日々の記録、ときどき本の感想

最近はときどきどころかたまーに本の感想、ほとんど日常の記録です。

「たゆたえども沈まず」

2024-04-21 21:19:03 | 本の感想

画家のフィンセントと画商のテオのゴッホ兄弟と、パリに渡った日本人画商、林忠正と加納重吉の物語。

原田マハさんの本、いつも気になっていたんだけど、読み始めたら沼にはまる予感がして、なかなか手を出さなかったんだけど「ついに」の一冊。

書店に何作も並んでいた中でこの本を手に取ったのは、タイトルの響きが好きで。

フィンセント・ゴッホのイメージは「ひまわりを描いた人」の次が、「自分の耳を切り取って人に送り(贈り?)つけた人」だったから、ちょっと迷ったんだけど‥

救いのない話を読むと、引きずられてしまうから。

以前どなたか失念してしまったんだけど、「ゴッホは精神を病んでいたからすごいのではなくて、病んでいたにも関わらずあんなに素晴らしい作品が描けたからすごいんだ」とおしゃっていた方がいて、職業として画家を目指す方には心強い話だろうなと思ったけど、創作をしない立場からすると「本当にそうかな?」と思ってしまったことがある。

芸術作品って感情とか感性の揺らぎの元に生まれるものだと思っていた。

揺らぎやすい性質の人は(まったくイコールではないだろうけど)、多分病みやすいだろうし。

でもこの本を読んで、そもそも私が思っている「芸術」ってすごく狭くて偏った見方をしたものだったんだなと思った。

この本に出てくる絵を購入する顧客たちからは、家に飾ることを前提とした「暗さのない完璧に明るい絵」が求められていて、だからこそフィンセントの絵は売れない。

考えてみたら、写真がこの世に誕生する前の絵の需要は「そこにあるものをそのままいかに上手く写し取るか」にあったみたいだよね。

「絵は美術館で見るもの」だと思っていたし、「芸術作品というものは強く人の心を揺さぶるもの」と思っていたけど、家にあって気分をルンルンさせるものもアートでいいのかも。

ただ正直、「恵まれた環境に生まれて、早くから才能を認められて、美術の英才教育を受けて育ちました」よりも、「貧しい環境の中で飲まず食わずで精神を病み、それでも絵を描くことを捨てられず~」の環境の方の書いたものほうが、なぜか価値があるような気がしてしまうのも確か。

そう考えると苦労(病、貧しさ)は、成功後には付加価値ではあるかも。

絵は絵具代にそのまま値段が付くわけではないから、やっぱりそういう周辺情報とか解釈も無視できない要素なのかな。

めちゃくちゃ恵まれた環境の人も、飢えて亡くなってしまう人と同じように、その人生しかなくて、そこでベストを尽くすしかできることはないので、理不尽だし、創作活動をするでもない人間の無責任な感覚だなーと思ってはいる。

そもそもフィンセント本人は世間に認められる前に死んでしまったけれど‥。

フィンセント・ゴッホに兄の創作活動を支えた弟がいたことは事前に知っていて、なんとなく「フィンセント本人の死後に弟の尽力によって絵が売れて、弟は兄の成功を見ることができた」ようなストーリーを勝手に思い描いていたけど、弟のテオもフィンセントの死後、それほど経たずに亡くなってしまって、ますます切なかった。

この本を読んで、図書館でゴッホの画集を数冊借りてきた。

東洋の片田舎の図書館でも複数冊の画集が置いてあるほど、有名になる未来を、兆しだけでも少しでも見てほしかったな。

浮世絵に創作の刺激を受けているので、きっと日本でこんなに有名になっているのを知ったら、すごく喜んでくれるはず。

その後に寄った100円ショップで、ゴッホの「星月夜」がプリントされたトートバッグを見つけた。

自分の名前がちょっと関連することもあって、今のところゴッホの絵では星月夜が一番好き。

一瞬購入しようかと思ったんだけど、A4を入れるには小さくてランチを入れるには奥行きがないサイズだったので、止めておいた。(水筒とタオルくらいを入れるのにちょうど良いサイズだった。)

