1990年代パチンコ・パチスロ実戦記「バラのつぼみ」

私が学生時代に書き留めていたパチンコ・パチスロの実戦データをベースに当時を懐かしむブログにしようと思っています。

当時よく打った機種:春夏秋冬(西陣)

2024-08-11 16:34:52 | 機種情報他
西陣の数珠連チャンデジパチ「春夏秋冬」1993年に発売された春一番、パーラーキング、ミラクルフォースSPに続く数珠連機種です。この機種はモーニング機能があったのですが最初の頃は人気がありあまり打っていませんでした。時間が経ち人気がなくなってからは朝一時に複数台打診できるようになってからはよく打つようになりました。この台は連荘も楽しいですがリーチが秀逸でいわゆる全回転リーチを搭載していました。全回転リーチを搭載した機種ではアラシキング(西陣)に次ぐ2番目の台だと思います。
台の仕組みはモード式の連荘機で大当たり確率は天国1/10ノーマル1/210地獄1/420、朝一は電源投入後1回目のリーチが外れたのちモードを天国2/10ノーマル4/10地獄4/10に振り分ける仕様でした。1/5で天国ですから複数台打診できれば結構な確率で天国モードをGETできました。天国モードでの大当たり終了後は天国4/10ノーマル2/10地獄4/10で振り分けされる。モード変更は大当たり終了後初めての払い出しモータが作動した際にモード移行した。当時のパチンコは払い出しが遅く大当たり終了後もアタッカー等の賞球の払い出しを行っていて大当たり終了後即払い出しモーターは作動する状況だった。パチンコ必勝ガイドでは台の発売からそう時間を空けずに解析記事が発表され大々的に特集記事が書かれていた。解析記事はむさぼるように何度も読んだと思います。むさぼり読んだ結果「大当たり中の打ち出しを調整して大当たり中に払い出しが終わるようにすれば、打ち出して賞球口(スタートチャッカー等)に入るまではモード変更をしないので前回のモードで抽選するんじゃね?つまり保留玉だけは前モードのままじゃない?」と言う疑問を持ち実践してのが下のデータです。

打っているのは全て朝一状態の台です。朝一は急いで複数台を打つために回転数データなし(X台目と書いてあるのは朝一台の何台目で当たったか)。大当たり中の打ち出し調節(10ラウンド位からアッタカーをフルオープンさせ大当たり中に払い出しを終わらせる)は時期から考えてすべてしていると思います。

①1994年12月15日(木)
不明 八八八 (1台目)
保④ 六六六
50回 やめ     大当り2回 天国1回 その他1回

②1994年12月16日(金)
不明 祝祝祝(3台目)
保② 五五五
50回 やめ    大当り 2回 天国1回 その他1回

③1995年2月27日(月)
不明 秋秋秋(2台目)
保① 六六六
保② 二二二
9回 九九九
45回 やめ  大当り 4回 天国3回 その他1回

④1995年3月2日(木)
不明 冬冬冬(2台目)
保② 春春春
保③ 冬冬冬
44回 やめ 大当り 3回 天国2回 その他1回

⑤1994年4月20日(木)
不明 八八八(2台目)
20回 春春春
保③ 祝祝祝
78回 やめ 大当り 3回 天国2回 その他1回

⑥1995年4月21日(金)
不明 祭祭祭
40回 やめ 大当り 1回 その他1回

⑦1995年4月26日(水)
不明 二二二
35回 やめ 大当り 1回 その他1回

⑧1995年6月14日(水)
35回 五五五
やめ 朝一リーチあたり即やめ

⑨1995年9月19日(火)
11回 三三三
やめ 朝一リーチあたり即やめ

初当り 9回(ほぼ間違いなく天国モード:7回 ノーマルモード:2回)

天国→天国 9/16 (56%)

「1/10が 4回で当たる確率 34.39%」です。 天国モード中に天国から落ちる確率は6/10でその状況のときに攻略が効いていれば本来なら連チャンしないはずの台が約35%で連チャンする。連チャンした台も保留玉はモードは移動しないので連チャンのチャンスは継続する・・・はず。計算苦手なんで確率はわかりません。

