1990年代パチンコ・パチスロ実戦記「バラのつぼみ」

私が学生時代に書き留めていたパチンコ・パチスロの実戦データをベースに当時を懐かしむブログにしようと思っています。

硫黄島渡島 終わりに

2024-07-16 09:01:51 | 硫黄島

硫黄島での生活はブログで書いた通り早朝からの戦跡めぐりお昼前から夜までの勤務が大半であった。
私がアルバイトで行った2023年は下記のように毎日をすごした。戦跡巡りが渡島の目的だったので雨の日以外は大体午前4時前後に起きていた。5月の日の出は4時30分頃で朝は涼しく過ごしやすかった。ただ日が昇ると暑く外を歩いていると汗だくになった。朝食は6時30分頃と決まっていたが、それでは戦跡を見て回る事もままならない、朝食は抜きにするか食堂勤務という事もあってメニューにパンがある時は食べ残ったパンを持ち帰り、戦跡巡りの途中での朝食にあてがった。10時30分頃から仕事の準備にかかったので遅くても9時頃には外出先から帰った。帰ったら先ず汗だくな体をシャワーで流した。在島中は幸い雨に恵まれ取水制限がなく何度でもシャワーに入れた。
10時30分頃から仕事に掛かり、2度の食事と途中1時間程度の休憩をはさんで19時過ぎまでが仕事である。仕事は別ページでも触れたが2日もすればなれる単純作業である。私は一緒の部署の方にも恵まれたのでストレスの少ない職場だった。仕事が終われば洗濯機の台数が限られているので先ず洗濯にとりかかった。朝着た服や仕事着は汗だくなので出来るだけ洗いたかったが、取水制限なく洗濯ができたのは本当にラッキーだった。洗濯機を回すと急ぎシャワーを浴びる、スッキリした後は仲が良いバイト仲間と毎日お酒を飲む日々。お酒の補給は自衛隊の売店が週3回午前10時過ぎから開いていたし、違う勤務帯のバイト仲間に鹿島建設の売店で買ってもらうように頼めたので潤沢で問題なし。お酒を飲んでいる間に洗濯が終わり部屋の洗濯ロープで物干しをする。(エアコンは高級品が付いていたので衣類乾燥もばっちり)なんやかんやいっても23時頃には毎日寝ていた。夜遅くまで米軍は訓練をしていたが見学に行くほど余力はなく、逆にF/A-18スーパーホーネットの凄まじい排気音も気にならなくなるほど疲れてすぐに寝れた。(まあ戦闘機好きなので排気音を聞くと通常は興奮して目が覚めるたちなのだが)こんな風に約2週間強休みは1日もなく働き続けたが本当に楽しい期間をすごした。最初は1直の方が日中を有効に使えるので良いと思っていたが後々考えると日中は日光がきつく外歩きもままならないので朝の時間を有効につかえる2直で良かったなと思った。でも米海軍の離発着訓練を間近で見学できなかったのは心残りか。
それと携帯電話やインターネットの事情だが2023年時点では4キャリア使えたがドコモ以外は今一、ドコモにしたって通信速度が遅くLINEのスタンプでさえ遅れて送られてくる状態だった。音声通話はまあまあだった。
だがなんだかんだ言っても3週間という時間が作れる人にはお勧めのアルバイトです。ですが馬毛島の自衛隊基地が完成すれば米海軍空母艦載機の着陸訓練もそちらになるみたいでいつまで硫黄島の短期アルバイトがあるか分かりません。硫黄島に多少でも興味がある方は他の方法ではなかなか行くことが出来ないのでお勧めです。また短期アルバイトというお気軽な手段ではあるが、硫黄島は島全体が戦争遺構のようなものだから英霊には敬意をもって訪れた方が良いだろう。それと島の自衛隊、米海軍の方々は皆さん親切で食堂勤務の我々にも敬意をもって接してくれた。食材の倉庫搬入作業を一緒に行った海上自衛隊補給隊の皆さんもテキパキ働ていて非常に印象が良かった。海自司令の指導の賜物だろう。渡島中にちょっと知り合いになって、硫黄島唐辛子をお土産にくれた海上自衛隊のS一尉、私が硫黄島から帰る寸前、道路で偶然出会った時に全力で手を振ってくれた海上自衛隊のT一尉元気だろうか。



