1990年代パチンコ・パチスロ実戦記「バラのつぼみ」

私が学生時代に書き留めていたパチンコ・パチスロの実戦データをベースに当時を懐かしむブログにしようと思っています。

硫黄島渡島 その4

2024-02-25 18:00:27 | 硫黄島

輸送機の扉が開いていよいよ硫黄島に降り立った。一番に摺鉢山を探すがターミナルビル(?)前のエプロンからは見えないようだ。着いた日に気温は内地より少し暑いくらいだった。硫黄島に着いたと感慨にふける。荷物を載せたパレットがターミナルビル近くで開放されたのでわらわらと自分の荷物を探す。ここで本日の簡単なスケジュールの説明のあと宿舎に移動する。宿舎の部屋は2人部屋でまあ快適に過ごせそうな面持ちだった。同部屋の人は少々高齢の70代のCさんという方だった。昼食まで少し時間があったので早速散策に出かける事にする、先ずは摺鉢山が見たかったので宿舎の西方面へ向かう。宿舎から1Kmほど西のいくと東京都の慰霊施設「鎮魂の丘」がありその付近から摺鉢山も望めた。昼食に間に合うよう早々に帰る。が、宿舎に帰ると人っ子一人いない。皆食堂に行ったのだと思い向かう、途中同じアルバイトと思われる人と合流して食堂へ向かう、初めに宿舎に近い方の入り口から入るが幹部食堂と書いてあり多分自分たちの入って良い場所ではないと感じ反対側の入り口から入りなおす、こちらは曹士食堂と書いてあったので入ってみる。中に入ってみてもアルバイト仲間らしき人は見つからず右も左も自衛官ばかり・・・不安になったが到着時に配布されたスケジュールにははっきりと現在は食事時間と明記してあるので食事の盛り付けにかかる、今日は金曜日という事で海自名物のカレーメニューだ、うきうきしてセルフサービスで食事を盛り付ける。すると厨房の奥から「まだ業者の入る時間じゃない、盛り付けた物を置いて今すぐ出ろ!」と怒鳴られる。一緒に行った人もちんたらするなと怒鳴りつけられ3人しゅんとして外に出る。外に出て周りを見回すと、なんと少し離れたところで今日到着した飲料を冷蔵貯蔵庫に皆で搬入していた。同室のCさんに聞くと急遽搬入作業に呼び出されたの事、何もかもがスケジュール通りでない事、問答無用のパワハラ体質に驚き、娑婆とは偉い違うと今後の3週間が不安になる。(実際はその後そんなこともなくただの杞憂だった。)飲み物の搬入作業は途中参加だったので30分程度で終了したが作業中にかなり強いスコールが降り合羽を着ていてもかなり濡れてしまった。作業終了時にはスコールはほぼ止んでいた。スコール初体験で、戦時の兵隊さんがスコールを待ち望んでいたのが良く分かった。作業終了後食堂に戻り食事をする、聞くと昼食の時間は自分らが行った時刻よりも、もう15分後からとの事だった。自分らが盛り付けたカレーはそのまま放置してあったのですっかり冷えている、怒られた3人で口々に今後の不安を言いながら冷めたカレーを流し込んだ。
食事後は同室のCさんに誘われベテランバイトのFさんと3人で鎮魂の丘の向かう午前中とほぼ同じ場所だったがそんなことは言えず鎮魂の丘を見学、その後鎮魂の丘入口付近の粟津壕の入る、粟津壕とは南地区隊指揮官の粟津勝太郎大尉が陣を構えた地下壕である。入り口で一礼してから壕に入る、壕の中は途中様々に分岐していて迷ってしまうのが怖く早々に壕から出た。地下壕の中は戦記で読んだ通り暑かった。この暑さの中、ずっと息をひそめて敵から隠れるのはさぞ大変だったろう。夕方ミーティングがあり諸注意を聞く。その後宿舎に帰り本土からもってきたビールを飲み早々に寝る。お酒の補給は2日おきに売店が開くらしいので少し安心した。島での1日目はあっという間に終わった。
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硫黄島渡島 その3

