読みがたり公演の舞台をみてきました。
「夢かたり 夢十夜」 夏目漱石 作
漱石の『夢十夜』から
第一夜、第三夜、第十夜が語られました。
語りは 平山 八重さんです。
緊急事態宣言中ではありますが
ウイルス対策は万全であるようでしたので
安心して、小さな落ち着いたホールに入りました。
舞台にほど近い正面二列め。
仄暗い舞台は 台ごと薄白いものに包まれていて
よく見ると ビニールの 荷物配送用の包みもの、
いわゆる プチプチ でした。
その上の高いところには また白く
うっすら透明の、布のようなものが
四方八方にむいて
ふわふわと、飛び交うかのように
かかっていました。
途中の明るくなったときに
よくよく目を凝らしたら
それらもまたプチプチだったのでした。
短編集ですから、公演前に予習をして
読んでおくことができました。
何十年ぶりでしょうか、漱石。
和楽器
琵琶、尺八などの演奏が
語りの世界をより響かせる中
平山さんは正面のわたしのほうをじっと見て
目ヂカラともども
声の抑揚
身体も動く読みかたは
まさに演読というものでしょう。
わたしたち
おはなし会グループの語り方とは違う
動きがたりは
わたしたちには
動きに印象がいってしまって物語がうすくなる
と、いわれて推奨されません。
が、プロの方はそんなことありません。
昨年みた宮沢賢治2作『水仙月の四日』『鹿踊りのはじまり』も
数年前の浅野温子さんの古事記物語も
その世界に引き込まれ
物語がグッと胸にせまったのです。
見るものの想像力を
むしろかき立てる
無いものが鮮やかに見えるような
表現でありました。
平山さんのことを私は
漱石とみていました。
語られたおはなしのことば
「百年」ということが
いまもリフレインしています。
愛しい人が亡くなるとき
百年待ってといわれて
苔の上に座して百年待ち続ける
気の遠くなるようなこと
真っ白い百合の花が
百年ののちに咲いたこと
わたしも気づかないどこかの過去の
因果を抱えているのかもしれない
けれども
今、気づいた今から、
百年ののちの真っ白い百合を
見られるように
待とう
待つということは
じっと耐える
ありのままの自分で じっといることだと
思ったのでした。
さて
ありのままの自分でいるため
考えて実現していきます。
100年後の未来をあかるくするために
よし!
(湯澤真弓さんによるワイヤーアート)
続きはまたね