硫黄島渡島 その8

2024-07-15 09:24:12 | 硫黄島

島の南部の記録です。南海岸、南揚陸場と戦時中(戦前も?)と呼ばれていた地区で米海兵隊の上陸した東海岸は目と鼻の先の場所になります。宿舎からも近く気楽に行けた場所です。宿舎を出て外周道路沿いに西に向かうとすぐに鹿島建設の現場事務所があります。(鹿島建設は硫黄島の設備維持管理を一手に引き受けていたと思う)鹿島建設にも売店があり平日は毎日営業(営業時間は夕方のみだったような・・・)、自衛隊売店では売っていないタバコも販売している等、魅力のある売店でしたが昼勤の2直は時間帯的に行けなかったので、欲しい物があった場合は他の勤務時間帯の人に買い物を頼んでいました。その鹿島建設現場事務所から南の海岸方面へ抜ける道があり(道というよりも獣道といった表現が近いですが)、海岸へも行けるし分岐して探照灯の遺構へと行ける道もありました。この一帯は海軍の持ち場だったらしく潤沢な建築資材で造ったコンクリートの立派なトーチカが多くありました。トーチカの銃眼から見る東海岸(上陸海岸)は正に目と鼻の先で上陸前の艦砲射撃でやられていなければ上陸後の戦闘で大活躍したでしょう。当時のまま残っていた探照灯は半地下式になっており使う時だけレールに沿って引き出せるようになっていました。そういえばトーチカ群の場所を教えて頂いたベテランバイトのSさんは案内していただいたときに転んで腰を強打してしまった。幸い打ち身程度で済んだがやはり複数人でジャングル、地下壕を巡る大原則は必ず守った方が良い。
そして硫黄島に来る前からここだけは行っておきたいと思っていたのが「初弾必中・水際撃滅・冷静沈着」等当時壁面に書いた標語がいまだ残っているトーチカだ。その場所は意外と近く外周道路から少し横に入るとあった。(実際には文章で書くほど気楽な感じではなく100mほどだが藪漕ぎで進み皮膚がやられたりして大変だった)当時の人が書いた文字は感じ入るものがあった。(戦時中にこの標語を壁に書いたのが硫黄島警備隊司令和智大佐らしい、和智大佐は戦後硫黄島協会を設立して慰霊活動の中心となる。戦後に渡島した際、トーチカの文字が消えかかっていたので文字をなぞって分かりやすくしたらしい)
南海岸は宿舎から行きやすかったので在島中は何度も訪れた。