2024-02-20 14:28:56 | 硫黄島

本土の出発地である入間基地までの切符を手配し硫黄島の持って行く荷物も準備した。荷物の準備段階ではyoutubeの方や求人元担当者にもアドバイスをもらった。ただ実際に行った事がないので様子が分からず不安は拭えない、このブログもこれから硫黄島に短期アルバイトで向かう方のため多少でも予備知識になるよう書いている。出発の日までの間に地元護国神社に向かい安全を祈願する。今思うとばかばかしいが行くまでは輸送機は無事に硫黄島に着くのだろうかとか不安を持っていた。着かなかったら大ニュースだろう。護国神社では地元の兵士の関する情報を集め、地元の兵士を中心に作られた部隊の大隊名がわかった。これは素晴らしい収穫だった。

いよいよ出発の日だ、5月の連休中に地元の空港を発つ、妻と長期間離れて暮らしたことがないため非常に寂しくなる。東京到着後まずは靖国神社へ向かう、連休の為、参拝客が多く遠くから今回の無事を祈る。新宿でまず軽く1杯飲んだのち西武新宿線に乗り飯能のホテルを目指す。夕方ホテルにつくと早速仕事の説明を少々おこなわれる、今更さみしさと緊張で硫黄島渡島をやめようかと思う。そんな時思い浮かんだのが所沢の友人、会って1杯飲めばこの不安な気持ちが吹き飛ぶかな・・・と連絡すると急な連絡にも関わらず会ってくれるとの事、持つべきものは友人だ。予想通りお酒を飲んで友人と話をしているとリラックスしてきて硫黄島での生活の不安をいっとき忘れさせてくれた。仲間と飲むのは楽しくありがたい。楽しいが翌朝は早いあまり遅くならなうちにホテルに帰る。ゆっくりと寝よう。

翌日本土を発つ日、早朝5時に集合、数駅電車に乗って入間基地まで移動する。バイト参加者を見回すと年齢層は高い。後に聞いて分かったが参加者は主に定年後の人、フリーター、大学生、自営業者等だそうだ。大きなスーツケースを引っ張る中高年男性が始発電車にぞろぞろ乗り込む姿は、滑稽であると同時に謎すぎる集団であろう。乗り込むと数駅で入間基地の最寄り駅に到着する。入間基地で手続きがはじまると、受付の女性自衛官にドッグタグを渡される。当たり前だが死ぬ事も想定されているんだと一層不安になる。それと共に3週間女性を見られなくなるかもとその姿を目に焼き付ける、本土を離れる寂しさも増してくる。数時間待った後いよいよエプロンからC-2輸送機に乗る。初めて乗るC-2輸送機だが内装も見た目は特に目新しい事はなし、耳が弱い事もあり上空の与圧が不安だったが、民間機以上に快適だった。但しエンジン音はうるさくアドバイスを聞いてイヤーカフを持ってきたのは正解だった。離陸から2時間近くたって硫黄島に近づくと旋回するわけでもなくすうっとあっけなく着陸した。着陸時の事故が一番多いので不安があったがあっけなく着陸して良かった。

ついに硫黄島に到着したのだ。

写真は別日別場所で撮影

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硫黄島渡島 その2

2024-02-06 12:09:42 | 硫黄島

求人元から電話がかかり硫黄島に行くことは、ほぼ確定した。求人元との電話で食事班配属希望と伝えると作業用のズボンと靴のサイズを聞かれた。給料も日当約10,000円とネットで書いてあった通り、お金のために行くのではないので金額はどうでも良かった。約3週間という短期間のアルバイトで、仕事をする上での条件はほぼ無し(健康である事、バイト期間中女性の同業者はいなかったので難しいかもしれない、条件と言えばこれくらい)、これで硫黄島に行けるのだからこちらの方が数百倍の価値がある。約1か月後の出発にむけ関東までの切符の手配と荷物の準備を始めた。関東までは私の家からだと飛行機でないと辛い、私はたまたまマイルがあり特典航空券で手配したから良かったものの連休中の移動になるので普通に買うと高くつきそうだ。