100円とはいえ、使わないものは買わないほうが良い。

自分はつくづく実用性重視の選択しかできないなーと思った。

ちょっと悲しい。

すごく楽しく読み進めたんだけど、最後の解説で実際はゴッホ兄弟と林忠正に密な交流があったことは確認されていないし、加納重吉にいたっては実在の人物ではないということを知る。

本当に面白いと思う本は、それが本当(事実に沿った物語)でもそうでない場合でも、感情移入したり、勝手に考察したりできる。

他の原田マハさんの本も読みたくなって、今久しぶりに読書欲がふつふつ沸いている。

 


「イラク水滸伝」

2023-10-22 23:25:14 | 本の感想

「イラク水滸伝」を読み終わった感想。

 

イラクと言えば、湾岸戦争、サダム・フセイン、イスラム教?

水滸伝と言えば、なんか英雄譚?みたいな??ピカレスクもの??

くらいのイメージしかなくて、つまりは正直に言ってしまうとどちらもそんなに興味がなかったのに、この本を手に取ったのは「イラク」と「水滸伝」という2つの単語がアンビバレントな感じがしておもしろそうに聞こえたから。

イラクは中学生の時に社会科で習った「ティグリス・ユーフラテス川流域に生まれたメソポタミア文明」の地だから、考えてみれば水場があるのが当たり前なんだけど、なんとなく乾燥してずっと砂漠が続くイメージを持っていた。

この本はノンフィクション作家の筆者と林業専門家兼環境活動家兼冒険家の山田隊長がイラクの湿地帯に昔ながらのタラーデ(舟)を浮かべようとする物語(端折りすぎなので、気になったら読んでください)。

読んだ結論としてはめちゃくちゃ勉強になった。

①イスラムのスンニー派とシーア派について

イスラム全体としてはスンニー派が多数派で9:1くらいの割合だけど、イラクではシーア派が多数派。

これは絶対に大学で「イスラム世界の歴史」的な講義をとったときに耳にしているんじゃないかと思うけど、正直さっぱり頭のメモに残っていなかった。

イスラムの歴史、オスマントルコに憧れて軽い気持ちで選択して、脳みそが混乱したままギリギリ及第の成績で終えてしまった渋い思い出がある。

勝手に勢力が拮抗しているイメージだったから、こんなに割合が違ったんだと衝撃。

これでもう忘れない!

②イラクは一応は民主主義国家となっているけれど、実際はイスラム原理主義の考え方が強い。

イランは原理主義国家のような風体をしているけど、実際は本音と建て前を使い分けていて世俗的な部分も多い。

なるほどー。

③湿地帯で放牧(?)されている水牛は3000年も前から家畜化されていたかもしれない。

DNA配列を調べるとそういう結論が予想できるらしい。

ロマンがある。

④グノーシスという思想。

哲学系かなにかの講義で聞いて、なんかハリーポッターにいそうな響きだと思っていた‥

グノーシスは「この世界は間違った神によって創られた間違った世界だ」「人間の魂の本来の居場所は真の神のいる光の世界」というような思想のことらしい。

アフワール(この本で出てくる湿地帯)にいるマンダ教徒はグノーシス的な考え方をするそう。

④イラクは世界屈指の産油国なのに、自分の国で十分に火力発電を行えないため、イランから電気を買っている。

なんかせっかくのポテンシャルがもったいない。

⑤湿地帯伝統の舟(タラーデ)は三日月型でめちゃくちゃ素敵。

月明かりの下、夜の湖に浮かべたいと思ってしまったけど、水に落ちたら危険すぎるのできっと無理。

そしてイラクの情勢的に女性が旅にいけるようなときが当分来るような気がしないので、残念だけど私が直接見る機会は訪れなそう(この本の旅は男性2人だけどそれでも大変だし危険なこともあっただろうなという感じがする)。

