弓の昇段審査まで、あと2週間ほどとなりました!(>▽<)
しかし先月下旬頃から再び絶不調となり(-_-; またまたうまく引けない、中らない状態となってしまいました…。先月上旬にはうまくいってて、良く中ってもいたし『わかった!』と思ったのになぁ。
でも審査を受ける!と決意してからというもの、どんなにうまくいかない状態となっても、失敗が続いても、全てを受け入れる!と私は決めていました。
それら全ては、私が『正しく、美しく、気持ち良く』弓が引けるようになるために必要なことであると。そこから何かを学ぶ必要があるから、必然的に起こっているのだ、と。そう捉えるようにしたのです。
ですからこんな状態となっても、焦りとかはありませんでした。逆に『このことから私が学ぶべきことは何なのだろう?』と、いたって冷静に自分自身と向き合い続け、分析し続けました。
すると、数日前にとある方のツイッターで目にしたある言葉を、ふと思い出したのです。それは…
『弟子に準備が整った時、師は現れる。そして弟子に本当の準備ができた時、師は消えていく』
(再度探してみましたが、元となるツイートが見つけられませんでした。リンクなしでスミマセン。(^^;)
この言葉を目にした時、これって『守破離』と同じようなことだよな、と思いました。
で、そのことを思い出したこと自体が、只今絶不調の私にとって、ピン!と来たのです。
私が今、学ぶべきことは、この『守破離』なのでは?中でも『離』の部分ではなかろうか?と。
(以下、私個人の備忘録的内容となり、また大変長い話になりますので、興味のある方のみお読みください。(^^;)
***
『守破離』という言葉、実は私は今年になって初めて知りました。(^^;
夏のオリンピックの時期に、TVである選手の特集番組か何かを見ている時に、ダンナくんが言ったのです。私は初めて聞く言葉だったので、意味が分からなくてダンナくんに聞きました。それで初めて知ったのです。
でも弓道においてはこの『守破離』はないのではないかな?と、その時の私は思いました。弓道は何よりも基本が大事。そこから離れる?というのが想像が付かなかったからです。
でも今回その言葉を思い出して、改めてネットで調べてみました。
<守破離とは>
修業に際して、まずは師匠から教わった型を徹底的に「守る」ところから修業が始まる。
師匠の教えに従って修業・鍛錬を積みその型を身につけた者は、師匠の型はもちろん他流派の型なども含めそれらと自分とを照らし合わせて研究することにより、自分に合ったより良いと思われる型を模索し試すことで既存の型を「破る」ことができるようになる。
さらに鍛錬・修業を重ね、かつて教わった師匠の型と自分自身で見出した型の双方に精通しその上に立脚した個人は、自分自身とその技についてよく理解しているため既存の型に囚われることなく、言わば型から「離れ」て自在となることができる。
(ウィキペディアより抜粋)
今回改めて調べてみて、これってまさに今の私に必要なことじゃ~ん!と思いました。(^^;
私が普段弓を習っている先生は、ちょっと特殊?な感覚の持ち主で、なぜか私たち一般人とは体の使い方に対する表現が違うんですよねぇ。ちょっと独特というか。
弓を習い始めた当初はそのことに気づかなくて、言われるがままにやろうと必死になって頑張りました。でも言われた通りにやっているのに、なぜか違う方向に行ってしまい(汗)、先生には毎回『違う!』と言われるばかりで…。これはさすがにおかしいぞと思い、なぜ違うと言われるのか?何が違うのか?徹底的に考えました。
その結果、フォーカスしている体の『部位』が違うのだな、と気づきました。具体的には、先生は『前腕』を意識して弓を引いているが、私は『二の腕』を意識して引いているな、と。
幸い私はそのことに割と早い段階で気づけたので、先生の指導での言葉をそのまま体現するのではなく、先生の言っている『理屈』を理解するようにし、その理屈を自分の体の感覚に置き換えて、体現するようにお稽古をしてきました。