記録を書き出さているときはスゲー連チャンしている!大当たり中打ち出しコントロール効いてる!と思いましたが計算してみると・・・天国→天国の確率が56%と解析上の確率40%をちょこっと上回っていますがデータが少ないので何とも・・・でも効いている可能性も大いにある。

実機を持っていらっしゃる方が誰か実験してくださいませんかね~


お知らせ

2023-08-24 17:13:06 | 機種情報他
更新をしていませんでした。

じつは2023年6月8日に脳出血をしてしまい只今入院中です。

退院したら、今まで以上にのんびりになりますが更新する予定なのでよろしくお願いします。

2023年5月には3週間ほど小笠原諸島の硫黄島に行って来ました。こちらの事も記事にしたいです。

この記事をごらんの皆様も中年以上と思います。ちょっとでもご自身の身体に「おやっ」と思ったら
すぐ病院で見てもらうのが重要ですよ。(自分で言っておいて何となく「注意が必要だ!」のゴワゴワ王を思い出しました。)
それでは

西陣台の思い出

2023-03-02 12:01:58 | 機種情報他
本日、老舗パチンコメーカーの「西陣」さんが廃業されたとのニュースを目にしました。当ブログで書いている1990年代初頭のパチンコシーンにおいては3大メーカーの一つとして勢いのあったメーカーだけに非常に残念です。倒産でなくて廃業というのが我々ファンからすると救いのような気がします。

西陣については当時パチンコを打っていた人の大半、この度の西陣廃業にあたって当時を語る人が必ず言うと思うのが旧要件末期の西陣羽根物は神掛かっていたという事です。名機として思い出せるだけでも赤兵衛、魔界組、パチンコ大賞、どっかん島、スケボーキッズ、Mrフォール、もちあげ隊と、どの台も本当に面白かった記憶しかありません。私が一番好きだったのは・・・Mrフォールですかね。どこがどう楽しいんだと言われると結構困りますが・・・役物・効果音、全体のバランスが良くてとても楽しかった様に記憶しています。そういえばMrフォールはパチンコ必勝ガイドに連載コーナーを持っていったゴワゴワ王も好きだっていってたな。羽根物は新要件になっても西陣第一弾がモンローという超有名台を発売しています。モンローはV入賞すると15ラウンドをほぼ毎回完走して2,000個近い出玉を得ることができる台で三共のサンダードラゴン、平和のNEWトキオ・ニューヨーカーと共に羽根物をぶち壊してしまった台として語り継がれています。賞球違いのP-2と共に2チャッカーに入れて1回目の羽根開放で拾わないとV入賞のチャンスがなかった所はいただけなく名機とは言い難い台かもしれません。ですが新要件最初の台は各メーカー最大賞球(7&15)、最大ラウンド(16R、ただしチャッカー入賞で羽根が開いてV入賞した時を1Rとしてカウントするので実質は15R)に走るのはある意味しょうがなく、西陣はその後すぐにびんびんバラエティーP-3という神台を発売します。役物キャラの名前が演歌歌手の西 陣太郎、アイドルのソフィーア、パンクミュージシャンのKIRYUっていうのもよく考えられた名前ですしKIRYUのラウンドが一番パンクしやすいっていうのも上手いですよね。この台はV入賞率、継続率、出玉とバランスが取れていて西陣新要件羽根物最初の神台ではなかったでしょうか?その後もカバ丸くん、ダービーキング、ヘブンブリッジと名機を出し続けますが2000年頃には羽根物自体がオワコンになってしまい西陣からも打ち手を夢中にさせる新台は発売されなくなっていったと思います。