しかもタラーデは実際にはもうあまり使われていなよう。

まぁどう考えてもモーターボートのほうがずっと便利だろうなーとは思う。

残念だと思うけれど、それはきっと自分がそれで生活するわけでもない第三者のお気楽な意見なんだろうな。

⑥ノコギリには押すときに切れる「押しノコ」と引くときに切れる「引きノコ」がある。

イラクは地理的にはヨーロッパ(押しノコ派)に近いのに、日本や中国と同じ引きノコ派。

ちょっとした親近感。

⑦ブリコラージュという言葉。

「あり合わせの材料を用いて自分でものをつくること」「その場しのぎの仕事」の意。

文明社会の「エンジニアリング」とは対照をなすそう。

イラクの人々の行動はブリコラージュ的。

私はどちらかというと色々なことを逆算して計画しちゃう派だから、多分近くにいたらイライラしてしまうだろうけど、楽しそうなことは確か。

⑧イラクの「治安部隊」は軍なのか警察なのか民兵なのか判然としていない。

イラクのニュースを聞いても状況がよくわからないことがあることの一因のような気がする。

「治安部隊」と聞いて、勝手に自衛隊的な統制がとれた組織を思い浮かべていた。

⑨湿地帯に住む人々は読み書きができない人が普通にいて、自分の名前を書けないこともあるけど、それでもFacebookは普通に浸透している。

すごいな、Facebook。

⑩イラク料理は意外とすごく美味しそう。

ご飯が美味しい土地は山と海がある所と思っていたから、まったくそんなイメージはなかったけど、イラク料理は美味しいらしい。

特にゲーマル(水牛の乳でつくるチーズかクリームのようなもの)はこの本の中で絶賛されている。

職場の珍味好きに話したら興味を示して、水牛の乳が入手できないか調べたけど無理だったそう。

レシピはこの本に書いてあったので、2人でなんとか作って食べられないかと色々ググった結果、水牛の乳のほうが牛乳より脂肪分が高くて、それがポイントではないかという話になり、同じくらいの脂肪率の羊の乳が入手できないかと調べたけど、それもなくて断念。

(全然関係ないけど、アザラシの乳の脂肪率の高さとサイの乳の脂肪率の低さにビックリ。ほぼクリームとほぼ水。)

イラク料理のお店はググっても日本地図上には1件も出てこないし、ゲーマルを味わうのはあきらめるしかなさそう。

だれか水牛を飼っている方、チーズ(ゲーマル)屋さんをやってくれないかなぁ。

 

などなど。

そこそこのページ数があるので読むのに時間がかかってしまったけど、期待以上におもしろかった。

イラクに対して政治とか宗教の対立ばかり思い描いていたけど、湿地帯で暮らす人々はわりと宗教観もゆるやかで政治とは距離を置くノンポリって感じだった。

そんな人々もいるんだなと思った。想像したこともなかった。

宗教激戦区の中東でそういった生き方ができるのは、湿地からの恵みでほぼ自給自足の生活ができるからだと思う。

ただやっぱり乳児や高齢者は町で暮らしているようなので、みんながみんなそんな暮らしをするのは無理で、人生の弱い時期を支える社会システム(政治や宗教)がないと安心して生きていくのは難しいよなとも思った。

それが対立の原因になって、人の命を奪うこともあるから皮肉だけど。

 

 


「神さまと神はどう違うのか?」

2023-08-13 15:30:46 | 本の感想

【注意!】この本は哲学的な話が多くて、正直私には難しかったので、多分かなり話が逸れます。

この本がどんな本なのか知りたいという目的の方には、ほぼ役に立たない自信があります。

それでも良い方は↓↓↓

 

なぜこの本を手に取ったかというと、通信制の大学で勉強していた時期に、主に経済学に興味があって「宗教とは代替的な役割をするのかも」と考えて以来、人が神をどう考えるのかということに興味を持っているから。

(経済学も宗教も「最大多数の最大幸福」を目指しているのは同じだけど、モノを増やしたり分配の方法を変えたりしてより欲を叶えることで満足を高めようと思考するのが経済学で、欲を抑えて満足のハードルを下げることで幸福感を高めようとするのが宗教の考え方だなと思った。もちろん極端に単純化した考えなことは自覚しているので、そういう側面があるのではないかと思ったいうお話。)

この本で「神さま」というのは信じる人の心の中にいる信仰の対象のことで、「神」というのは客観的に(人が信じる信じないに関わらず)存在する(かもしれない)存在のこと、かな?

