要求します」「僕はこのままでいいのだろうかと質問されて返事ができませんでした」「息子の家庭内暴力で困っています」などなど。これらの諸問題に対して、著者が自身の実体験に基づいて概ね適切と思われる対処法を回答するという形式になっている。

これを読んで私は、人間の言語コミュニケーションというものは実に皮相なものだな、という思いを新たにした。

ここから読み取れる斎藤の主張を粗雑ながらまとめると「ひきこもり」の問題の第一層(もしかしたら核心部)は本人とその両親との相互不信によるコミュニケーション不全なのであり、したがって救出への第一歩は相互のコミュニケーションの回復に向けて踏み出されなければならない。たとえ拒絶されても声を掛け続けること。仮にそれが暴力であっても、それほどまでの苦境に追い込まれた本人の叫びと受け止めること。ただし、暴力に対しては断固として拒絶すること。日常化した暴力に対しては避難を、そして第三者による介入を、要するに家族の側から助けを求めること。

また、斎藤の処方には感動すら覚えることがある。
つまり、ここに取り上げられている相談が相談者自身にとっては100%の事実であっても、端から見れば「ひきこもり」の置かれた立場を決して十分には開示してはいないはずである、と斎藤はそのように考えているのではないか。そして斎藤の態度は相談事として書き記された言葉の向こうに隠されている「真実」を、掘り起こそうと試みているかのようだ。

具体例を挙げてみよう。少し長くなるが、一件の相談とその回答を引用する。

醜形恐怖で「整形したい」という娘
二年前からひきこもった二一歳の娘です。醜形恐怖があり、現在は精神科に通院しています。最近アルバイトを始めましたが、「もっとお金を稼げるキャバクラで働きたい、お金は美容整形の代金にしたい」と言います。
またしきりに「自分の顔は醜い、こんな顔に産んだ親が憎い」と言い募ります。私はキャバクラも整形も反対なのですが、どう説得すればいいでしょうか?

このような場合、およそいかなる「説得」も「議論」も無効です。精神病の可能性はなさそうなので完全な妄想とは言えませんが、こうした思い込みは反駁で解消するものではありません。せいぜい「私はどうもそんなことはないような気がする」という程度にとどめておかれたほうがいいでしょう。
「キャバクラ」の件についても、ご心配はよくわかりますが、もしご本人が成人されているのなら、職業選択を強制したり禁止したりすることはそもそも無理があるでしょう。ただ、この場合はご本人の発言は本心からではなく、自分の葛藤の深さを親に十分に理解してもらいたい、という気持ちがひそんでいるようにも思います。
そうであるなら、親御さんから「そういう仕事は親としてはしてほしくない、そういう方面に行かれるととても悲しい」という感想を繰り返し伝えるほうがいいと思います。
これは私の個人的な偏見ですが、ひきこもる傾向を持った人間は基本的に水商売関係には向かないと思います。どうしても適応できずにひどく傷つけられて脱落するか、あるいは無理な適応がたたって他の仕事が選択できなくなる、といったことが起こるように思われてならないからです。
その意味からも、強制はできないにせよ、個人的に反対であるという意見表明ははっきりとされておいたほうがよいと思います。


よぉし、説明しよう(ここは「機動戦艦ナデシコ」のイネス・フレサンジュ風に)。

いかなる「説得」も「議論」も無効です、とは過去の知見に基づいた冷静な事実の表明である。精神病の可能性を否定することは相談者にとっては安堵できる材料となるだろう。それでもきっぱりと、かつ控え目に意見を表明することによって、当事者との間に偽りのないコミュニケーションを維持することを勧めているのである。誰にも覚えがあるように「当事者」は気休めや偽善には敏感である。

次からが真骨頂である。
斎藤は、キャバクラで働くという当事者の希望を正面から、言葉通りに、大真面目に受け止めている。日本国憲法第二二条第一項において保証される職業選択の自由に基づいて、そのような職業を選ぶことの自由を認めるのだ。その上で直接対話することの叶わない当事者の、本当の気持ちを推し量る。これを忖度と言う(忖度とはこういう時にこそ使う言葉なのだよ。直接面会して会話も交わせる総理大臣風情が用いるべきではない)。
その上で、親は親の本当の考えを伝えるべきであると。一度限りではなく、繰り返しそうするべきであると勧める。

その次の「偏見」とは実に良い言葉だ。普通なら「意見」と言い換えても良いはずである。しかし、斎藤はここで表明する事柄に彼自身の価値観、人生観が反映されている可能性を言外に滲ませている。私が感動的と言いたかったのは、まさしくこの、謂わばフェアプレーの精神と呼ぶべき言葉選びのことだった。
「どうしても適応できずに」とは、次のセンテンスの「無理な適応」と呼応している。これは斎藤の知見が集約されたものであり、ひきこもり当事者の一途な性格や生真面目な人柄を読み取ると同時に、それを第三者に利用されることでこそ、彼ら彼女らは深く傷つけられると主張しているのだ。

仮に水商売を生業とすることによって一時的に快方に向かったとしても、それがいずれ新たな不幸の呼び水となりかねないことを、斎藤は相談者と共に懸念する。このように相談者に寄り添うことによって、その方向性、動機付けを強化しようとしている。僕はこの相談をそのように読んだ。

以上、不躾ながら逐語的な解説を試みた。
この書物は自信を持って推奨できる。おわかりいただけただろうか?
コメント
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