でもそれはもう大変な作業で、本当に困難を極めました。でも先生は諦めることなく、何度も私に行って聞かせて、教え続けてくれました…。
この間の修練の様子は、まさに『鬼滅の刃』の善逸の修行の描写と重なり、私はそのシーンを目にする度に自分を見ているような気になってしまい、思わず涙してしまうくらいです…。(;_;)
話がそれましたが(汗)この『理屈』を理解するために、私はこんなにも長い間、時間がかかってしまいましたが、諦めることなくトライし続けたお陰で、先生にも『もう理屈は理解出来ているから、あとは自分で感覚をつかめ』と言ってもらえるまでになりました。
これにより、私は『守破離』の『守』、『破』を無意識にもやってきていたのだろうと思われます。
しかし、弓を引く『準備の動作』までは、その理屈を自分の感覚に置き換えてこれたものの、肝心の『弓を引く動作』に関しては、私は先生の表現通りにやろうとしていました。これがいけなかった!(><) 準備までを自分の感覚に置き換えたなら、最後までそれを貫かなければいけなかったよねぇ!と。
なぜ今までそれをしてこなかったのか?それは『先生の表現通りの引き方』をすることを目的としていたから。全てはそこに至るため。私にとっては、それを実現するための準備動作、であったのです。
なぜそもそも、準備動作までは自分の感覚に置き換えたのに、引く動作はそうしなかったのか?それは『弓道に基本はあっても応用はない』と言われ続けていたから。先生の表現通りに引かない=基本から離れてしまうことになり、オリジナル(応用)になってしまうと思っていたからです。
でも、実際はそうではなかった。
先生の指導により、まず『型』を学ぶ。その『型』を自分の感覚に当てはめ、『理屈』を学ぶ。『理屈』を学んだら、あとは自分の感覚によってその『理屈』を表現すれば良かったのだ。(たぶん。(^^;)
そしてそれこそが『守破離』となるのでは?と思いました。
そう、今の私が学ぶべきことはこの『離』の部分。師を離れて独立する。独自の新しいものを生み出し確立させること…。
これにより、自分の射というものを存分に表現出来るようになるのでは?とも思います。
しかし、それは決して基本から離れることではない、ということ。正しいとされる『基本の射』を、それぞれが自分の感覚で、様々な側面から捉えているだけのこと。
『真実の射とはどんなものか』というのを一射一射探求していくのが弓の道、ですが。その『真実の射』は人それぞれに違う、ということだと思うのです。人それぞれ感じ方、感覚は違いますからね。
まさに『本物は一つ』だけど『真実』は人それぞれに違う…。この『三次元物質世界』においての真実の探求と同じですね。(^^;
体格だって骨格だってそれぞれに違う。例えばサル腕の人が、そうじゃない人とは違う感覚で引くのは当たり前のこと。それぞれの感覚で、独自の捉え方で『基本の射』を捉えているだけに過ぎないんだ…ということに、気づきました。
先生の表現通りの引き方にこだわらなくてもいい。
基本さえしっかり押さえていえば、自分の感じるままに引いていい。自分の思うままに射を表現していいんだ!
そう思えるようになったら、だいぶ気が楽になれました。(^^;
今までは、何でこんなに型にはまって、縮こまったような感覚で弓を引かなきゃいけないんだ?もっと自由に伸び伸びと引くことは出来ないのか?もっと自分の射を表現することは出来ないのか?と、ちょっと窮屈にも思いながら弓を引いていました。
けど、守るべき基本さえ守っていれば、その基本の『体現の仕方』は人それぞれの感覚でやっていいんだ、と思えるようになりました。
守るべき基本は、縦横十文字を堅持する、五重十文字を構成する。そしてそのためのルールは、全ての動作は理にかなった自然な動き、自然な流れで繋がっている。ただこれだけ。あとはそれぞれの体の感覚で引いていい!