デジパチについても1990年代は堅調にヒット機種を連発していました。西陣の旧要件機は打ったことはありませんがファンキー7やアラシキングが有名でした。アラシキングには全回転リーチの先駆けといえるリーチがあり当時は全回転リーチの事はアラシキングリーチと呼ばれることもありました。新要件になるとルーキーデルタ、ルーキーパステルとノーマル機でも人気があり、麻王、花鳥風月、花らんまんといった保連機がヒット、数珠機は春一番、春夏秋冬、パーラーキング、ミラクルフォースとこちらもヒット、こうやって書き出すと新要件初期は本当にヒット機種が多いですね。私は最初にルーキーデルタがお気に入りで良く打っていました。あまり勝った思い出はないのですがBGMがとにかく恰好良かったです。その後によく打ったのは保連デジパチの花らんまんです。自分史上でのNo1デジパチに燦然と輝いております。私はリーチアクションがノーマルリーチしかなくて最終停止段階の速度に減速してからの進行コマ数が決まっている機種に目がなく花らんまんは正にドンピシャな機種でした。花らんまんは最終停止デジタルが2度目の減速をしてから必ず3コマ進んで停止するので7でリーチがかかった場合、4で減速すれば大当りです。4から7に進む間のほんの数秒間に脳汁というか快感物質が分泌されまくりました。花らんまん大好きです。CR機になってからは言わずと知れたCR花満開やCR球界王がヒットします。CR花満開はあまり打ったことがなかったですが7のスーパーリーチで6図柄が散っていったときはやっぱり快感物質の放出がすごそうですね。当時の西陣デジパチは枠も含めて全体的に色使いがパステル色なイメージでした。

一発台、一般電役、権利物ではジェットライン、ジャスティーといった一発台が有名でした。権利物は新要件初期にアルファキング7といって通常2回権利ですが7図柄で当たると3回権利になるといった当時としては斬新な仕様でしたがヒットには至らず、新要件初期では2回権利物で2桁デジタルのニュークーデターが有名でした。ニュークーデターは権利発生用役物の仕組みがまだ洗練されておらず、デジタルが当たっても権利が発生しないことがまあまああったようです。私もデジタル当りは1度しかしたことがないのですがその時権利非発生の憂き目にあっています。その後は役物式権利物のラプソディーがヒットしていて熱かった台らしいですが私は打ったことがありませんので思い出もありません。

こんな感じで1990年代はヒット機種連発で勢いのあった西陣ですので当時パチンコを夢中で打っていたおっさんパチンカーにとって西陣の廃業はとても寂しい出来事と思います。




パチンコ攻略誌の思い出

2023-02-17 12:10:01 | 機種情報他
2023年1月下旬に新型コロナウイルスに感染してしまいました。幸い症状は軽く手持無沙汰な自宅療養期間を過ごしておりました。溜まっている事務仕事など処理などもすぐ終わり、ぽっかり空いた空白の1週間、レトロパチンコ動画を見まくってしまいました。
自宅療養期間に入ったころに偶然高校時代からのパチ友から連絡があり、昔からのガイドライターの対談動画が面白いという情報を得たもので、時間を持て余していた自分には渡りに船で見ましたね~対談動画を、昔の必勝ガイドライターの方々は話も面白いですね。若い頃はアニマルかつみさんについて特にどうも思っていませんでしたがこの度動画をたくさん見て、とにかくお話が上手いのと人間性も素晴らしそうで大好きになりました。そこでそんなアニマルかつみさんが1990年代初頭から活躍しておられたパチンコ攻略誌の思い出を書こうと思います。

私がパチンコを始めた1990年頃発売されていて記憶に残っている攻略誌は
①パチンコ必勝ガイド
②パチンコ攻略マガジン
③秘密のパチンコ術
④パチンコファン
⑤パチンコ必勝本
位でしょうか・・・

私がパチンコ攻略誌に興味を持ち友人に貸してもらったパチンコ攻略誌が①②③の3冊でした。(③④⑤とかじゃなくて良かったです(^_^;)もしそうだったらその後どのようなパチンコ人生を歩んでいたでしょうか・・・逆に負けまくってパチンコから足を洗えていたかもしませんが考えるのも怖いです。)その①②③のなかで私が特に気に入ったのが①のパチンコ必勝ガイドでした。友人に借りて初めて読んだのは今でも覚えていますが西陣のデジパチスーパールーレットが表紙の1991年1月号だったと思います。実は後年、ヤフオクにて1991年92年に発行されたパチンコ必勝ガイドを購入しましたので現在手元においています。
1991年1月号の内容というと・・・

・キャスター(マルホンデジパチ)1027連チャン永久連チャン攻略法
・パニックコスモⅡ(サンヨー)完全攻略法
・パールセブン(マルホン)いぶし銀攻略法
・コンチネンタルⅠ(瑞穂製作所)連チャン実戦データ掲載(実戦店 神田「スリーセブン」)
・コンチネンタルⅢ(メーシー販売)機種紹介
・必勝ガイド開発部 新台のアイデアを読者から募集するコーナー、今号に後に三共から発売された羽根物「ガンコ親父」と瓜二つな「ヒューマのおやじ」という台のアイデアが掲載されています。このアイデアを出した方は三共から謝礼を貰われたのでしょうか?

