1990年代パチンコ・パチスロ実戦記「バラのつぼみ」

私が学生時代に書き留めていたパチンコ・パチスロの実戦データをベースに当時を懐かしむブログにしようと思っています。

1995年8月7日(月)-6,000円 ゴールデンダックⅢ・エキサイトクリスタル3

2024-08-12 15:28:03 | 1995年8月実戦データ
1995年8月7日(月)
場所:営団地下鉄東西線葛西駅前

店名:パーラー英

ゴールデンダックⅢ(558番台)(裏)
-245G BIG 7,000円
-378G BIG 3,000円
-135G 集中
--13G パンク
-216G BIG 4,000円
-50G 集中
-72G パンク
-244G やめ

総ゲーム数 1353G
BIG3回 1/451
集中2回 1/677
集中パンク2回 1/43

エキサイトクリスタル3(221番台)(無制限)大当り確率1/227
-408回 888 上段(コマ送り2段階)13,000円
-243回 888 上段(コマ送り2段階)
-140回 999 下段(コマ送り)
-197回 666 上段(コマ送り2段階)
--35回 777 上段(2段階) W
--86回 999 上段(縦揺れ)
--63回 やめ (9,152個)

総回転数1172回
大当り6回 1/195
お助け連チャン率 17%

千円あたり約28回転

エキサイトクリスタル3トータル +8,000円

8月7日トータル -6,000円

島根から東京に帰って速攻その日のうちにパチンコに行っております。
新台と思われるゴールデンダックⅢに着席して打ち始めます。タイヨーの4-1号機ゴールデンダックⅢはオリンピアのプレイガールVの絵柄違いでリーチ目はズレ目等魅力的な出目はあったもののプレイガールV同様ランプの点灯でボーナス、集中共にすぐわかりました。当時はこの機能を切っている店も多かったですがパーラー英は点灯していました。プレイガールVと内部確率は多少違っていたと思いますが、打った台は激裏なので全く関係ありません。この日はちょっとしか打っていないこともありますが全く連チャンしていません。2時間余り打ってこの台は諦めます。続いて打ったのはニューギンのお助け連チャン機(当時はこう呼ばれていた)第2弾エキサイトクリスタル3です。この台はスペックそのものはエキサイトレディー2とほぼ同じ、進化したのは液晶画面でして大当りするとパツキンのお姉さんが脱いだような?・・・きわどい水着かわかりませんがムフフな画像が小さな液晶いっぱいに展開して行きました。この台の見せ場はこれだけですね。大当り終了後の電チュー用小デジに時短が働いて持ち球を減らさずにメインデジタルを60回転できます。60回転で連荘する確率は23%らしいですが・・・連チャンデジパチのように連チャン時の爽快感もなく、んんん・・・といった感じで要は今一でした。この日はこれで終了ちょい負けでした。


1995年8月1日(火)6日(水)-6,000円 島根にて

2024-08-12 15:27:46 | 1995年8月実戦データ
1995年8月1日(金)

店名:ルーキー大社店  -21,000円

1995年8月6日(日)

店名:パチンコタイホウ +15,000円

島根に帰省をしてパチンコを打っております。

この時期の2店ならルーキー大社店ならニューパルサー、タイホウならウイリーチャンプVとかを打っているかもしれません。ルーキーの方はちょっと前ならスーパープラネット、ビッグパルサーの裏があり私も打ったことがあります。この2台は以前から設置されていたのですが交換率7枚だったものが突然8枚に変わってから連チャンしだしました。またコイン補給時にチェックすると基盤の封印シールがカッターで切られていたように記憶しています。バージョンは5連チャンバージョンと呼ばれたものに挙動が近かったです。5連チャンバージョンは全国的に設置があったようでパチマガで紙面を結構割いて紹介されていました。



当時よく打った機種:春夏秋冬(西陣)

2024-08-11 16:34:52 | 機種情報他
西陣の数珠連チャンデジパチ「春夏秋冬」1993年に発売された春一番、パーラーキング、ミラクルフォースSPに続く数珠連機種です。この機種はモーニング機能があったのですが最初の頃は人気がありあまり打っていませんでした。時間が経ち人気がなくなってからは朝一時に複数台打診できるようになってからはよく打つようになりました。この台は連荘も楽しいですがリーチが秀逸でいわゆる全回転リーチを搭載していました。全回転リーチを搭載した機種ではアラシキング(西陣)に次ぐ2番目の台だと思います。
台の仕組みはモード式の連荘機で大当たり確率は天国1/10ノーマル1/210地獄1/420、朝一は電源投入後1回目のリーチが外れたのちモードを天国2/10ノーマル4/10地獄4/10に振り分ける仕様でした。1/5で天国ですから複数台打診できれば結構な確率で天国モードをGETできました。天国モードでの大当たり終了後は天国4/10ノーマル2/10地獄4/10で振り分けされる。モード変更は大当たり終了後初めての払い出しモータが作動した際にモード移行した。当時のパチンコは払い出しが遅く大当たり終了後もアタッカー等の賞球の払い出しを行っていて大当たり終了後即払い出しモーターは作動する状況だった。パチンコ必勝ガイドでは台の発売からそう時間を空けずに解析記事が発表され大々的に特集記事が書かれていた。解析記事はむさぼるように何度も読んだと思います。むさぼり読んだ結果「大当たり中の打ち出しを調整して大当たり中に払い出しが終わるようにすれば、打ち出して賞球口(スタートチャッカー等)に入るまではモード変更をしないので前回のモードで抽選するんじゃね?つまり保留玉だけは前モードのままじゃない?」と言う疑問を持ち実践してのが下のデータです。