ここまでの内容ですでになんとなく察せられるかもしれないけど、その定義で行くと、私には「神さま」はいるけど「神」に対しては懐疑的かも。

懐疑的とかなんかカッコいい響きの単語を選んでしまったけど、この本に「『神はそれを信じる人にとってはいる』というような人はあまり神について考えたことがないのかもしれない」という記述があって、私はそれに当てはまるような気がする。

心の中にいる「神さま」は自分が生きていく上で救いになるものだから大事にしたいけど、本当にこの世界に神が存在するかどうかについては、正直わりとどうでもいい。

この世に全知全能の存在がいたとして、別に私のことをそれほど気にするとも思えないから、あまり私の人生に関係ないと思ってる。

そもそも神やそれに近い存在を語るときにわりと出てくる、悪いことをしたら罰が下る(因果応報?)という考え方があまり好きではない。

悪いことをしたら罰が下るということは、逆説的に厳しい状況にいるのは悪いことをしたからなのか?と考えてしまうんだけど、私が見た限りでは違うときも多々ある。

(前に源氏物語を読んだときに、源氏の君の美しさに驚嘆した誰かが「この方は前世にどんな徳を積まれたんだろう?」というシーンがあったんだけど、そこで「ということは、逆に美しくなく生まれたのは自分の前世の行いのせい(因果応報)で自分が悪いってこと?」と思った。平安時代、超厳しいルッキズム社会だったかもしれない‥)

わりと無作為で適当に辛いことは起こる、と思う。

聖書や仏教の教えを説いてもらったときに、生きる心構えとして素晴らしいと思うときはあるんだけど、それは神が存在すると信じているからというのとはちょっと違う気がする。

理由もなく理不尽な目に合う(かもしれない)のは不安もストレスも大きいから、納得するために神の存在が必要になってくるのはわかるんだけど、そう考えること自体、神が人を作ったのではなくて人が神の存在を作ったと考えている(つまり神さまはいるけど、人の信仰に関係なく客観的に存在する神はいない)という考えがベースにある証のような気もする。

「神は存在する」ということを証明するために思考した西洋の哲学者の理論がいくつも紹介されていたけど、「腑に落ちる」とはいかず‥

神の存在はやっぱり文化の高い壁かもしれない

 

あと神の存在を語るときに、必ずといっていいほど出る「死後の世界」について考えるにあたって、「魂とは何か」というのも、この本では論じている。

ある時、超文明の宇宙人が目の前に現れて、研究プロジェクトのために

①あなたに死んでもらうけど、精巧なレプリカを用意して、あなたの脳に蓄えられた情報も完全に再現するので、体も脳も完全に再現される。心配しないでね。

②気づいていなかったと思うけど、すでに①をやっちゃったんだよね。実質的な被害はなかったんだからいいよね?

③太郎に死んでもらって、①と同じようにすり替えたけど、誰も気づかなかったし太郎に被害は何もないよね?

④あなたの体も脳も再現した精巧なレプリカを作って研究用に持ち帰りたい。謝礼もはずむし、あなた自身にはデメリットはないから協力してくれない?

