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地の底から聞こえてくるような咆哮が聞こえ、智子ははっと顔を上げた。
かおるには聞こえなかったのか、隣の席で何事もないようにカルテの記入をしている。
今夜もまた居眠りして夢でも見たのだろうか。
「智ちゃん、巡回の時間よ、お願いね」
「あ、はい」
顔を上げずカルテに向き合ったままのかおるに返事をして、智子は席を立った。
ナースステーションを出て懐中電灯を照らしながら常夜灯だけの暗い廊下を進む。
重篤な患者は街の大病院に転院させるので、入院しているのは比較的病状の軽い患者か、通院困難な骨折等の怪我をしている患者のみだった。
大半が老人だったが、外科的な患者には若者もいる。その中で一人だけ小学生の男の子がいた。
院長の息子、由紀生は生まれた時から身体が弱くずっと病院暮らしだという。
その由紀生がぼうっと患者専用エレベーターの横にある階段の前に立っていた。
ナースステーションを振り返ったが、まだ机に向かっているのか、かおるの姿は見えない。
智子はそっと由紀生の肩に手を置いた。
「どうしたの? もうとっくに消灯時間過ぎてるよ」
びくっと体を震わせ、怯えた目を智子に向ける。
「変な声が聞こえたんだ」
その言葉に智子はさっき聞いた咆哮を思い出した。
「き、気のせいよ」
笑みを浮かべてみたものの、上ずった声はごまかせなかった。
「お姉ちゃんも聞いたの?」
「き、聞いてないよ」
「ウソだぁ。だって怖がってるもん」
「ホントにホント。ぜんっぜん聞いてないっ。
ほら、石田さんに見つかるとヤバいよ。だから早くベッドに戻って」
212号の自室に戻そうと由紀生の背中を優しく押す。
だが、由紀生は脚を踏ん張って話し続けた。
「たまに聞こえるんだよ。地下から」
確か地階には霊安室とボイラー室がある。
「あ、わかった。きっとボイラーの機械音がそう聞こえるんだわ」
だから地の底から聞こえてくるような声に聞こえたのよ。
智子もそう納得し、『霊安室から』という怖いことはあえて考えないようにして由紀生を部屋の前まで押していった。
「でも霊安し――」
「だーっそれはないそれはない」
そっち方向に結び付けようとする由紀生を制しスライドドアを開ける。
しぶしぶベッドに上がった由紀生にケットを掛け「おやすみ」と言って部屋を出た。
廊下でほっと息をついていると、今度は薄明りにぼんやり浮かぶ松葉杖の人影に気付いて智子は飛び上がった。
「智ちゃん。きょう当直?」
このにやけた声は――
下腿部の骨折で大部屋に入院している山尾だとわかりため息をつく。
「こんな夜中に何うろうろしてるんですか?」
どいつもこいつもと言いたいのを我慢して詰め寄る。
「下のロビーにコーヒー買いに行ってた――智ちゃんの分も買ってきたらよかったな。一緒に飲みた――」
「さっさと部屋に戻ってくださいね。くれぐれも他の方を起こさないように」
「もう冷たいな、智ちゃんは」
山尾の声を背で聞きながら智子は廊下を進んだ。
一通り巡回してナースステーションの近くまで戻ってくるとリネン室横の空き部屋から松橋が出てきた。今まで仮眠をとっていたらしい。
「異常なし?」
そう訊きながらあくびをかみ殺す。
「はい、ないです――
あのぉ、先生――」
「ん?」
智子は地階から聞こえてくる声のような音の原因が何なのか訊いてみようとしたが、言い淀んでしまった。
松橋の眼鏡の奥にある無邪気そうな目を見ていると、そういうことにまったく気づいていなさそうな気がしたからだ。
「えっと――夜勤の日は奥様たち寂しい思いされてるだろうなって」
智子は以前にまだ幼い女の子と清楚な奥さんが楽しそうに笑っている家族写真を見せてもらったことがあった。
「うーん、どうだろ。結構羽伸ばしてるんじゃないの? うちの女どもは」
そう言うと松橋ががははと笑う。
つられて笑っているとナースステーションからかおるが顔を出した。