そして硫黄島に向け準備したのは荷物は下記の通り。(自分の備忘録用に書いたので、あくまで私にとって必要な物です)

スーツケース・・・100Lサイズ、重さが20Kg以上になると航空会社に追加料金を払う必要がある。
【衣類】
パンツ 7枚程度 ・・・ 1日2回は替えると思う。制限なく洗濯ができるのであればもう少し少なくても良いが・・・
Tシャツ 7枚程度・・・ 同上
靴下 7セット程度・・・ 同上
長袖Tシャツ 2枚・・・ 5月だと道中の東京で必要とする。
短パン 2枚   ・・・ 部屋着、食事時に着るのでそう汚れない。2枚で十分だった。
ズボン 2本   ・・・ 道中の東京と硫黄島で売店に行くときに必要、1本で十分だった。
ジャージパンツ1本 ・・・島では暖かく不要だった。但し5月でも涼しい時もあるらしい、その他前泊のホテルではくかも・・・
作業着上着 1枚 ・・・ 地下壕入壕時に着用、とても汚れる。着用ごとに洗濯できたので良かったがそうでない場合は2着はいるかも
作業ズボン 2本 ・・・ 島内散策時は作業ズボンを着用していた。着用ごとに洗濯できていたので1本で良かったが2本は必要かも
タオル 7枚  ・・・ 洗顔、入浴、島内散策時に使用、洗濯制限なければ5枚位でOK
帽子 1個   ・・・ 風が強い日があるのであご紐付きの帽子が良い、日焼け止めのたれをつけると尚良い
軍手 3セット ・・・ 島内散策に利用、洗濯できるので2セットもあれば十分
カッパ上下 1着 ・・・ スコールがあるので島内散策時はリュックに入れていた。役に立った。
傘・・・今回は持参しなかったが 宿舎⇔食堂間の移動にあった方がいいかも

【靴類】
スニーカー 2足 ・・・ 1足は徒歩移動用で機能的な疲れない靴がいい、1足は地下壕用に汚れてもいいものが必要。水道であらって外に干すと1日で乾いた。
クロックス 2足 ・・・ 部屋履き・宿舎周り歩き用に1足持って行けば足りた。
【日用品】
洗濯洗剤 ・・・ 小袋を複数持って行った。ほぼ毎日洗濯していたので日数分は必要
歯磨きセット ・・・ 通常の旅行用でOK
シャンプー ・・・ 1日2回はシャワーをする。試供用特小ボトル1本で足りた。
ボディーソープ・・・小型のものが良い
洗体用スポンジ ・・・部屋で保管するのでスポンジよりネットの方が水切れが良く使い勝手が良い
洗濯ばさみ ・・・ 8個持参、あってよかった。
洗濯ロープ ・・・ 乾燥機が数台しかなかった。屋外に洗濯干し場はあったがスコールがあるので危険。部屋干しで最高に活躍した。
ハンガー ・・・ 持って行かなかったが部屋に何本かありそれを利用、1,2個は持って行った方が良いかも、離島時には置いて帰ればよい
虫刺され薬 ・・・ ウナコーワを持参、植物でかぶれた時にあってよかった。
ムカデコナーズスプレー ・・・ ムカデを見かけなかったので、、、なくても良いかも、、、
割りばし・・・ 持って行かなかったが持参した方が良かった。
コップ・・・ 持って行かなかったが持参した方が良かった。ジュース、コーヒー飲用。持参しなかったのでペットボトルを切って使った。
小瓶・・・ 食器洗剤保管用に持参した方が良かった。
タッパー・・・持って行かなかったが持参した方が良かった。 
液体用ボトル・・・持って行かなかったが仕事時の自身の飲み物用に持参した方が良い。
ジップロック・・・使わなかったが硫黄島唐辛子を採取して持ち帰り時用に一応あったほうが良いかも
爪切り・・・あってよかった
カッター・・・あってよかった 刃物は必要
ドライバー・・・事務所にあり、持参する必要なし
針金・・・持参しなかったが洗濯ロープ引っ掛け用に数十cmあった方が良い
黒マーカー・・・共同冷蔵庫の飲み物に記名の必要あり役立った
赤マーカー・・・使わなかった
ボールペン(2本)・・・必要
ノート・・・あまり使わなかったが必要
ティッシュ・・・あまり使わなかったが小型のものは必要、ポケットティッシュでは少ない
ウェットティッシュ・・・あまり使わなかったが1個は必要
ばんそうこう・・・使わなかったが必要
風邪薬・・・使わなかったが必要
腹痛薬・・・持参の必要なし(持って行ったが日露戦争出征の兵士か!)
靴袋・・・小型のビニール巾着袋、靴以外にも持参品の整理整頓に活躍
テープ・・・小型セロテープあると便利かも