打っているのは全て朝一状態の台です。朝一は急いで複数台を打つために回転数データなし(X台目と書いてあるのは朝一台の何台目で当たったか)。大当たり中の打ち出し調節(10ラウンド位からアッタカーをフルオープンさせ大当たり中に払い出しを終わらせる)は時期から考えてすべてしていると思います。

①1994年12月15日(木)
不明 八八八 (1台目)
保④ 六六六
50回 やめ     大当り2回 天国1回 その他1回

②1994年12月16日(金)
不明 祝祝祝(3台目)
保② 五五五
50回 やめ    大当り 2回 天国1回 その他1回

③1995年2月27日(月)
不明 秋秋秋(2台目)
保① 六六六
保② 二二二
9回 九九九
45回 やめ  大当り 4回 天国3回 その他1回

④1995年3月2日(木)
不明 冬冬冬(2台目)
保② 春春春
保③ 冬冬冬
44回 やめ 大当り 3回 天国2回 その他1回

⑤1994年4月20日(木)
不明 八八八(2台目)
20回 春春春
保③ 祝祝祝
78回 やめ 大当り 3回 天国2回 その他1回

⑥1995年4月21日(金)
不明 祭祭祭
40回 やめ 大当り 1回 その他1回

⑦1995年4月26日(水)
不明 二二二
35回 やめ 大当り 1回 その他1回

⑧1995年6月14日(水)
35回 五五五
やめ 朝一リーチあたり即やめ

⑨1995年9月19日(火)
11回 三三三
やめ 朝一リーチあたり即やめ

初当り 9回(ほぼ間違いなく天国モード:7回 ノーマルモード:2回)

天国→天国 9/16 (56%)

「1/10が 4回で当たる確率 34.39%」です。 天国モード中に天国から落ちる確率は6/10でその状況のときに攻略が効いていれば本来なら連チャンしないはずの台が約35%で連チャンする。連チャンした台も保留玉はモードは移動しないので連チャンのチャンスは継続する・・・はず。計算苦手なんで確率はわかりません。

記録を書き出さているときはスゲー連チャンしている!大当たり中打ち出しコントロール効いてる!と思いましたが計算してみると・・・天国→天国の確率が56%と解析上の確率40%をちょこっと上回っていますがデータが少ないので何とも・・・でも効いている可能性も大いにある。