硫黄島渡島 その7

2024-07-14 16:56:12 | 硫黄島

島の西部の記録、島の西部と言えば最西端に擂鉢山がある、摺鉢山は宿舎から4km程離れているので気軽にはいけない。相談をしてアルバイト期間の終盤に行くことになった。メンバーは在島中僕と戦跡を一緒に回っていたIさんと20歳前半で昆虫採集が目的でこのアルバイトに参加したW君が、摺鉢山はいっていないので一緒に行きたいとの事だったので一緒に行った。W君は若いし昆虫に限らず生物に詳しいので(どこの大学とは聞かなかったが賢かったので多分有名大学卒だろう)アルバイト仲間ではアイドルのような存在で在島中は自分を含むおっさんに可愛がられていた。
朝3時に宿舎外に集合して出発した。朝3時とは言っても外は真っ暗で街灯など灯がなにもないのでライトがないとすぐ近くの人間さえ分からなくなる。天の川もはっきり見えて星が降ってきそうな程である。約1時間ほど歩いて摺鉢山に近づくと空の色が薄っすら白んでくる、そして擂鉢山のふもとに到着していざ登山である。登山と言っても標高170m、登山道は舗装されていて頂上まで車で行ける(自分たちはもちろん徒歩)、途中で朝日を拝みものの30分で頂上へついた、頂上には日米の慰霊碑があり日本国国旗もはためいていた。また硫黄島千鳥飛行場を出発してサイパン基地を強襲した第一御楯特別攻撃隊、米海兵隊上陸後硫黄島周辺に遊弋していた正規空母を含む艦船を攻撃した第二御楯特別攻撃隊の慰霊碑もあった。ともに靖国神社遊就館で攻撃参加者氏名、遺影を見ていたので現地で慰霊できて良かった。頂上の周りにはトーチカらしきものもあった。火口はすでに使われていない雰囲気だった。戦争中に艦砲射撃で形が随分かわったらしい。頂上で朝食用に持って来たのパンを食べていると米軍の方たちも見学に訪れてきた。日本人とはまた別の感慨を覚える場所だろう。お互いに記念写真をとりあったりした。
ある程度の時間を過ごして下山した。下山後は摺鉢山ふもと近くに一式陸攻の廃材を利用といわれるトーチカがあった。帰り道はひたすら遠かったが途中パパイアの木がありW君が身のこなしも軽く実を採ってくれて味を楽しむことが出来た。その他、北側の海岸で北硫黄島を望むことができた。アルバイト期間で北南両硫黄島を見れたのはラッキーだっ。
9時前には宿舎に帰った。この日は3万7千歩歩いたと記録に残っている。島に来る前のウォーキングが役に立ったのではないだろうか?


硫黄島渡島 その6

2024-05-20 11:38:23 | 硫黄島

島の北西部、西部、中心部(元山部落周辺、船見台周辺)の記録、宿舎を出発し島の外周道路を北上または滑走路東端の道路を歩き天山慰霊碑を過ぎたあたりで外周道路と合流するとすぐ栗林兵団本部壕がある、ここで道なりにぐるっと西方向に向かうと医務課壕跡がある、ここの壕は担架を運んだまま出入りできるよう壕が広いため慰霊団や政治家の方が来た際に良く見学される、壕が広いのと発電機とライトが常備されているので安全に見学できる壕である、通風口等あるが奥の方は十分暑い、医務課壕を越えてさらに進むと大坂山北側に着く、そこには西海岸をにらむアームストロング15cm砲がある。色々インターネットで紹介されているので詳細は割愛するが監獄岩を望む景色は良く、ここで休憩して飲んだ缶コーヒーは美味しかった。外周道路を南下していくと島民宿泊所、平和記念公園墓地があり更に進むと現在利用中の石油タンク群がありその先に西海岸の鶯地獄に着くここから遠くに北硫黄島を見ることが出来た。島中部(滑走路北側)は元山部落という島の中心部(村役場等あった)を訪ねる、その痕跡は全く残っていないが硫黄神社が戦後に最建立してある(台風で大破してそのままだが)、また硫黄が丘という戦前から変わらず硫黄を含んだ地下水が噴出している場所がある。何度も戦記を読んだ旧海軍兵橋本衛さんが勤務した元山砲台(高射砲・対空機銃)もこの辺りで何度も読んだ本なので感慨深かった。また硫黄島渡島直前に地元護国神社で知った地元島根県の兵士を中心に編成された陸軍独立歩兵310大隊の地下壕跡が北飛行場跡西端(日本軍のつくった北飛行場ではなく戦後米軍が元山飛行場の拡張に併せてつくった予備飛行場の方、こちらも北飛行場と呼ばれている。今も跡が残る)・大坂山周辺にあって訪れた、ここで地元の兵隊さんが戦ってくれた場所だと思うと非常に感慨深い時間だった。その西側が元山飛行場跡と言われているがここは米軍がつくった通路跡で飛行場跡とは間違っていると思う。現飛行場西端付近が千鳥飛行場東端付近にあたる、主要道路から入ってすぐのところに米軍戦車M4シャーマンがある、M4シャーマンは側面をコンクリートで固めてある応急の対戦車地雷よけが作ってある。バズーカ砲やパンツァーファウストといった歩兵用戦車兵器が開発できなかった日本軍は磁石でくっつけて爆発する対戦車地雷に頼らざるを得なかったため米軍もそれに対応するようにしてあった。M4シャーマンの少し先には船見台と呼ばれる高台があったが重要施設と認識していなかったため見落としてしまった。もう一度いったら是非訪れたい。

