赤いボール・前編
毎日が針の筵だった。
姑の多永子からは子供ができないと嫌味を言われ、夫、圭司は愛人を作ったあげく妊娠させ、自分には非がないとばかりに態度がでかい。
ここ最近、二人から離婚を仄めかされている。
わたしは何も悪くない。まだ子供が授からないだけで、医者から「できない」と言われているわけではないのだ。
なのに、なぜ家から追い出されなければならないの。
花恵は唇を噛みしめ、ぜったい別れるもんかと日々耐え忍んでいた。
「お義姉さんも大変ね」
ソファでくつろぎながら曜子がおもたせのケーキを頬張った。
実家だから来るなとも言えず、毎日来ては時間を潰されるのに辟易していたが、彼女は花恵の唯一の味方だ。
「そうなのよ、でもわたしは別れたくないの」
カップに紅茶を注ぎながらため息をつく。
「財産のため?」
嫌なニュアンスを感じ取り、花恵は顔を上げた。
「ウソ、ウソ。ごめんなさい」
曜子が笑ってごまかす。
だが、花恵はピンときた。
きっと多永子に離婚の説得を頼まれたのだ。
「わたしは今でも圭司さんを愛してるのよ」
曜子の前に紅茶のカップを置くと向かいの席に着く。
「こんなに愛されているのに、お兄ちゃんは何で浮気するかなあ」
「子供が欲しいんでしょ。
でもわたしだってできないわけじゃないのよ。
圭司さんもお義母さんも何をそんなに焦っているのやら」
「お兄ちゃんもママも子供好きだからね。お義姉さんがお嫁に来たらすぐ赤ちゃんの顔が見れると思ったんじゃない?」
そう言って曜子は紅茶を口に含む。
「わたしが妊娠するまで曜子ちゃんの赤ちゃんで我慢してくれたらいいのに」
ケーキをほじくりながら花恵は曜子のだんだん大きくなっている腹に視線を送った。
「そう言えば、この間お兄ちゃんたち見たよ」
「たち?」
「お兄ちゃんと美土里さん。あの人のお腹まだ大きくなかったわ」
「そう」
花恵のこめかみがずんっと痛んだ。
「お兄ちゃんあの胸とお尻にやられちゃったのね。バカみたいに大きいのよ。真面目なお兄ちゃんだったからせまられていちころだったんじゃない?
だからお義姉さん、あんなお兄ちゃんのことなんか忘れて慰謝料ふんだくって別れれば?」
ほら来た。本題はこれだ。
「それはそうと曜子ちゃんはどうなの? 浩一さんはもう大丈夫?」
少しレモンの効き過ぎた紅茶を飲み、花恵は話をはぐらかした。
音を立ててカップを置くと曜子は身を乗り出した。
「うん。もう大丈夫みたい。昨日なんかわたしのお腹を擦って楽しみだって笑ったのよ」
「そう。悲しみは癒えたのね。ホントよかったわ」
そう言うと曜子が満面の笑みを浮かべた。
妻に先立たれた子持ち男と三か月前に籍を入れたばかりの曜子は多永子には交際当初から大反対されていた。
母親にしてみれば溺愛する娘の結婚は完璧なものでなければならない。子連れの再婚やでき婚になるのはどうしても許せなかった。
そのため母娘の仲がぎくしゃくするようにまでなっていたが、案じていた曜子の妊娠が逆に多永子の心を変えた。
新しい命が宿ったと知ったとたん、子連れ、再婚、でき婚という多永子にとっての負のキーワードがきれいさっぱり頭から消え去ったのだ。
だが、今度は浩一の幼い娘、由姫が曜子の前に立ちはだかった。「お姉ちゃん」と言って懐いているはずだったのに結婚話が進むにつれ、だんだん敵意を剥きだしてきたのだ。
娘を説得するまで結婚に待ったがかかり、その頃の曜子はひどく落ち込み、花恵の目から見てもかわいそうなくらいだった。
しばらくして由姫が事故で死んだ。
浩一と遊びに行った近所の自然公園で、目を離したほんの一瞬に池に落ちて溺れ死んだのだ。
浩一の悲しみはひどかった。自分も後を追って行きかねないくらいだったが、それを救ったのが曜子とそのお腹にいる子供だ。
曜子は結婚式こそ上げられなかったが、浩一の妻となり彼を献身的に支えていた。
「ずうっと由姫、由姫って泣いてたの。寝言まで名前を呼ぶくらい。
でもここ最近はわたしを労って家事も手伝ってくれるようになったし――」
曜子は感極まり声を詰まらせる。
「で、昨日は赤ちゃんのこと楽しみだって笑ったのね。
よかった。あなた本当によく頑張ったわ。もう大丈夫。うんと幸せになってね」
「お義姉さん、ありがとう」
そう言って曜子が涙を拭く。
どいつもこいつもなんで簡単に妊娠するんだろうと思いながら、とにかく話をはぐらかせてよかったと花恵はほっとした。
「せっかく曜子ちゃんが来たのに、結局お義母さん帰ってこなかったわね」
花恵は曜子を門の外まで見送った。
「う、うん、いいの、いいの。お義姉さんと話がしたかっただけだから」
本来の目的を思い出したのか、歯切れの悪い返事をしつつ「じゃまたね」と曜子が立ち去る。
「気を付けて」
手を振って花恵は門扉を閉めようとした。
門前を赤いボールがころころと転がっていく。
花恵は門扉の上から首だけ出してボールとその転がって来た方向を確かめたが誰もいなかった。それどころか今見たはずのボールも消えてなくなり、いくら目を凝らしても遠ざかっていく曜子の背中が見えるだけだ。
「いやだわ。目の調子が悪いのかしら?」
花恵は目を瞬かせながら中に戻った。