1990年代パチンコ・パチスロ実戦記「バラのつぼみ」

私が学生時代に書き留めていたパチンコ・パチスロの実戦データをベースに当時を懐かしむブログにしようと思っています。

硫黄島渡島 その5

2024-03-02 12:03:16 | 硫黄島

硫黄島2日目からほぼ日記を書いていない(とほほ)、思い出しながら浅~い文章になると思います。
仕事は午前11時位から毎日あるので島をめぐるとなると早朝からしかない、しかも地下壕・ジャングルには絶対一人で入ってはだめだと雇用先の方から言われていた。地下壕を見て回るには一緒に行ってくれる人を探さないといけない、幸い同じ勤務時間のIさんが私と同じく戦跡に興味を持っていたので、それを知った渡島中盤からはIさんと島を巡るようになった。色々回りたかったが読んだ戦記の「十七歳の硫黄島」(秋草鶴次著)と「硫黄島戦記」(川相昌一著)「硫黄島決戦」(橋本衛著)は壕や陣地の場所が詳細に書いてあったのでその場所を訪れる事にした。最初は島北部から北部は米軍の上陸した南海岸と反対側なので戦いの最後まで残るだろうと言われていた地域、実際栗林中将のいた兵団本部壕も北部にあった。しかし宿舎から4km~5kmと遠く行くのがなかなか大変だった。栗林兵団本部壕は地下壕の詳細な地図も残されている。特に地熱が高く壕の温度が高い所もわかっており、実際おとずれるとまさにその通り、ここに長時間いるなんて並大抵の精神力では無理だと感じる場所だった。また壕の一部は天然の洞窟で広いスペースもあった。本部壕は詳細な地図があり奥までいけたが方向音痴の為に迷うのが怖くてあまり奥まで行かなかったのが心残りだ。来年は命綱を準備してまた訪れようと思っていたので残念だ。本部壕のすぐ隣には栗林兵団副官部及び軍医部壕があり「硫黄島戦記」によると3月26日の玉砕後も少数の残置兵を残し(「硫黄島戦記著者川相昌一さんがその残置部隊の長)敵を惑わす為に偽電を送信していたそうで壕の中はその通り無線機が残っていた。また玉名山(場所はアルバイト宿舎周辺)に陣を構えた混成第2旅団(千田貞季少将、千田貞敏海軍中将は実兄)が戦いの終盤に兵団本部と合流するよう命じられ移動したのだが移動中に全滅したのが本部壕の目と鼻の先(100m位?)だったのが本当に驚いた、実際に全滅した場所に立つと本部壕まで声が届きそうだった。最後の100mを進むのですら決死の思いだったのだろう。
北部の海岸、温泉浜・北の鼻へ行くにはほとんど道が残っていなく草むらをかき分けて進まなければならず大変だった。温泉浜はその名の通り海岸のいたるところで硫黄や蒸気が噴き出ていた。
島東部は島唯一真水が沸いた銀名水と西大佐戦没の地の碑があった。ここの海岸も硫黄が多く噴き出ていた。また一つの地下壕の跡が現在サウナとして利用されていた、扉を開けてみると60度あり入るのはやめた(後で聞くと扉を開けて温度調整後に入るらしい)。サウナ壕は現硫黄島飛行場滑走路の延長線上にあり米軍の離発着訓練の見学のベストポジションらしかったが仕事終わりは疲れていた為バイト中に行くことはなかった。