硫黄島渡島 その5

2024-03-02 12:03:16 | 硫黄島

硫黄島2日目からほぼ日記を書いていない(とほほ)、思い出しながら浅~い文章になると思います。
仕事は午前11時位から毎日あるので島をめぐるとなると早朝からしかない、しかも地下壕・ジャングルには絶対一人で入ってはだめだと雇用先の方から言われていた。地下壕を見て回るには一緒に行ってくれる人を探さないといけない、幸い同じ勤務時間のIさんが私と同じく戦跡に興味を持っていたので、それを知った渡島中盤からはIさんと島を巡るようになった。色々回りたかったが読んだ戦記の「十七歳の硫黄島」(秋草鶴次著)と「硫黄島戦記」(川相昌一著)「硫黄島決戦」(橋本衛著)は壕や陣地の場所が詳細に書いてあったのでその場所を訪れる事にした。最初は島北部から北部は米軍の上陸した南海岸と反対側なので戦いの最後まで残るだろうと言われていた地域、実際栗林中将のいた兵団本部壕も北部にあった。しかし宿舎から4km~5kmと遠く行くのがなかなか大変だった。栗林兵団本部壕は地下壕の詳細な地図も残されている。特に地熱が高く壕の温度が高い所もわかっており、実際おとずれるとまさにその通り、ここに長時間いるなんて並大抵の精神力では無理だと感じる場所だった。また壕の一部は天然の洞窟で広いスペースもあった。本部壕は詳細な地図があり奥までいけたが方向音痴の為に迷うのが怖くてあまり奥まで行かなかったのが心残りだ。来年は命綱を準備してまた訪れようと思っていたので残念だ。本部壕のすぐ隣には栗林兵団副官部及び軍医部壕があり「硫黄島戦記」によると3月26日の玉砕後も少数の残置兵を残し(「硫黄島戦記著者川相昌一さんがその残置部隊の長)敵を惑わす為に偽電を送信していたそうで壕の中はその通り無線機が残っていた。また玉名山(場所はアルバイト宿舎周辺)に陣を構えた混成第2旅団(千田貞季少将、千田貞敏海軍中将は実兄)が戦いの終盤に兵団本部と合流するよう命じられ移動したのだが移動中に全滅したのが本部壕の目と鼻の先(100m位?)だったのが本当に驚いた、実際に全滅した場所に立つと本部壕まで声が届きそうだった。最後の100mを進むのですら決死の思いだったのだろう。
北部の海岸、温泉浜・北の鼻へ行くにはほとんど道が残っていなく草むらをかき分けて進まなければならず大変だった。温泉浜はその名の通り海岸のいたるところで硫黄や蒸気が噴き出ていた。
島東部は島唯一真水が沸いた銀名水と西大佐戦没の地の碑があった。ここの海岸も硫黄が多く噴き出ていた。また一つの地下壕の跡が現在サウナとして利用されていた、扉を開けてみると60度あり入るのはやめた(後で聞くと扉を開けて温度調整後に入るらしい)。サウナ壕は現硫黄島飛行場滑走路の延長線上にあり米軍の離発着訓練の見学のベストポジションらしかったが仕事終わりは疲れていた為バイト中に行くことはなかった。