実家の近所にあった思い出のお店が約1年前に閉店しました。ながらく店舗がそのまま残っていましたが数日前からついに解体が始まりました。
こちらのお店は私が中学生位だった1980年代中頃~後半にグランドオープンをして30年以上大きな店舗改装もなく営業していました。
1階が店舗で2階は住込み従業員用の寮という当時の標準的な構造です。この頃は夫婦の店員さんが多かったですね。旦那はホール係で奥さんはカウンター係か寮母さん的なお仕事をされることが多く、勝手に訳アリ夫婦かな?なんて子供のクセにそんな事を考えていました。当時のパチンコ店員さんは今と違いクセの強い方が多くて自分らとは違う世界の方々という印象を持っていました。パチンコ店はそんな方々のセーフティーネットとして社会的に重要な役割を果たしていたともいえます。ちなみにクセの強い店員さんは1990年代中頃に急激に減っていったと思われます。
高〇2年生の時にパチンコを覚えた私が実家から徒歩数分のこのお店を訪れるのは必然でして、私が最初にお店に入った時の設置機種は・・・
記憶にある限りだと
1990年頃 の設置機種
<羽根物>3,000個定量
マジックカーペット(三共)オール13 8R
うちのポチⅠ(三共)オール13 8R
パチンコを打ち始めた頃はこのお店ではマジカペとうちのポチが主戦場で
800個入りの箱が満タンになれば喜んで交換していました。
コンバットⅠ(三共) 8R
ホールインワン(三洋) 8R
演歌道Ⅰ(三共)オール13 8R 途中新台入替で入りました。
<デジパチ>LN制
ダービー(京楽)ノーマル (出目移行法則あり、ボンカレー打法で有名)
ニコちゃんクラブ2号店(京楽)ノーマル (ダービーと同じデジタル、出目移行法則あり)
グランプリ2号(京楽)ノーマル (その後京楽台に多用されるモノクロ液晶の初代機種だと思います。)
ローリング7(奥村)ノーマル (後のマーブルXと同じデジタル)
ドリームW(奥村)ノーマル ドリームX兄弟機(西日本はWが多かったとか)
フィーバーレクサスⅦ(三共)保連機 朝一単発攻略、ダブルリーチあり
フィーバーレクサスⅥ-D(三共)保連機 朝一単発攻略
フィーバーフラッシュⅠ(三共)保連機 保留玉トコロテン方式のたそがれ連チャン機 途中新台入替で入りました。
パチンコを打ち始めてから半年位すると主に打つ機種が羽根物からデジパチへグレードアップ(?)
こちらのお店で一番のお気に入りは奥村のローリング7でした。奥村特有のつぶつぶドットが好きでした。
上部アタッカーで大量出玉も可能なゲージでしたがこちらのお店の出玉は2,000個チョイだった気がします。
そのくせパンクしやすいのはそのままで数回パンクした記憶もあります。
その次に打ったのが京楽の3機種でしょうか?連チャン機は子供心にまだ俺には早いと思っていた節があります。
ただ1990年途中位に新台で入ったフィーバーフラッシュⅠは夢中で打っていました。出玉はこちらも少なかったので
あまり連チャンしなかったかもしれませんね。
高〇2年生の頃はいわゆるボーダー理論をまだ理解していないので台選びはオカルトでかなり負けていたと思います。
余談ですが石橋達也プロが1980年代末頃(?)から提唱していたボーダー理論(この台がかくかくしかじかの遊技ルールであれば1000円で〇〇回以上デジタルが回れば勝てるという理論)を私が理解するのは18歳か19歳の頃でパチンコ必勝ガイド別冊「デジパチ必勝ガイドVol2」中にボーダー理論を解説している記事がありそれを読んだときにスッと自分の頭の中に入っていきました。その記事は本当に有難かったです。その手の記事では数年後にパチンコ攻略マガジンかパチスロ攻略マガジンでアラプロ氏が連載していた記事もとても理解しやすい文章で為になったことを思い出します。
<アレパチ>4,000個定量
シャトル21(藤商事)後の連チャンアレパチ「エキサイト」と同じクルーンを使用
一発台のシマに設置されていました。羽根物やデジパチで勝った際に勝ち金で恐る恐る打っていたような・・・
<一発台>4,000個定量
ビッグウェーブⅠ(三共)3つ穴回転体振り分け
ファミリー(大一)2段クルーン
カーニバル2号(三洋)一発入賞タイプ(?)