そう思って先日のお稽古に挑んだら、先生にも『出来ている』と言っていただける射が出せたり、中りもまた格段に良くなりました♪
これまで何度も、いいところまでいっても最後の詰めが完成出来なくて、せっかく自分の中で構築した引き方を、全部ばらして始めから組み立て直す…ということを繰り返してきましたが。何度も何度も同じ目にあって堂々巡りしていたのは、学ぶべきことを学びきれていなかったから、なんだねと思いました。きっとこれも自分が学びたい!と思って、自分で置いた課題の石、だったのでしょうねぇ。
簡単に出来るようになっていてはわからなかったこと。遠回りしたからこそ、気づけたこと。まさに、自分でこの道を選んでいた、ということなのかな、と。
それにしても、絶妙なタイミングで私の前に現れたあの言葉。(弟子に準備が~)
未来の私か、高次の私か、指導霊や天使さんなのか?(笑)はたまた宇宙の根源神からの叡智なのか?は、わかりませんが。(^^; でもまさに、目の前の課題を乗り越えるためのヒントが与えられた、と思えるような出来事でした。
以前からわりとこのようなことが起こる私ですが、きっと気づいていないだけで、い~っぱいこんなサポートはこれまでもされていたのでしょうねぇ。それに気づくか気づかないか、は心の状態(あり方)、準備が出来ているかどうかによってなのかなぁ、とも思います。
素直に謙虚に。そして『私はまだ何も知らない、ということを知っている』無知の知の状態で、心を開いていることが大事かな、と思いました☆
というわけで。今回も新たなる気づきが得られたように感じますが、でもわかった!と思っても『現時点での理解』という注意書き付きですね。(汗)
きっとこの先には、私がまだまだ知らないことがたくさん存在するのだと思います。だから今回わかった!と思ったことも後になって、やっぱり違った…となるかもしれません。(^^;
そうやって少しずつ、成長していくものなのでしょうね。
でもとりあえず、今の私が取り組むべき方向が分かりました!これからブレずに、さらに審査に向けて突き進んでいきたいと思います♪
私自身が今のレベルで停滞したままでいたくない、次のステージで新たなる体験がしたい!と思っているのですから、必ず実現出来ると信じています。たとえ今回の審査でダメだったとしても、いつか必ず、ステップアップ出来るはず!
そう信じて頑張るぞっ!おー!(^o^)/
余談ですが。この『弟子に準備が~』の言葉、先ほども述べましたが『三次元物質世界』においての探求にも、本当に繋がる話だな、と思います。
私自身もそうですが、昨年のコロナ騒動により調べ始めた人(準備が出来た人)が色んな情報を得て、それを元に自分自身と向き合い、自分自身を良く観察して、感じて、自分の考えというものを作り上げていった。
そして今では、『師』に当たる情報から独立して、独自の世界観を構築している。
そんな人が今、ネットの情報発信者の中でも増えているように思います。これもまさに『守破離』では?
基本を学んだら、最後は自分自身を確立する。これがこの世界においても大事なこと、なんじゃないのかな~?と思ったり。
それにしても。現実世界においての探求と、弓の世界においての探求って、本当に似ている!と思います。
どちらも精神性の向上が目的、だからなのかなぁ?良くわかりませんが。(^^;
でも私にとっては、どちらも楽しい♪これにつきます。(^-^)
しかし先月下旬頃から再び絶不調となり(-_-; またまたうまく引けない、中らない状態となってしまいました…。先月上旬にはうまくいってて、良く中ってもいたし『わかった!』と思ったのになぁ。
でも審査を受ける!と決意してからというもの、どんなにうまくいかない状態となっても、失敗が続いても、全てを受け入れる!と私は決めていました。
それら全ては、私が『正しく、美しく、気持ち良く』弓が引けるようになるために必要なことであると。そこから何かを学ぶ必要があるから、必然的に起こっているのだ、と。そう捉えるようにしたのです。
ですからこんな状態となっても、焦りとかはありませんでした。逆に『このことから私が学ぶべきことは何なのだろう?』と、いたって冷静に自分自身と向き合い続け、分析し続けました。
すると、数日前にとある方のツイッターで目にしたある言葉を、ふと思い出したのです。それは…
『弟子に準備が整った時、師は現れる。そして弟子に本当の準備ができた時、師は消えていく』
(再度探してみましたが、元となるツイートが見つけられませんでした。リンクなしでスミマセン。(^^;)
この言葉を目にした時、これって『守破離』と同じようなことだよな、と思いました。
で、そのことを思い出したこと自体が、只今絶不調の私にとって、ピン!と来たのです。
私が今、学ぶべきことは、この『守破離』なのでは?中でも『離』の部分ではなかろうか?と。
(以下、私個人の備忘録的内容となり、また大変長い話になりますので、興味のある方のみお読みください。(^^;)
***
『守破離』という言葉、実は私は今年になって初めて知りました。(^^;
夏のオリンピックの時期に、TVである選手の特集番組か何かを見ている時に、ダンナくんが言ったのです。私は初めて聞く言葉だったので、意味が分からなくてダンナくんに聞きました。それで初めて知ったのです。