【電気器具類】
髭剃り・充電器・・・必要
延長コード・・・使わなかった不要
3口小型タップ・・・あった方が良い
スマートホン2台・・・カメラ的には2台あって良かった。ネットは通信速度は激遅い。ドコモとソフバンを持って行った。ソフバンはほぼ使えない。
Bluetoothイヤホン・・・往復の輸送機で必要
USB充電器2台(スマホ・スピーカ用)・・・2台必要
Bluetoothスピーカー・・・夜、静かなのであってよかった。(シャバの)人の声が聴きたかったラジオを録音して行くと良い。ネットラジオ・ラジオは聞けない。
パソコン・・・重いくせに使わなかった。仕事の非常時を思えば持参の要あり。ネットは使えない要注意
カメラ・・・一眼レフカメラを持って行けばよかった。飛行機とか取りたい人はとくに。

【その他道具】
ヘッドライト2個・・・2個あってよかった(貸出用等)
ハンドライト1個・・・あってよかった。
単4充電池 4本 充電器・・・必要(ライト類が単4乾電池だった)
単4乾電池 10本・・・5本もあればよい
リュック・・・必要
測距巻き尺・・・(地下壕用命綱)持って行かなかったが方向音痴の人は地下壕用に必要
イヤーカフ・・・輸送機がうるさいのであってよかった。
ペットボトルホルダー・・・あると便利、島内探索時にペットボトルをいちいちリュックから出すのは面倒
携帯灰皿・・・喫煙者は島中ゴミだらけには出来ない

【食品】
キャラメル・・・甘味は手に入りにくいので持って行ってよかった。2袋あってもいいかも
ハイチュー・・・同上 部屋は蟻が多いので注意
1本満足バー・・・不要だった。食べ物は十分ある。
500mlの水・・・水運搬用にも使うので3本は必要、島内散策時に2本携帯(冷蔵と冷凍)
大きめのボトルドリンク・・・売店が開くまでの飲み物
インスタントコーヒー(ブレンディ―的なやつ)・・・あるといいかも、島に滞在中缶以外のコーヒー飲みたかった。

【その他】
本5冊・・・本を読む元気はないので1,2冊で良い、雨の日は暇だが雨が降ったら日記を書けばよい
硫黄島地図・・・複数枚必要。簡単なものは島でもらえた。
A4白紙・・・数枚あると便利かも
小銭・・・小銭不足が生じるので多めにあった方が良い
メガネ予備・・・必要
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硫黄島渡島

