真夜中のボクサー
もっと早く帰ればよかったと後悔した。
久しぶりの飲み会が楽しくて時間を逃してしまったのだ。
彼氏に迎えに来てもらった友人が「車で送ってあげる」と言ってくれていたのに、大丈夫だと見栄を張った自分が情けない。
終電に間に合い最寄り駅まで帰れたものの、自宅までの道のりには女子にとって大きな難所があった。
はあ。
深いため息が出た。
ここから向こうは人目がなくなる痴漢多発地帯――危険な難所だ。
通勤通学の女子やその家族の要望により街灯の増設、警官や自治体有志によるパトロールの強化をもってしても痴漢の被害はなくならない。
後をつけ回す者や露出狂、抱きつかれたりレイプされた人もいると聞く。
母に言わせれば、痴漢多発地帯だとわかっていて夜中に通る女が悪いらしい。
でもね、わかってても通らないといけない時だってあるんだよ。今のわたしみたいに。
あーあ、無事通れるかな。何かあったらそれ見たことかって嫌味言われそう――うん。きっと大丈夫。わたし可愛くないし。よしっ。
多発地帯に踏み込み進んで行くと、後ろからついてくる足音に気付いた。
心臓がどくんと跳ねる。
早足で進む、足音も早くなる。
やだやだやだ。日頃全然モテないのに何でこんな時だけ狙われるわけ?
いやいや、まだ狙われているわけじゃない。ただの通行人。わたしの勘違い。自意識過剰になってんじゃないわよ。
でも――やっぱり逃げたほうがいいと考え、全速力で走った。
だが、日頃の運動不足と酔いが祟る。
切れた息を整えながら後ろの気配を窺うと足音は消えていた。
やっぱり勘違いだったんだ。
ほっと胸を撫で下ろした瞬間、目の前の横路地から飛び出してきた男が目の前に立った。
裏路地を通って先回りしてきたのだ。
フードを被った髭面がにやにやしながら、露出した股間をいじくっている。
驚きと恐怖で動けないでいると、汚らしいその手を伸ばしてきた。
いやぁぁ――
その時、男が横に吹っ飛んだ。
「えっ?」
呆然とするわたしの目の前にはカンガルーが立っていた。胸板が厚く腕の筋肉が盛り上がっている立派なカンガルーが。
びょんびょん飛び跳ね、起き上がろうとする男に向かってなおもファイティングポーズをとり、立ち上がったとたんジャンプキックを食らわせた。
太い尻尾が放つ跳躍と筋肉質の大きな足の威力は絶大だった。
再び吹っ飛び完全に気絶した男を見届けるとカンガルーはこっちを振り向いた。
どこをどう見ても本物で、鋼のような強靭な体とは裏腹に長い睫毛のとろんとした大きな黒目がとても可愛らしい。
カンガルーは口をもごもご動かし、耳をニ三回掻いた後、軽やかに跳ねて暗闇に消え去った。
その方向をぼうっと眺めていたが、我に返ると急いで携帯電話で110番通報する。
痴漢を撃退したのはカンガルーだとお巡りさんは信じてくれるだろうか。
パトカーを待ちながら、わたしはあの逞しいカンガルーにまた会いたいと願っていた。