でも弓道においてはこの『守破離』はないのではないかな?と、その時の私は思いました。弓道は何よりも基本が大事。そこから離れる?というのが想像が付かなかったからです。
でも今回その言葉を思い出して、改めてネットで調べてみました。
<守破離とは>
修業に際して、まずは師匠から教わった型を徹底的に「守る」ところから修業が始まる。
師匠の教えに従って修業・鍛錬を積みその型を身につけた者は、師匠の型はもちろん他流派の型なども含めそれらと自分とを照らし合わせて研究することにより、自分に合ったより良いと思われる型を模索し試すことで既存の型を「破る」ことができるようになる。
さらに鍛錬・修業を重ね、かつて教わった師匠の型と自分自身で見出した型の双方に精通しその上に立脚した個人は、自分自身とその技についてよく理解しているため既存の型に囚われることなく、言わば型から「離れ」て自在となることができる。
(ウィキペディアより抜粋)
今回改めて調べてみて、これってまさに今の私に必要なことじゃ~ん!と思いました。(^^;
私が普段弓を習っている先生は、ちょっと特殊?な感覚の持ち主で、なぜか私たち一般人とは体の使い方に対する表現が違うんですよねぇ。ちょっと独特というか。
弓を習い始めた当初はそのことに気づかなくて、言われるがままにやろうと必死になって頑張りました。でも言われた通りにやっているのに、なぜか違う方向に行ってしまい(汗)、先生には毎回『違う!』と言われるばかりで…。これはさすがにおかしいぞと思い、なぜ違うと言われるのか?何が違うのか?徹底的に考えました。
その結果、フォーカスしている体の『部位』が違うのだな、と気づきました。具体的には、先生は『前腕』を意識して弓を引いているが、私は『二の腕』を意識して引いているな、と。
幸い私はそのことに割と早い段階で気づけたので、先生の指導での言葉をそのまま体現するのではなく、先生の言っている『理屈』を理解するようにし、その理屈を自分の体の感覚に置き換えて、体現するようにお稽古をしてきました。
でもそれはもう大変な作業で、本当に困難を極めました。でも先生は諦めることなく、何度も私に行って聞かせて、教え続けてくれました…。
この間の修練の様子は、まさに『鬼滅の刃』の善逸の修行の描写と重なり、私はそのシーンを目にする度に自分を見ているような気になってしまい、思わず涙してしまうくらいです…。(;_;)
話がそれましたが(汗)この『理屈』を理解するために、私はこんなにも長い間、時間がかかってしまいましたが、諦めることなくトライし続けたお陰で、先生にも『もう理屈は理解出来ているから、あとは自分で感覚をつかめ』と言ってもらえるまでになりました。
これにより、私は『守破離』の『守』、『破』を無意識にもやってきていたのだろうと思われます。
しかし、弓を引く『準備の動作』までは、その理屈を自分の感覚に置き換えてこれたものの、肝心の『弓を引く動作』に関しては、私は先生の表現通りにやろうとしていました。これがいけなかった!(><) 準備までを自分の感覚に置き換えたなら、最後までそれを貫かなければいけなかったよねぇ!と。
なぜ今までそれをしてこなかったのか?それは『先生の表現通りの引き方』をすることを目的としていたから。全てはそこに至るため。私にとっては、それを実現するための準備動作、であったのです。
なぜそもそも、準備動作までは自分の感覚に置き換えたのに、引く動作はそうしなかったのか?それは『弓道に基本はあっても応用はない』と言われ続けていたから。先生の表現通りに引かない=基本から離れてしまうことになり、オリジナル(応用)になってしまうと思っていたからです。
でも、実際はそうではなかった。
先生の指導により、まず『型』を学ぶ。その『型』を自分の感覚に当てはめ、『理屈』を学ぶ。『理屈』を学んだら、あとは自分の感覚によってその『理屈』を表現すれば良かったのだ。(たぶん。(^^;)
そしてそれこそが『守破離』となるのでは?と思いました。
そう、今の私が学ぶべきことはこの『離』の部分。師を離れて独立する。独自の新しいものを生み出し確立させること…。
これにより、自分の射というものを存分に表現出来るようになるのでは?とも思います。
しかし、それは決して基本から離れることではない、ということ。正しいとされる『基本の射』を、それぞれが自分の感覚で、様々な側面から捉えているだけのこと。
『真実の射とはどんなものか』というのを一射一射探求していくのが弓の道、ですが。その『真実の射』は人それぞれに違う、ということだと思うのです。人それぞれ感じ方、感覚は違いますからね。
まさに『本物は一つ』だけど『真実』は人それぞれに違う…。この『三次元物質世界』においての真実の探求と同じですね。(^^;
体格だって骨格だってそれぞれに違う。例えばサル腕の人が、そうじゃない人とは違う感覚で引くのは当たり前のこと。それぞれの感覚で、独自の捉え方で『基本の射』を捉えているだけに過ぎないんだ…ということに、気づきました。
先生の表現通りの引き方にこだわらなくてもいい。
基本さえしっかり押さえていえば、自分の感じるままに引いていい。自分の思うままに射を表現していいんだ!
