狭き門より入れ

スペイン在住クリスチャン。聖書にある救いとは?罪の赦しとは? 礼拝などから、福音メッセージを載せています。

キリストの十字架以前の人々の救い。

2021年01月20日 | 聖書
いただいたコメントの中に、いくつかの疑問や誤解などがありました。 聖書について知らない方も多いことと思いますし、良い機会ですので、私のできる範囲で、答えていきたいと思います。

1)キリストによる救いは、キリストが生まれる前に死んだ人に対して、不公平ではないか?

聖書には、イエスキリストは、キリストの十字架以後の人々だけの罪のために死なれたとは書かれていません。

“キリストはすべての人のために死なれた“(2 コリント5:15)

と、聖書に書かれています。 キリストは全人類の罪の刑罰を受けて下さったのです。

アダムとエバが罪を犯して、人間に罪が入り、それによって、人間は死ぬ者となりました。 しかも、罪を裁かれ、永遠の地獄に行く者となってしまいました。
しかし、その直後に、神様は救い主による救いを預言されました。 また、その後も、神様は、何度も、預言者を通して、救い主をこの地上に送ることを語っておられます。
キリストの十字架以前の時代の人々は、神様が救い主を送って下さり、その救い主が自分を救って下さることを信じることによって、救われたのです。
旧約聖書には、キリスト生誕以前の信仰者たちのことが、たくさん書かれています。
異邦人も、神様が預言者を遣わしたり、イスラエル人の捕虜や奴隷を通して、また、イスラエル人との婚姻などによって、神を知り、信じることが出来ました。

また、聖書は、こう言っています。

“わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。“ (箴言8:17)

“もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。“(使徒17:27)

キリスト以前でもキリスト以後でも、もし神様を心から求めるなら、神様は、どんな奥地であろうと、何らかの方法でお応え下さり、その人を救いへと導くことがおできになるのです。

そして、神を求めることは、人間の義務です。

“神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼ら(神を信じない者)に弁解の余地はないのです。“(ローマ1:18)

(Semakimo)


すべての人は、罪を犯したので

2021年01月20日 | 聖書
 まず、お聞きしたいことがあります。あなたは、聖書が、あなたを罪人だと言っている事を知っていますか?「いいえ、私は、罪人ではない!私は、人を殺したことはないし、盗みもしたことがない。友達は大切にしているし、家族のことも愛している。」と、反論する人も多いことでしょう。
多くの人は、自分は良い人間だと思っています。それは、たいていの場合、人と比較した結果です。ところが、その比較する相手は、いつも、自分よりも、悪い人間なのです。しかし、あなたが、自分が良い人間だと思っていても、また、あなたの友人や家族が、あなたを良い人間だと言っていても、神様の目には、そう映っていないのです。
聖書は、はっきりと、すべての人間は罪人であると宣言しています。神様は、あなたが、今までしてきたことのすべてをご存知です。心の中で思ったこともご存知なのです。もし、ここに、一冊の本があったとします。その本には、今まであなたが思ったこと、考えたこと、言ったこと、したことすべてが記されてるとしたらどうでしょう?誰にも読んでほしくないと思いませんか?なぜなら、私たちは、誰しも、人には言えないような恥ずかしいことを考えたり、したことがあるからです。一度も、心で悪いことを考えたことがないと、だれが言えるでしょう?怒り、嫉妬、嘘、偽善・・・。こういったものが、私たちの心から出てきま
す。そして、それを、行動に移してしまうのです。生まれてから今まで、何回、うそを言ったでしょうか?何回、けんかをしたでしょうか?何回、家族を泣かせたでしょうか?神様を騙すことはできません。
聖書ははっきりと、これらの罪がとても重大な結果を招くことを警告しています。罪人に対する刑罰は、永遠の火の地獄であると、みことばは語っています。では、いったい私たちは、この問題をどう解決したらよいのでしょう?

「一生懸命、教会に通えばいいのではないか?神様は、喜んでくれるに違いない。」
「何かのボランティアに参加して、人助けをしたらどうだろう?少なくとも、神様は、私ががんばっていることを認めてくれるはずだ。」
こんな風に、あれこれと、アイデアが出てくるかもしれません。しかし、残念ながら、そういったことではだめなのです。
私たちは、もう、罪によって汚れてしまっているのです。聖なる神様は、私たちがどんなに努力したとしても、汚れた私たちから出てくるどんなものをも、受け入れることができないのです。
たとえば、あなたの友人が、エボラ熱の菌に感染して、病院に隔離されているとします。けれども、その友人が、隔離されているはずの病院から抜け出して、あなたの家に来たとしたら、あなたはどうしますか?その友人を、あなたの家に入れてあげるでしょうか?きっと、入れないことでしょう。すると、その友人が、あなたを喜ばせようとして、あなたのために、心をこめて作った彼の手料理を差し出しました。あなたは、その手料理を食べますか?彼のあなたに対する善意によって、あなたは、彼を家に入れてあげますか?いいえ、入れることはできません。彼がどんなに苦労して、一生懸命、料理を作ったとしても、彼を家に入
れることはできませんし、その料理を食べることもできません。彼が、エボラ菌に感染している限り、だれも、彼に近付くことができないのです。それと同じように、神様は、罪人である私たちも、罪人の良い行いも、受け入れることはできないのです。そういうわけで、私たちには、私たちの罪を許してもらうために、何もすることができないのです。聖書にも、このように書かれています。


“人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。
自分の身のしろ金を神に払うことはできない。
-----たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない。-----“(詩篇49編 7、8節)

と、いうことは、誰かに、あなたの代わりにあなたのたましいの贖いしろを払ってもらわなければならないのです。

“すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。“(ローマ3章23、24節)

さて、上の句には、何と書かれていますか?

「キリスト・イエスによる贖いのゆえに」です。「贖い」という言葉は、「支払い」「償い」「身代金」といった意味があります。イエス・キリストはご自身の十字架で流された血によって、あなたを救うための代償を払って下さったのです。罪の無いイエス様が、あなたの罪を背負い、十字架にかかり、あなたに代わって、あなたの罪の罰を受けてくださったのです。
そして、息を引き取られる時に、「完了した。」とおっしゃられました。あなたの罪の支払いは、完全に終わったということです。そして、その後、三日目によみがえられ、多くの人々が復活したイエス様を見、会話し、さわりました。

 たとえば、あなたに大きな借金があったとしましょう。けれども、あなたは返済するためのお金を持っていないとします。そこで、私が、「代わりに払ってあげます。」と言って、支払いに行きます。けれども、あなたには不安が残ります。「本当にお金があるのだろうか?本当に支払ったのだろうか?」しかし、支払いを済ませた私が、あなたのところに来て、領収書を見せたとしましょう。それで、あなたは、安心できることになります。イエス様の復活は、それと同じように、あなたの罪の支払いが終わったと言う確実な証拠なのです。

 だれでも、イエス・キリストをあなたの救い主と信じるなら、あなたの罪は許されます。そして、天国で永遠をすごすことができるのです。このすばらしい救いを、神様ご自身が、私たちのために供えてくださったのです。どうか、あなたが罪人であることを認め、一日も早く、この救いを得てくださいますように。

(礼拝でのメッセージ)

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