実機を持っていらっしゃる方が誰か実験してくださいませんかね~


硫黄島渡島 終わりに

2024-07-16 09:01:51 | 硫黄島

硫黄島での生活はブログで書いた通り早朝からの戦跡めぐりお昼前から夜までの勤務が大半であった。
私がアルバイトで行った2023年は下記のように毎日をすごした。戦跡巡りが渡島の目的だったので雨の日以外は大体午前4時前後に起きていた。5月の日の出は4時30分頃で朝は涼しく過ごしやすかった。ただ日が昇ると暑く外を歩いていると汗だくになった。朝食は6時30分頃と決まっていたが、それでは戦跡を見て回る事もままならない、朝食は抜きにするか食堂勤務という事もあってメニューにパンがある時は食べ残ったパンを持ち帰り、戦跡巡りの途中での朝食にあてがった。10時30分頃から仕事の準備にかかったので遅くても9時頃には外出先から帰った。帰ったら先ず汗だくな体をシャワーで流した。在島中は幸い雨に恵まれ取水制限がなく何度でもシャワーに入れた。
10時30分頃から仕事に掛かり、2度の食事と途中1時間程度の休憩をはさんで19時過ぎまでが仕事である。仕事は別ページでも触れたが2日もすればなれる単純作業である。私は一緒の部署の方にも恵まれたのでストレスの少ない職場だった。仕事が終われば洗濯機の台数が限られているので先ず洗濯にとりかかった。朝着た服や仕事着は汗だくなので出来るだけ洗いたかったが、取水制限なく洗濯ができたのは本当にラッキーだった。洗濯機を回すと急ぎシャワーを浴びる、スッキリした後は仲が良いバイト仲間と毎日お酒を飲む日々。お酒の補給は自衛隊の売店が週3回午前10時過ぎから開いていたし、違う勤務帯のバイト仲間に鹿島建設の売店で買ってもらうように頼めたので潤沢で問題なし。お酒を飲んでいる間に洗濯が終わり部屋の洗濯ロープで物干しをする。(エアコンは高級品が付いていたので衣類乾燥もばっちり)なんやかんやいっても23時頃には毎日寝ていた。夜遅くまで米軍は訓練をしていたが見学に行くほど余力はなく、逆にF/A-18スーパーホーネットの凄まじい排気音も気にならなくなるほど疲れてすぐに寝れた。(まあ戦闘機好きなので排気音を聞くと通常は興奮して目が覚めるたちなのだが)こんな風に約2週間強休みは1日もなく働き続けたが本当に楽しい期間をすごした。最初は1直の方が日中を有効に使えるので良いと思っていたが後々考えると日中は日光がきつく外歩きもままならないので朝の時間を有効につかえる2直で良かったなと思った。でも米海軍の離発着訓練を間近で見学できなかったのは心残りか。
それと携帯電話やインターネットの事情だが2023年時点では4キャリア使えたがドコモ以外は今一、ドコモにしたって通信速度が遅くLINEのスタンプでさえ遅れて送られてくる状態だった。音声通話はまあまあだった。
だがなんだかんだ言っても3週間という時間が作れる人にはお勧めのアルバイトです。ですが馬毛島の自衛隊基地が完成すれば米海軍空母艦載機の着陸訓練もそちらになるみたいでいつまで硫黄島の短期アルバイトがあるか分かりません。硫黄島に多少でも興味がある方は他の方法ではなかなか行くことが出来ないのでお勧めです。また短期アルバイトというお気軽な手段ではあるが、硫黄島は島全体が戦争遺構のようなものだから英霊には敬意をもって訪れた方が良いだろう。それと島の自衛隊、米海軍の方々は皆さん親切で食堂勤務の我々にも敬意をもって接してくれた。食材の倉庫搬入作業を一緒に行った海上自衛隊補給隊の皆さんもテキパキ働ていて非常に印象が良かった。海自司令の指導の賜物だろう。渡島中にちょっと知り合いになって、硫黄島唐辛子をお土産にくれた海上自衛隊のS一尉、私が硫黄島から帰る寸前、道路で偶然出会った時に全力で手を振ってくれた海上自衛隊のT一尉元気だろうか。



硫黄島渡島 その8

2024-07-15 09:24:12 | 硫黄島

島の南部の記録です。南海岸、南揚陸場と戦時中(戦前も?)と呼ばれていた地区で米海兵隊の上陸した東海岸は目と鼻の先の場所になります。宿舎からも近く気楽に行けた場所です。宿舎を出て外周道路沿いに西に向かうとすぐに鹿島建設の現場事務所があります。(鹿島建設は硫黄島の設備維持管理を一手に引き受けていたと思う)鹿島建設にも売店があり平日は毎日営業(営業時間は夕方のみだったような・・・)、自衛隊売店では売っていないタバコも販売している等、魅力のある売店でしたが昼勤の2直は時間帯的に行けなかったので、欲しい物があった場合は他の勤務時間帯の人に買い物を頼んでいました。その鹿島建設現場事務所から南の海岸方面へ抜ける道があり(道というよりも獣道といった表現が近いですが)、海岸へも行けるし分岐して探照灯の遺構へと行ける道もありました。この一帯は海軍の持ち場だったらしく潤沢な建築資材で造ったコンクリートの立派なトーチカが多くありました。トーチカの銃眼から見る東海岸(上陸海岸)は正に目と鼻の先で上陸前の艦砲射撃でやられていなければ上陸後の戦闘で大活躍したでしょう。当時のまま残っていた探照灯は半地下式になっており使う時だけレールに沿って引き出せるようになっていました。そういえばトーチカ群の場所を教えて頂いたベテランバイトのSさんは案内していただいたときに転んで腰を強打してしまった。幸い打ち身程度で済んだがやはり複数人でジャングル、地下壕を巡る大原則は必ず守った方が良い。
そして硫黄島に来る前からここだけは行っておきたいと思っていたのが「初弾必中・水際撃滅・冷静沈着」等当時壁面に書いた標語がいまだ残っているトーチカだ。その場所は意外と近く外周道路から少し横に入るとあった。(実際には文章で書くほど気楽な感じではなく100mほどだが藪漕ぎで進み皮膚がやられたりして大変だった)当時の人が書いた文字は感じ入るものがあった。(戦時中にこの標語を壁に書いたのが硫黄島警備隊司令和智大佐らしい、和智大佐は戦後硫黄島協会を設立して慰霊活動の中心となる。戦後に渡島した際、トーチカの文字が消えかかっていたので文字をなぞって分かりやすくしたらしい)
南海岸は宿舎から行きやすかったので在島中は何度も訪れた。