こちらのお店で大当たりした記憶がありません。
以上、パチンコ2.5円交換
<パチスロ>7枚交換
ビッグパルサー(山佐)2-2号機 Aタイプ
初めてパチスロを打ったのがこのお店です。シマ端にあったコイン貸し機に両替機と間違えて1,000円札を投入・・・羽根物を打っていた当時は大金の
1,000円が訳の分からないものに・・・呆然としながら50枚だけビッグパルサーを打ちました。当時のあるあるですね。クレジットの使い方がわからずクレジットに小役の払い出し分を放置したような・・・台に置いてあった箱は長細い800個用の箱でこちらが台と台の間の棚においてありました。BIGがかかると山佐機種についていた400枚位入る上皿を持ち上げて800個用箱に流し込む常連のお客様がかっこよく映り憧れていたような記憶があります。
こちらのお店の景品交換所は同じ敷地内の小屋でした。小屋といってもほぼ店舗本体と一体化している建設物でした。当時の島根県では特に珍しくない状況です。
1990年当時の特殊景品は髪の毛をとかすクシでした。
高〇2年生時にこのお店に初めて入った時はクソ田舎の自宅のごくごく近くにこんな夢の空間があったのかと感動したことを思い出します。高〇時代は上記の感じでこちらのお店で羽根物→デジパチ→一発台と順調にステップアップしていきました。
高校を卒業するとそれと同時に上京していますので数年こちらのお店とは疎遠になります。就職後実家暮らしに戻ると、パチンコの主戦場は勤務先の人口10万人程度の街中でしたが、主に仕事帰りですがたまに家に近いこちらのお店にも行っていました。1990年代末頃の思い出はパチスロ6枚交換でクランキーコンドル、タコスロ、ハナビなどがあったのでそちらを打ったり、パチンコは当時もう珍しかった羽根物が設置してありしかも遊べるタイプの百姓一揆3(マルホン)とくじら君(平和)だったので仕事帰りに良く打っていました。また保連機のエキサイトインカジノ(ニューギン)もみなし機撤去ぎりぎりまで設置してあったので楽しく打たせていただきました。
そのような思い出深いお店ですが時代の流れに抗う事はできず閉店の憂き目となりました。
長きに渡ってありがとうございました。
こちらのお店は私が中学生位だった1980年代中頃~後半にグランドオープンをして30年以上大きな店舗改装もなく営業していました。
1階が店舗で2階は住込み従業員用の寮という当時の標準的な構造です。この頃は夫婦の店員さんが多かったですね。旦那はホール係で奥さんはカウンター係か寮母さん的なお仕事をされることが多く、勝手に訳アリ夫婦かな?なんて子供のクセにそんな事を考えていました。当時のパチンコ店員さんは今と違いクセの強い方が多くて自分らとは違う世界の方々という印象を持っていました。パチンコ店はそんな方々のセーフティーネットとして社会的に重要な役割を果たしていたともいえます。ちなみにクセの強い店員さんは1990年代中頃に急激に減っていったと思われます。
高〇2年生の時にパチンコを覚えた私が実家から徒歩数分のこのお店を訪れるのは必然でして、私が最初にお店に入った時の設置機種は・・・
記憶にある限りだと
1990年頃 の設置機種
<羽根物>3,000個定量
マジックカーペット(三共)オール13 8R
うちのポチⅠ(三共)オール13 8R
パチンコを打ち始めた頃はこのお店ではマジカペとうちのポチが主戦場で
800個入りの箱が満タンになれば喜んで交換していました。
コンバットⅠ(三共) 8R
ホールインワン(三洋) 8R
演歌道Ⅰ(三共)オール13 8R 途中新台入替で入りました。
<デジパチ>LN制
ダービー(京楽)ノーマル (出目移行法則あり、ボンカレー打法で有名)
ニコちゃんクラブ2号店(京楽)ノーマル (ダービーと同じデジタル、出目移行法則あり)
グランプリ2号(京楽)ノーマル (その後京楽台に多用されるモノクロ液晶の初代機種だと思います。)
ローリング7(奥村)ノーマル (後のマーブルXと同じデジタル)
ドリームW(奥村)ノーマル ドリームX兄弟機(西日本はWが多かったとか)
フィーバーレクサスⅦ(三共)保連機 朝一単発攻略、ダブルリーチあり
フィーバーレクサスⅥ-D(三共)保連機 朝一単発攻略
フィーバーフラッシュⅠ(三共)保連機 保留玉トコロテン方式のたそがれ連チャン機 途中新台入替で入りました。
パチンコを打ち始めてから半年位すると主に打つ機種が羽根物からデジパチへグレードアップ(?)