2024-02-04 17:26:14 | 硫黄島

 私が初めて硫黄島の事を知ったのは小学校4年生の頃(昭和58年)祖父に買ってもらった「ゼロ戦」(講談社)という本に硫黄島が出てきたからだ。この本は「大空のサムライ/坂井三郎著」を児童向けに再編集したもので小学生にも読みやすいものだった。(それがとんでもない罠だった事に気づくのは大人になった頃だったが・・・*1)小学2年の時に「日本連合艦隊」というジャガーバックスのムック本を祖父に買い与えられ夢中になって読んだ私にはこの本も堪らない本だった。当時は本もそれはど簡単に買ってもらえる物ではなく擦り切れる勢いで読んだものだ。肝心の本の内容は物語の終盤に著者も戦った硫黄島防空戦(昭和19年6月頃)の事が書いてあり硫黄島の島での暮らしぶりも多少ふれてあった。当時それを読んだ私は戦争末期の戦いが行われた島はどんなところだろうかと関心をもった。その後ミリタリーマニアとして順調に成長し硫黄島に関することも多く知った後、平成18年(2006年)映画「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」が公開される。特に硫黄島からの手紙は大ヒットし上映に合わせ関連書物もたくさん発売され、硫黄島の戦いのTVドキュメンタリーも多数放送された。硫黄島に関する戦記を複数読み、TVドキュメンタリーを見ると益々硫黄島に是非行ってみたい、日本軍による必死の戦いが行われたこの島に是非行ってみたいと思いは募るばかりだった。

 しかし硫黄島に行きたいと言っても硫黄島は民間人が立ち入れないと思われいる島だ。行く方法として、まず最初に思い浮かんだのは島での遺骨収集だがどこで人員を集めているかわからなく頓挫(仮に情報を見つけても遺骨収集による渡島は相当ハードルが高いらしい)、慰霊目的での政府行事参加で渡島したくても硫黄島で戦死している親戚はいない(祖父(実の祖父)は陸軍航空情報兵で沖縄へ行く途中に乗っていた輸送船が潜水艦の雷撃を受けて戦死)、島での工事を担当している会社の長期アルバイトに応募すれば民間人でもいけるという所までは見つけたものの、今の仕事をなげうって行くのは現実的ではない・・・自衛隊の関連団体に入れば視察でいけるんじゃないだろうか?と言われたので信じて入会、せっせと活動をするも行けそうな気配がなく良ーく調らべてみればそんなわけもなくガセネタということがわかったり・・・10年以上悶々として過ごす。そんな日々を送っていたが風向きが変わったのは今から約2年前の2021年年末の頃だった。

 2021年の年末、youtubeで硫黄島に関する動画を何本も見ていたら、たまたま「アルバイトで行ける硫黄島への行き方」という動画がオススメ動画にピックアップされてきた、動画を見るとNLP(米海軍艦載機夜間離発着訓練)に関する自衛隊食堂のアルバイトがあり、しかも2~4週間という比較的短期間で渡島が可能との事だった。これは超有力情報!真っ暗闇に光が差した瞬間だ。さっそく動画を作った方に連絡をとると良い方で早速詳細を教えてもらう。毎年5月にバイトがあり3月に一般的な求人サイトに求人が出るという事、島内の交通手段が徒歩しかないことを教えてもらう。分かってしまえばあっけない何故「硫黄島 アルバイト」というキーワードで検索しなかったんだろう・・・悔やんでもしょうがないので早速検索すると実際にアルバイトを経験した方の情報が次々に見つかりそれぞれを貪り読んだ。アルバイトには食堂勤務と清掃作業があり食堂班は3交代制で初心者は日中が勤務時間の2直という時間帯になるらしい、できれば早朝勤務の1直の方が島内を巡る時間が多くとれていいが雇用元で決めることで私には選択権のないことであった。また清掃班は日中はほぼ仕事の為あまり望ましくない・・・ネットの情報は食堂班の情報がほとんどだったため様子がわかる食堂班勤務にしようとなんとなく決めた。