そう思えるようになったら、だいぶ気が楽になれました。(^^;
今までは、何でこんなに型にはまって、縮こまったような感覚で弓を引かなきゃいけないんだ?もっと自由に伸び伸びと引くことは出来ないのか?もっと自分の射を表現することは出来ないのか?と、ちょっと窮屈にも思いながら弓を引いていました。
けど、守るべき基本さえ守っていれば、その基本の『体現の仕方』は人それぞれの感覚でやっていいんだ、と思えるようになりました。
守るべき基本は、縦横十文字を堅持する、五重十文字を構成する。そしてそのためのルールは、全ての動作は理にかなった自然な動き、自然な流れで繋がっている。ただこれだけ。あとはそれぞれの体の感覚で引いていい!
そう思って先日のお稽古に挑んだら、先生にも『出来ている』と言っていただける射が出せたり、中りもまた格段に良くなりました♪
これまで何度も、いいところまでいっても最後の詰めが完成出来なくて、せっかく自分の中で構築した引き方を、全部ばらして始めから組み立て直す…ということを繰り返してきましたが。何度も何度も同じ目にあって堂々巡りしていたのは、学ぶべきことを学びきれていなかったから、なんだねと思いました。きっとこれも自分が学びたい!と思って、自分で置いた課題の石、だったのでしょうねぇ。
簡単に出来るようになっていてはわからなかったこと。遠回りしたからこそ、気づけたこと。まさに、自分でこの道を選んでいた、ということなのかな、と。
それにしても、絶妙なタイミングで私の前に現れたあの言葉。(弟子に準備が~)
未来の私か、高次の私か、指導霊や天使さんなのか?(笑)はたまた宇宙の根源神からの叡智なのか?は、わかりませんが。(^^; でもまさに、目の前の課題を乗り越えるためのヒントが与えられた、と思えるような出来事でした。
以前からわりとこのようなことが起こる私ですが、きっと気づいていないだけで、い~っぱいこんなサポートはこれまでもされていたのでしょうねぇ。それに気づくか気づかないか、は心の状態(あり方)、準備が出来ているかどうかによってなのかなぁ、とも思います。
素直に謙虚に。そして『私はまだ何も知らない、ということを知っている』無知の知の状態で、心を開いていることが大事かな、と思いました☆
というわけで。今回も新たなる気づきが得られたように感じますが、でもわかった!と思っても『現時点での理解』という注意書き付きですね。(汗)
きっとこの先には、私がまだまだ知らないことがたくさん存在するのだと思います。だから今回わかった!と思ったことも後になって、やっぱり違った…となるかもしれません。(^^;
そうやって少しずつ、成長していくものなのでしょうね。
でもとりあえず、今の私が取り組むべき方向が分かりました!これからブレずに、さらに審査に向けて突き進んでいきたいと思います♪
私自身が今のレベルで停滞したままでいたくない、次のステージで新たなる体験がしたい!と思っているのですから、必ず実現出来ると信じています。たとえ今回の審査でダメだったとしても、いつか必ず、ステップアップ出来るはず!
そう信じて頑張るぞっ!おー!(^o^)/
余談ですが。この『弟子に準備が~』の言葉、先ほども述べましたが『三次元物質世界』においての探求にも、本当に繋がる話だな、と思います。
私自身もそうですが、昨年のコロナ騒動により調べ始めた人(準備が出来た人)が色んな情報を得て、それを元に自分自身と向き合い、自分自身を良く観察して、感じて、自分の考えというものを作り上げていった。
そして今では、『師』に当たる情報から独立して、独自の世界観を構築している。
そんな人が今、ネットの情報発信者の中でも増えているように思います。これもまさに『守破離』では?
基本を学んだら、最後は自分自身を確立する。これがこの世界においても大事なこと、なんじゃないのかな~?と思ったり。
それにしても。現実世界においての探求と、弓の世界においての探求って、本当に似ている!と思います。
どちらも精神性の向上が目的、だからなのかなぁ?良くわかりませんが。(^^;
でも私にとっては、どちらも楽しい♪これにつきます。(^-^)
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