連載記事として
・石橋達也試練の十番勝負(第5回仙台編 石橋達也(アラシキング)VS安田一彦(FボルテックスⅡ))
・田山幸憲 パチプロ日記
・山崎一夫 銀玉親方の某月某日
・南伸坊 景品交換所ルポ
・蛭子能収 私のパチンコ史
・未確認情報局
・パチバカ天国と地獄
・月刊かもまちラヴリーズ(女性パチンカーのページ、文通相手募集コーナーが時代を感じます)

等々掲載されていました。懐かしい内容ばかりです。
キャスター永久連チャンについては、保留玉満タンから保留消化して最後の回転(5回転目)で大当たりすると以後チャンスタイム入賞球はほぼ100%連荘するという内容です。大当りするのも難しいですがチャンスタイムに保留玉を点けるのがまた難しい、記事はチャッカー手入れで行っているので連チャンしまくっています。この攻略法は後日女性読者が発見したという事で第2回オリ攻大賞(賞金100万円)を受賞していますが、今号(1991年1月号)では攻略法のネタ元が読者投稿であるとの記述は一切ありません。1年後くらいに突然あの攻略法は読者投稿でした~となってオリ攻を受賞しているので私の中ではずっと謎になっています。
コンチⅠ連チャンデータはコンチⅠデビューしたてのCS-90搭載機を小泉シンノスケ氏(後のはとポッポ小泉氏)とライターN氏(負男)が実戦しています。
小泉氏がBIGオンリー12連チャンと多分当時としてはなかなかないような大連チャンをかまして1700Gで3,000枚強出しておられます。(しかも当時としてはかなり高換金率の5.5枚交換)。石橋達也の試練の十番勝負は石橋氏の13時間デスマッチが発展した連載企画でしょうか?ゲストの方と1日13時間パチンコを打って勝負をするという企画です。この号ではなんとあの安田一彦氏が多分ガイド誌に初めて登場しています。勝負は連チャン攻略法が世に出で回転率が芳しくないボルテックスで苦労している安田氏を横目に新台入替間もないブン回りのアラシキング(ノーマル機)を打つ石橋氏が勝利を収めています。
いやー当時の必勝ガイドは次の号が発売される1か月の間、表紙がちぎれるくらいに何度も何度も読み返したもので今でも覚えている記事が少なくありません。楽しかったです。また、繰り返し読むので当時は台のメーカー名、確率等各種スペックを大体暗記していました。受験勉強の方にその力を向けて欲しかったですね。

続いてパチマガ誌、パチマガ誌について1990年ごろの紙面の思い出と言えば無敗のパチプロ田中勝男氏のコラム(?)でしょうか、高〇生の自分でもいくらなんでも無敗はネーだろーと思って読んでいました。ガイドの誌上プロである田山幸憲氏の魅力ある文章やリアリティーと比べてあまりにもフィクションな感じで、その存在が当時パチマガ誌を購読しなかった大きな理由でした。また当時はガイド誌との紙面上でのディスリ合いも激しく、ガイドに肩入れしていた自分はパチマガ誌を立ち読みすることもほとんどありませんでした。その後パチスロ設定判別の何枚手入れといった洗練された手法を開発された時期とどちらが先か忘れましたが日活のドラゴンエースセット打法スクープ掲載号以降はスロマガ月2冊を定期購読するようになりました。ガイド誌と比べるとやや硬めの真面目な記事が多く、参考になることも多かったです。ガイド誌91時間バトルの後発企画だったオール設定バトルは掲載された台の設定別挙動の参考になりました。ただ台の略称や攻略法名称についてはKKK打法、芋ずる連チャン機、クラコン などあまりセンスを感じませんでした(^_^;)

