遠景
建築中ビルの四階足場に立って景色を眺めていた。
蒸し暑い日々が続くが、風に吹かれていると心地いい。
下では道路を行きかう車に自転車にバイク、乳母車を押す母親、犬の散歩をする老人、公園に行くのか列になって歩く幼児たちの赤い帽子の群れなどが見える。
重なる屋根の間には公園の木々が風に揺れていた。
その向こうには電気屋やパン屋などの店先も見える。
パン屋の二軒ほど先の花屋の前では、女が二人立ち働いていた。
遠すぎて顔は見えないが、一人が赤い派手なTシャツに白いパンツを履いている。もう一人がピンクのワンピースだ。
ともにストライプのエプロンをつけていた。
「きょうも暑いなあ」
カチャカチャと安全帯の金属音を立てながら先輩鳶が近づいてきた。オレの視線に気づいてにやりと笑う。
「なんですか?」
「ふっふーん。サボって何見てんの?」
「サボってませんよ。ちょっと風に吹かれてただけで――」
「んなこと言ってぇ。わかってんだぞ。あそこの花屋の女子見てただろ?」
「見てませんよ」
どきっとして顔をそらす。日頃鈍感な割に変なとこ鋭い。
「おっ、そんなこと言って顔が赤いぞ。
おっ、おっ、さてはお前、女日照りだな」
「確かに彼女いませんけど、見てません」
「ははは、ヨダレ出てんぞ」
「やめてくださいよ、もうっ」
マジうぜぇと思ったものの、一生懸命働いている彼女たちを確かに眩しくは感じていた。
「そこで提案。昼休憩の時にあそこまで行って彼女らを今夜の飲み会に誘ってきて」
なんだよ。自分がチェック入れてたんじゃねえか。
「いやですよ。そんなことできません」
「いいから。いいから。
俺のバイク貸してやるから、ぜってー行って来いよ」
先輩は下卑た笑いを浮かべたまま自分の作業場へ戻っていった。
嘘だろう。無理。絶対無理。女誘えるくらいなら彼女の一人くらいもういるってーの。
どうしよう。忘れっぽい先輩のことだ。昼まで忘れてしまってることを祈ろう。
「あっ」
突然赤いTシャツの女がこっちを見た。まるでオレが見ていることに気付いたかのように。
心臓が破裂しそうに痛い。
まさか。いくらなんでもどこを見てるかなんてわからないだろう。
そう思いながら、ほんの少しだけ淡い期待を抱いている自分もいた。
*
あのまま忘れていればいいのに昼食を食った後、先輩はきっちりとバイクのキーを持ってきた。
何度も断ったが、フルフェイスのヘルメットをすっぽりかぶせられて無理やりバイクの前まで引きずられて来た。
「早く行って来いよ。休憩時間終わっちまうだろ」
眉をしかめ、若干脅しの口調だ。
こうなったら行かないわけにはいかない。
仕方なく、先輩が言うから仕方なく行くんだ。
汗臭いヘルメットの中で独り言ちる。
花屋の周辺に近づいていくと、ときときと心臓が高鳴り始めた。
邪魔にならない場所にバイクを止めてうろついた。
花屋の前を行ったり来たりしたが、二人とも休憩中なのか姿が見えない。
さりげなさを装っているつもりだがどう見ても挙動不審者だ。そう自覚しながらも店内の覗き見を繰り返す。
店の奥から赤い服が見えた。
心臓が躍り出す。
「こんにちは。いらっしゃいませ」
店先に出て来た女が鼻にかかった甘い声を出す。真っ赤に塗った唇がにんまりと弓形にしなる。
自分が何をしに来たのか見透かされている気がした。それに応じるつもりの気配もする。やはりあの時気付いていたのか。こんな遠いところから。
自分の顔が赤く火照っていくのがわかる。
ピンクの女も出て来た。こっちもばっちり化粧をしてオレを熱い視線で見つめる。
目を伏せて逃げた。背中に視線が突き刺さる。
ナンパなんて無理だ。無理です。ごめんなさい。
オレは振り向くことなく、バイクへと戻り、猛スピードで現場に帰った。
待ち構えていた先輩が寄ってくる。
「うまくいったか?」
首を横に振るしかない。
「マジかよっ。ビビりか、お前っ。そんなこっちゃ女なんて一生できないぞ」
「――だよ」
「はあっ? 何ぼそぼそ言い訳こいてんの。ったく、女も引っかけてこれねえのかよ」
「――ったんだよ」
「なにっ?」
「だ、か、らっ、ババアだったんだよ。ふたりとも皺くちゃのババアだったんだよっ」