 そして3月になり毎日硫黄島のキーワードでバイトを検索するも食堂勤務1年位の長期アルバイトは求人があるが短期は全く引っかからずついに5月を迎える、いったい求人なんてあるのか?と訝しげに思っていると新たに8月中旬のJC(青年会議所)のよる硫黄島渡島事業を発見する。しかしこちらは全日程僅か1日で島をあるていど長期間巡れるバイトの方が魅力的だったため応募を見送る(結局これもフタを開けてみると年齢制限で応募出来なかった。若い方は応募するのもいいかも)。さらにしつこくもバイトの方は募集の検索を続けた。そうこうしていると夏の終わり8月末に全く期待しないで求人サイトをみると、なななんと短期の求人が出ているではないか、しかも気が付いたのはちょうど締切日・・・の夜、ぎりぎりアウト!!それでも諦めが悪いので翌日求人元に電話をすると「求人は締切りました」とのことだったが、私がしつこくも来年春に求人がある場合は連絡くださいと言うと、確約は出来ないが求人がある場合は連絡するといって下さった。はーと。その後は電話が来るのを待つのみ、、、島内での交通が己の足のみであるので足を鍛えるべくウォーキングを始める、毎日4~5Km、時間に余裕のある日は10km程度ウォーキングを行った。結果このウォーキングは島内でとても役にたった。そして忘れてならないのは職場の許可と家族の許可である。職場の許可はほぼ自営業なので問題なし(問題ないのか・・・?)、妻には子供の頃から憧れていたと夢をかたり、何度もお願いすると許してくれた・・・神、まさに私にはそう見えました。またyoutube動画の方が島内での宿舎は2人部屋なので友人といくと同じ部屋になって楽ですよと言われ、一緒に行ってくれる友人を探すがなかなか3週間休んで島にいってくれる友人は見つからない。そうしているうちに正月は過ぎインターネットで鹿児島県の馬毛島の自衛隊基地の工事が順調に進んでおりNLPの受け入れが2025年にも可能とのニュースを目にする、とすると硫黄島でNLPが行われるは2023年と2024年の2回で終了の可能性がありますます気が焦る。季節は春になり今年も求人がないのかと気は焦る、3月半ばついに求人元に今年の求人はまだかと問い合わせをしてしまった。すると今年のアルバイトがあるどうかは(米軍の訓練があるかどうか)まだ未確定で確定すれば求人をだすかもということだった。求人元はお堅い組織だったのでここまで話すという事は多分アルバイトはあるなと感じ少し気が楽になる。でも電話があるかどうかはわからない。

 求人サイトを何度もリロードを繰り返す日々を送って約1週間後3月下旬についに先方から電話がかかってきた!!本当に震える手で電話にでると5月上旬から下旬にかけてアルバイトがあるので日程・給与は後ほど連絡をするから履歴書を送って欲しいとのことだった。電話口で何度も御礼を言って電話を切る、ついに俺は硫黄島への切符を手にいれた、小4の時に坂井三郎氏の本を読んでその存在を知り2006年から特に憧れが強くなり悶々として過ごす日々だったがついに硫黄島に行けることになったのだ。

*1ゼロ戦(講談社)は大空のサムライを児童向けに再編集した本だったが、当時(1970~80年代頃)の時代の空気を反映してか大空のサムライにはしっかりと書いてある努力することの素晴らしさ、特に国のために努力すること素晴らしさの記述がごっそり抜け、上官へ反抗する話、原住民の家畜を盗んで食う話(オモシロおかしい)といった反軍的なエピソードが追加してあった。この本でなく元の大空のサムライを読んでいたらもっと努力する人間になってたろうにな~違うか。

つづく(更新は1か月後位かも)

コメント (2)
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少しの間、硫黄島渡島について書きます。

2024-02-04 17:19:18 | 硫黄島
1990年代パチンコ日記の数少ない読んでくださった方へ

少しの間1990年代パチンコ日記をお休みし脳出血発病前に小笠原諸島の硫黄島へ行った話を書きます。

硫黄島の話が終わったらパチンコ日記を再開します。申し訳ありません。
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