あれから20年・・・。
20年って感覚はない。
つい最近のことのようにも思う。
まずは、震災で光になった友人・知人、そしてたくさんの人たちに祈りを捧げます。
そして、
あのとき、会ったこともない人たちにめっちゃ助けてもらったから、お礼が言いたい!
ほんまありがとう!
昨日は車の中でラジオ聞いてたら「満月の夕」が流れてた。
1.17、神戸には帰られへんけど、離れてても神戸のこと想ってる。
私が生まれ育った街。
あの日、まだ真っ暗やった早朝に轟音とともに激しく揺れ出して、もう死ぬなってほんまに思った。
揺れがおさまって家の中見てみたらテレビやらが床に落ちたり食器が割れてガラスだらけになってた。
でも私は怪我もしなかったし生きてた。
外の様子みたら家の前にあったはずの大きな建物がなくなってた
家の裏は火事になってた。
慌ててパジャマ姿に上着着て財布とラジオ持って家から出た。
最初は爆弾落ちたと思ってたけど地震って知った。
薄暗い街は砂埃でモヤがかかったみたいになってた。
家の横にあった商店街は崩れてた。
家もそこらじゅうぺちゃんこになって
「助けて!この下に人がおるねん!」という声があっちからもこっちからもしてた。
壊れた家の前で「お父さんが作った家がつぶれてしまった。お父さんもどこおるかわからん」おばあちゃんが泣いてた。
私はおばあちゃんの背中をさすりながら話を聞くことしか出来へんかった。
救急車も消防も入って来られへんからまわりの人たちが手作業でがれきをどかしてた。
三宮の街はゴジラが歩いたあとみたいな姿になってた。
避難場所になってた小学校に行ったら人であふれかえってて、
めっちゃ寒い日やったけど運動場で寝泊りすることになった。
電気もなくて真っ暗の運動場にいたら、
隣にいた人が自家発電使って「あかりなかったら気分まで暗くなるやろ。そっちにもあかり照らしたげるわ」って電気つけてくれた。
運動場で避難してたおばちゃんは「女の子は冷やしたらあかんで。あったかくしとき」って自分が持ってた布団を渡してくれた。
家族で避難してたおばちゃんは「カセットコンロあったからご飯炊いてん。おなかすいてるやろ。おにぎり食べなさい」食べさせてくれた。
あったかくて美味しくて優しい気持ちが嬉しかった。
今にもくずれそうなお店のおっちゃんは少しだけ隙間のあいた入口から店に入っていって「これ持っていき」って乾麺やお菓子くれた。
ぶっ壊れた商店街の脇道では地元のお店のひとたちが無料で炊き出ししたり、店にあったものを配ってた。
自分のお店が倒壊してるのに。
パチンコ屋の前では「若い子が元気出していかなあかんで!いっぱい食べていきや」ってあったかいおにぎりと味噌汁くれた。
ほんまに元気が湧いてくる気がした。
店の前に「1個5000円!」って張り紙してコーラやソーセージやパンを売ってたおっちゃん、あれはぼったくりすぎや。
でもあの時は仕方なかったんやろな。
私も生きていかなあかんから5000円出して買った。
救援物資も水も配給も私が避難してた学校には待ってても全然届かんかった。
給水車が来るって聞くたびにあっちこっちに水をもらいに行ったけど人が溢れかえっててもらえんかった。
でも、運動場で避難してた人や道ですれ違う人、知らない人達が助けてくれたからなんとかなった。
友達が壊れた家の前に転がってた変形した鍋を拾って「これ何かに使えるかもしれんな」って言った鍋が避難中にすごい役にたった。
あのとき初めて火をおこすってことも経験した。
「ちょっとしたキャンプ気分やな。なかなかできへん経験してるよなぁ」って友達が言った。
実家と連絡取れなくてラジオに安否確認呼びかけお願いしたら、
その放送を聞いてた知らないお姉さんが、実家を見にってくれた。
あのとき、会ったこともないいろんな人にめっちゃ助けてもらった。
あのとき出会った人たち、ほんまありがとう!
忘れてへんで!
神戸の街は震災から1年でみるみる復興していった。
子供の頃と姿は変わったけど、すごく綺麗な街やし神戸っ子であること誇りに思ってる。
あれから、何気なく会話するときも
「あれは震災前やったかな」
「あれは震災後やで」
自然に震災前・震災後って分けて話すようになった。
それは、震災でみんなの生活がガラッと変わってしまったからやと思う。
あのとき「がんばろや」が合言葉みたいになってた。
「WE LOVE KOBE がんばろや」
いま神戸にいる人たちの中で震災経験者は4割ってラジオで言ってた。
あのときのこと、語ることが大切かどうかは私にはわからん。
震災時の状況や復興過程も見てた震災経験者の中のひとり。
話すことは簡単なようで難しい。
神戸っ子のひとり言。
1.17 Ka-mmy☆