一人暮らしをしていた学生の頃は雑誌発売日は徹夜をして早朝4時頃のコンビニエンスストアに配達されたばかりのガイド誌、マガジン誌を買いに行くのが習慣でした。当時はパチンコ・パチスロ共に破壊力の大きい攻略法が雑誌に掲載されることもたまにありましたし、知っていると得をするいぶし銀的な情報は毎号のように掲載されていました。また連チャンシステムのプログラム解析やパチスロリール制御のテーブル表などの記事を読むのがいつも本当に楽しみでした。

秘密のパチンコ術については出版元がKKベストセラーズという大人向け雑誌「ザ・ベスト」等が有名な割と大手だったからか1990年時点で比較してレイアウトや製本がしっかりしていた印象です。アラジン攻略法の「原爆セット打法」というセット打法が有名でしたが多分ガセだったのではないでしょうか?1990年当時の紙面にはあまり魅力を感じませんでした。

パチンコファンしについては読んでいてあまり面白くない印象でした、ただ平和の数珠連チャン機「ブラボーキングダム」の攻略法を最初に掲載した雑誌と後に聞きました。侮れませんね。

パチンコ必勝本については1990年ごろに1回読んだっきりでその後読んだことはありません、当時は雑誌としての完成度が低いなという印象で購読に至りませんでした。

当時の各誌を比べると必勝ガイド誌が頭抜けていてとにかく面白くて夢中になって読んでいました。今でもガイド誌のライダー諸氏が人気があるという事を考えると私のような人は少なくなかったのではないでしょうか?

思い出のお店がなくなりました。

2023-01-10 11:00:56 | 機種情報他
実家の近所にあった思い出のお店が約1年前に閉店しました。ながらく店舗がそのまま残っていましたが数日前からついに解体が始まりました。


こちらのお店は私が中学生位だった1980年代中頃~後半にグランドオープンをして30年以上大きな店舗改装もなく営業していました。
1階が店舗で2階は住込み従業員用の寮という当時の標準的な構造です。この頃は夫婦の店員さんが多かったですね。旦那はホール係で奥さんはカウンター係か寮母さん的なお仕事をされることが多く、勝手に訳アリ夫婦かな?なんて子供のクセにそんな事を考えていました。当時のパチンコ店員さんは今と違いクセの強い方が多くて自分らとは違う世界の方々という印象を持っていました。パチンコ店はそんな方々のセーフティーネットとして社会的に重要な役割を果たしていたともいえます。ちなみにクセの強い店員さんは1990年代中頃に急激に減っていったと思われます。

高〇2年生の時にパチンコを覚えた私が実家から徒歩数分のこのお店を訪れるのは必然でして、私が最初にお店に入った時の設置機種は・・・

記憶にある限りだと

1990年頃 の設置機種

<羽根物>3,000個定量
マジックカーペット(三共)オール13 8R
うちのポチⅠ(三共)オール13 8R

パチンコを打ち始めた頃はこのお店ではマジカペとうちのポチが主戦場で
800個入りの箱が満タンになれば喜んで交換していました。

コンバットⅠ(三共) 8R
ホールインワン(三洋) 8R
演歌道Ⅰ(三共)オール13 8R 途中新台入替で入りました。

<デジパチ>LN制
ダービー(京楽)ノーマル (出目移行法則あり、ボンカレー打法で有名)
ニコちゃんクラブ2号店(京楽)ノーマル (ダービーと同じデジタル、出目移行法則あり)
グランプリ2号(京楽)ノーマル (その後京楽台に多用されるモノクロ液晶の初代機種だと思います。)
ローリング7(奥村)ノーマル (後のマーブルXと同じデジタル)
ドリームW(奥村)ノーマル ドリームX兄弟機(西日本はWが多かったとか)
フィーバーレクサスⅦ(三共)保連機 朝一単発攻略、ダブルリーチあり
フィーバーレクサスⅥ-D(三共)保連機 朝一単発攻略
フィーバーフラッシュⅠ(三共)保連機 保留玉トコロテン方式のたそがれ連チャン機 途中新台入替で入りました。