と言ったらどう考えるかと問うことで、脳や身体とは別の私(魂)とは何かについて思考するようになっている。

この話の④のところで「おそらくもっとも冷静でいられるのはこれではないか」と記されているんだけど、私が4つの中で1番マシだと思ったのは②だったんだよね。

①と④は宇宙人が信用に値するかどうかわからないから怖いけど、②はもうすでに済んでしまっていて私が私だと認識しているならそれは私だから別にいいかなーと思ってしまった。

(③に関しては、私では太郎が本当に太郎かどうか判別する術がないから何とも言えない‥。)

性格的な傾向があるかも。

私は予期不安が強いから、これから起こる(かもしれない)ことに対してはすごく心配するけど、逆に起こってしまったことはもう変えようがないし受け入れるしかないかなーと思っちゃうんだよね。

④は私(らしい存在)が2人存在した場合、やっぱりレプリカは私ではないかなと思うけど、これから殺される前提で「OK」とは言えない。

オリジナルなのかレプリカなのかはともかく、どちらかが「間近に迫る死の恐怖」と抱えることになるから。

レプリカもオリジナルと同じように自らを「私」と認識していて、感情も意識もある前提の話みたいだし。

以前、「AIが進化して自我を持ったら人権が発生するのか」というテーマの話を読んだとき、私としてはAIに「疲れた」という感情が芽生えたら人権を認めざる得ないかなと思ったんだよね。

自分の代わりに働いてもらう前提でAIのことを考えていたんだけど、もし「疲れた」という感情とか意識があるなら、交代で半分は私が働かないといけない気がした。(疲れないなら全部やってほしい!)

さらに話が逸れていってしまんだけど、私は実は②に近いことを考えたことがあって、3Dプリンターみたいなので身体だけでなく脳の情報とか電気信号まで完全に再現できれば、瞬間移動マシーンができるんじゃないかって思っていた。

例えば日本でデータをスキャンして、イタリアで再現すれば、実際の物体(身体)を超高速で移動しなくてもいけるじゃん!っていう‥

データを保存しておいて時間を経て再現すればタイムスリップもできるなって‥(多分過去には戻れないけど)

でもこの話で④が一番マシで②は抵抗を感じる人が多いんだったら、多分このプロジェクト(勿論まったく始動していない)は世間に受け入れられないってことだよね、残念。

イタリアに現れた私が私だと認識していればそれは私だと思うんだけどなー。

 

結構前に読み終わって感想を書こうと思ったんだけど、とっ散らかっていてなかなか手を付けられなくて今になりました。

多分また再読します。

その時は全然違うことを考えるかも?

 

 


「成熟スイッチ」

2023-06-18 14:45:42 | 本の感想

この本を手に取ったのは、林真理子さんの本でしかもエッセイだったから。

小説は内容が面白そうなら誰が書いたものでも買うけど、エッセイは筆者のことが好きじゃないと読もうとは思わない。

沢山ある小説やエッセイのうちの一部しか読めていないから、堂々とファンと公言するのはちょっと気が引けるけど、林真理子さんは賢さとミーハーさが同居しているところが大好き。

さらにこのエッセイを読んで、自分とは似ても似つかないから好きなんだなと実感した。

個人的にすごく好きな所が下の3か所。

①「日大の理事長になって世間をあっと驚かせたい気持ちもあったと思います」

この気持ちを自覚して活字に載せてしまうのがなんかすごい。

自己顕示欲は誰にでもあるものだけど、それが強く出ている時ほど自覚をするのが難しいと思う。

林先生(自分に関係ない業界の方を先生と呼ぶのは、なんか会ったこともない芸能人をさん付けで呼ぶようないけ好かなさがあると思っているけど、今はこれがしっくりきた)は元々自己顕示欲が強そうだけど、自分を客観的にみて分析する力も同じくらい強いんだろうなと思った。

私みたいな基本うじうじしている人間からすると、いっそ清々しい。

②「あまりに落ち込んだので、京都に熊を食べに行きました」

なんで?なんでそうなるの??