こちらのお店で一番のお気に入りは奥村のローリング7でした。奥村特有のつぶつぶドットが好きでした。
上部アタッカーで大量出玉も可能なゲージでしたがこちらのお店の出玉は2,000個チョイだった気がします。
そのくせパンクしやすいのはそのままで数回パンクした記憶もあります。
その次に打ったのが京楽の3機種でしょうか?連チャン機は子供心にまだ俺には早いと思っていた節があります。
ただ1990年途中位に新台で入ったフィーバーフラッシュⅠは夢中で打っていました。出玉はこちらも少なかったので
あまり連チャンしなかったかもしれませんね。
高〇2年生の頃はいわゆるボーダー理論をまだ理解していないので台選びはオカルトでかなり負けていたと思います。
余談ですが石橋達也プロが1980年代末頃(?)から提唱していたボーダー理論(この台がかくかくしかじかの遊技ルールであれば1000円で〇〇回以上デジタルが回れば勝てるという理論)を私が理解するのは18歳か19歳の頃でパチンコ必勝ガイド別冊「デジパチ必勝ガイドVol2」中にボーダー理論を解説している記事がありそれを読んだときにスッと自分の頭の中に入っていきました。その記事は本当に有難かったです。その手の記事では数年後にパチンコ攻略マガジンかパチスロ攻略マガジンでアラプロ氏が連載していた記事もとても理解しやすい文章で為になったことを思い出します。
<アレパチ>4,000個定量
シャトル21(藤商事)後の連チャンアレパチ「エキサイト」と同じクルーンを使用
一発台のシマに設置されていました。羽根物やデジパチで勝った際に勝ち金で恐る恐る打っていたような・・・
<一発台>4,000個定量
ビッグウェーブⅠ(三共)3つ穴回転体振り分け
ファミリー(大一)2段クルーン
カーニバル2号(三洋)一発入賞タイプ(?)
こちらのお店で大当たりした記憶がありません。
以上、パチンコ2.5円交換
<パチスロ>7枚交換
ビッグパルサー(山佐)2-2号機 Aタイプ
初めてパチスロを打ったのがこのお店です。シマ端にあったコイン貸し機に両替機と間違えて1,000円札を投入・・・羽根物を打っていた当時は大金の
1,000円が訳の分からないものに・・・呆然としながら50枚だけビッグパルサーを打ちました。当時のあるあるですね。クレジットの使い方がわからずクレジットに小役の払い出し分を放置したような・・・台に置いてあった箱は長細い800個用の箱でこちらが台と台の間の棚においてありました。BIGがかかると山佐機種についていた400枚位入る上皿を持ち上げて800個用箱に流し込む常連のお客様がかっこよく映り憧れていたような記憶があります。
こちらのお店の景品交換所は同じ敷地内の小屋でした。小屋といってもほぼ店舗本体と一体化している建設物でした。当時の島根県では特に珍しくない状況です。
1990年当時の特殊景品は髪の毛をとかすクシでした。
高〇2年生時にこのお店に初めて入った時はクソ田舎の自宅のごくごく近くにこんな夢の空間があったのかと感動したことを思い出します。高〇時代は上記の感じでこちらのお店で羽根物→デジパチ→一発台と順調にステップアップしていきました。
高校を卒業するとそれと同時に上京していますので数年こちらのお店とは疎遠になります。就職後実家暮らしに戻ると、パチンコの主戦場は勤務先の人口10万人程度の街中でしたが、主に仕事帰りですがたまに家に近いこちらのお店にも行っていました。1990年代末頃の思い出はパチスロ6枚交換でクランキーコンドル、タコスロ、ハナビなどがあったのでそちらを打ったり、パチンコは当時もう珍しかった羽根物が設置してありしかも遊べるタイプの百姓一揆3(マルホン)とくじら君(平和)だったので仕事帰りに良く打っていました。また保連機のエキサイトインカジノ(ニューギン)もみなし機撤去ぎりぎりまで設置してあったので楽しく打たせていただきました。
そのような思い出深いお店ですが時代の流れに抗う事はできず閉店の憂き目となりました。
長きに渡ってありがとうございました。