パチンコを打ち始めてから半年位すると主に打つ機種が羽根物からデジパチへグレードアップ(?)
こちらのお店で一番のお気に入りは奥村のローリング7でした。奥村特有のつぶつぶドットが好きでした。
上部アタッカーで大量出玉も可能なゲージでしたがこちらのお店の出玉は2,000個チョイだった気がします。
そのくせパンクしやすいのはそのままで数回パンクした記憶もあります。
その次に打ったのが京楽の3機種でしょうか?連チャン機は子供心にまだ俺には早いと思っていた節があります。
ただ1990年途中位に新台で入ったフィーバーフラッシュⅠは夢中で打っていました。出玉はこちらも少なかったので
あまり連チャンしなかったかもしれませんね。
高〇2年生の頃はいわゆるボーダー理論をまだ理解していないので台選びはオカルトでかなり負けていたと思います。

余談ですが石橋達也プロが1980年代末頃(?)から提唱していたボーダー理論(この台がかくかくしかじかの遊技ルールであれば1000円で〇〇回以上デジタルが回れば勝てるという理論)を私が理解するのは18歳か19歳の頃でパチンコ必勝ガイド別冊「デジパチ必勝ガイドVol2」中にボーダー理論を解説している記事がありそれを読んだときにスッと自分の頭の中に入っていきました。その記事は本当に有難かったです。その手の記事では数年後にパチンコ攻略マガジンかパチスロ攻略マガジンでアラプロ氏が連載していた記事もとても理解しやすい文章で為になったことを思い出します。

<アレパチ>4,000個定量
シャトル21(藤商事)後の連チャンアレパチ「エキサイト」と同じクルーンを使用

一発台のシマに設置されていました。羽根物やデジパチで勝った際に勝ち金で恐る恐る打っていたような・・・

<一発台>4,000個定量
ビッグウェーブⅠ(三共)3つ穴回転体振り分け
ファミリー(大一)2段クルーン
カーニバル2号(三洋)一発入賞タイプ(?)

こちらのお店で大当たりした記憶がありません。

以上、パチンコ2.5円交換

<パチスロ>7枚交換
ビッグパルサー(山佐)2-2号機 Aタイプ

初めてパチスロを打ったのがこのお店です。シマ端にあったコイン貸し機に両替機と間違えて1,000円札を投入・・・羽根物を打っていた当時は大金の
1,000円が訳の分からないものに・・・呆然としながら50枚だけビッグパルサーを打ちました。当時のあるあるですね。クレジットの使い方がわからずクレジットに小役の払い出し分を放置したような・・・台に置いてあった箱は長細い800個用の箱でこちらが台と台の間の棚においてありました。BIGがかかると山佐機種についていた400枚位入る上皿を持ち上げて800個用箱に流し込む常連のお客様がかっこよく映り憧れていたような記憶があります。

こちらのお店の景品交換所は同じ敷地内の小屋でした。小屋といってもほぼ店舗本体と一体化している建設物でした。当時の島根県では特に珍しくない状況です。
1990年当時の特殊景品は髪の毛をとかすクシでした。

高〇2年生時にこのお店に初めて入った時はクソ田舎の自宅のごくごく近くにこんな夢の空間があったのかと感動したことを思い出します。高〇時代は上記の感じでこちらのお店で羽根物→デジパチ→一発台と順調にステップアップしていきました。
高校を卒業するとそれと同時に上京していますので数年こちらのお店とは疎遠になります。就職後実家暮らしに戻ると、パチンコの主戦場は勤務先の人口10万人程度の街中でしたが、主に仕事帰りですがたまに家に近いこちらのお店にも行っていました。1990年代末頃の思い出はパチスロ6枚交換でクランキーコンドル、タコスロ、ハナビなどがあったのでそちらを打ったり、パチンコは当時もう珍しかった羽根物が設置してありしかも遊べるタイプの百姓一揆3(マルホン)とくじら君(平和)だったので仕事帰りに良く打っていました。また保連機のエキサイトインカジノ(ニューギン)もみなし機撤去ぎりぎりまで設置してあったので楽しく打たせていただきました。

そのような思い出深いお店ですが時代の流れに抗う事はできず閉店の憂き目となりました。
長きに渡ってありがとうございました。