西郷隆盛が一時
休息した人吉、
西郷隆盛は人生の最後に熊本の山間の人吉で暫しのんびりする時間を過ごした。
人吉で西郷軍の本営、
永国寺からほど近い武家屋敷、
新宮家を宿舎とした。
新宮 嘉善は西郷軍の人吉1番隊の小隊長として参戦しており、
西郷軍が田原坂の戦いに破れ、
人吉まで撤退した時の道案内として西郷隆盛を導いた。
その経路が凄い、山の中、 椎葉村、五木村を通ったと有る。
今でも大変、当時の行程としては
考えられない。
道無き道を進み、人吉に辿り着いた。
新宮 嘉善は自らの屋敷を西郷隆盛に進んで提供した。
新宮家の屋敷は当時としては立派だった事が今でも偲ばれる。
隠れ階段、天井からの抜け道も有る、
しかし、西郷ドンが天井から屋根へ実際逃げれる体格ではないな、
そう思うと何となく笑える。
庭は東海道を表現しているそうだが凡人にはよくわからないが、
縁側に座り暫し、庭を眺めていると、なんとも言えない。
また、西郷が何日この屋敷逗留したのかも分からない。
政府軍が人吉まで進軍して来た時、
その指揮を取っていたが、新宮 簡( たけま)、
新宮 嘉善の父親で有る。
父、新宮簡は現在の人吉駅の裏の村山台地に本陣を置き、
我が屋敷めがけ、
最初に大砲打ち込みを命じた。
なんとすざましい親子だ、
西郷は元々先祖を辿れば???
西郷家の先祖は肥後の国、菊池、現在の熊本県菊池市七城辺り、
菊池の一族だった。当時は西郷と云う地名に住んでいたい一族、
その一族は新天地を求め、南下し、薩摩に定住し、西郷と名乗ったのが薩摩西郷家の始まり、
菊池の名を冠するとどうしても当時は肥後の菊池一族となり、薩摩で馴染まないとの判断だったと思われる。
逆に南北朝の頃、東北へ南朝方として従軍した菊池一族はそのまま名を名乗った。
それは誇り高き武門の一族として東北の民が受け入れたからだろう。
因みに競馬の武一族は、
江戸時代は薩摩で『園田』の名で薩摩藩の馬奉行をやっていた一族、
これも元々は熊本、
明治期に入り、
函館に牧場経営する為に武士を捨てた。
その際、この一族は『園田』から『武』に苗字を替えた。
何故なのだろう。
その薩摩の園田家の元々は肥後、
菊池の一族、
肥後、菊池家は南北朝、
足利尊氏が九州に攻め込んだ時、
南朝方として、最後まで義を貫き、
滅ぶ一歩手前までになった。
菊池家の血を遺さねば、
確か?菊池小太郎を菊池から八代の落ち延びさせた。
八代には熱心な南朝方の武士が殆ど。
その時、
名を『園田』と名乗らせたのが始まり、
それらがその地で増え、あっちこっちに散らばった。
一部は南下し、薩摩の島津藩に仕えた者達も多い。
特に馬関係、農村管理関係、
休息した人吉、
西郷隆盛は人生の最後に熊本の山間の人吉で暫しのんびりする時間を過ごした。
人吉で西郷軍の本営、
永国寺からほど近い武家屋敷、
新宮家を宿舎とした。
新宮 嘉善は西郷軍の人吉1番隊の小隊長として参戦しており、
西郷軍が田原坂の戦いに破れ、
人吉まで撤退した時の道案内として西郷隆盛を導いた。
その経路が凄い、山の中、 椎葉村、五木村を通ったと有る。
今でも大変、当時の行程としては
考えられない。
道無き道を進み、人吉に辿り着いた。
新宮 嘉善は自らの屋敷を西郷隆盛に進んで提供した。
新宮家の屋敷は当時としては立派だった事が今でも偲ばれる。
隠れ階段、天井からの抜け道も有る、
しかし、西郷ドンが天井から屋根へ実際逃げれる体格ではないな、
そう思うと何となく笑える。
庭は東海道を表現しているそうだが凡人にはよくわからないが、
縁側に座り暫し、庭を眺めていると、なんとも言えない。
また、西郷が何日この屋敷逗留したのかも分からない。
政府軍が人吉まで進軍して来た時、
その指揮を取っていたが、新宮 簡( たけま)、
新宮 嘉善の父親で有る。
父、新宮簡は現在の人吉駅の裏の村山台地に本陣を置き、
我が屋敷めがけ、
最初に大砲打ち込みを命じた。
なんとすざましい親子だ、
西郷は元々先祖を辿れば???
西郷家の先祖は肥後の国、菊池、現在の熊本県菊池市七城辺り、
菊池の一族だった。当時は西郷と云う地名に住んでいたい一族、
その一族は新天地を求め、南下し、薩摩に定住し、西郷と名乗ったのが薩摩西郷家の始まり、
菊池の名を冠するとどうしても当時は肥後の菊池一族となり、薩摩で馴染まないとの判断だったと思われる。
逆に南北朝の頃、東北へ南朝方として従軍した菊池一族はそのまま名を名乗った。
それは誇り高き武門の一族として東北の民が受け入れたからだろう。
因みに競馬の武一族は、
江戸時代は薩摩で『園田』の名で薩摩藩の馬奉行をやっていた一族、
これも元々は熊本、
明治期に入り、
函館に牧場経営する為に武士を捨てた。
その際、この一族は『園田』から『武』に苗字を替えた。
何故なのだろう。
その薩摩の園田家の元々は肥後、
菊池の一族、
肥後、菊池家は南北朝、
足利尊氏が九州に攻め込んだ時、
南朝方として、最後まで義を貫き、
滅ぶ一歩手前までになった。
菊池家の血を遺さねば、
確か?菊池小太郎を菊池から八代の落ち延びさせた。
八代には熱心な南朝方の武士が殆ど。
その時、
名を『園田』と名乗らせたのが始まり、
それらがその地で増え、あっちこっちに散らばった。
一部は南下し、薩摩の島津藩に仕えた者達も多い。
特に馬関係、農村管理関係、
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