③「私にとって結婚は『女のフルコース』を味わうための趣味でした」

米とかではない。

もちろん生きるために結婚が必要不可欠な時代や状況もあって、それはそれで必ずしも不幸でもないし、いい面もあるだろうと思っているけど、私も「結婚するかも、したいなー」くらいは思ったことがあるけど、「結婚しなくては!」と思ったことはない。

母は林先生と同世代で、手に職を持っていて自活していける経済力があったけど、「結婚しないといけない」という感覚で結婚した人(と私は思ってる)だから、こういうことに対するスタンスは世代の問題もあるかもしれないけど、最終的には本人の価値観だよね。

私はフルコースは重すぎるから、山菜とろろ蕎麦くらいにしたいと思ってる。

でも山菜ととろろの両方が欲しいと思っているし、あわよくば海老天くらい付けられないかなーという中途半端な欲を捨てられない人間だから、「フルコース味わいたい!」で行動して手にしてしまう人生はホント清々しいなーと惚れ惚れしてしまう。

 

自分で読み返していて、なんか変なところばかり拾ってしまった気がするけど、林先生より先輩の作家の先生からの学びとか、実際に人間関係を築くのに役立ちそうな作法とかが押しつけがましくなく書かれていた。

 

古希に手が届く年齢になられて「もはやおばさんではない」と思ったと書かれている。

私は最近「自分もすっかりおばさんと言われる年になったな」と思うようになった。

集団の中で自分が年長組なことも多くなってきたけど、成熟にはほど遠いなーと思う。

それこそ「もうおばあさんじゃん」って自分で思うようになっても、実は内面はあまり変わらないだろうなーと思う。

でも自分にある選択肢の中でなるべく良い方向にいけるように頑張って、それなりに成熟に向かいつつ好奇心を失わないように日々を送ってゆきたい。

 

あとこの本の後輩との付き合い方のところを読んでいるときにふと思い出したんだけど、自分よりかなり年下の相手と対等に話すのって、実際にそういう場面になると思ってたよりも難しい。

別に無駄に威張るわけじゃないんだけど、ついついおせっかいしたり、余計なアドバイスっぽいことを言いたくなってしまったり。

でも、いくら自分が先に経験していたことだとしても、失敗しない為のアドバイスなんてまず要らないよね。

気を付けよう。

 

 

 

 

 


「『推し』の科学 プロジェクション・サイエンスとは何か」

2023-05-28 20:58:40 | 本の感想

「漫画やアニメの登場人物の感情移入し、二次元の絵や映像に実在を感じる。はたまた実際に出会い触れることはほとんどないアイドルやアーティストの存在に大きな生きる意味を見出す。これらの「推す」という行為は、認知科学では『プロジェクション・サイエンス』と呼ばれる最新の概念で説明ができる。『いま、そこにない』ものに思いを馳せること、そしてそれを他者とも共有できることは人間ならではの『知性』なのだ。」という表紙裏の文に魅かれて購入した本。

「プロジェクションとは作り出した意味、表彰を世界に投射し、物理世界と心理世界に重ね合わせる心の動きを指している」とのこと。

プロジェクションの共有によって人間社会が発展してきたことが事例を挙げて説明されている。

プロジェクションは時と場合によってはビジョンとかイメージとか目標とか表現されるやつかも。

最初の方で「(この本では)その対象をただ受け身的に愛好するだけでは飽き足らず、能動的になにか行動してしまう対象が『推し』である」と書かれていて、その定義でいくと、私の場合「推し」ではなくてただの「ファン」になる時が多いんだけど、だいたいいつも好きなタレントさんがいて楽しく観ている。

(漫画も好きなんだけど、キャラクターにハマるというより設定とかストーリーにハマることが多いから、漫画で「推し」とまで言えるキャラクターは私にはない気がする)

先日、自分よりだいぶ年下で応援したいタレントさんが現れた。

今まであんまり聞かなかったアーティストの歌を聞いたり、TikTok見るようになったりして、新しい世界が広がってすごく楽しかったんだけど、なんとその方が自分がちょっとだけ知ってる方の身内であることがわかった。

そのときに自分でもびっくりするくらい嬉しい気持ちがなくって、なんとなくちょっと熱が冷めちゃったんだよね。

その時にこの本を本屋で見かけて思わず手に取ってしまった。

読んでみて自分の中で納得がいったこと。

この本で「育てているという楽しみ」「ヒトは世話したい」という章があって、そこでタカラジェンヌとかジャニーズのアイドルとかデビュー前から目をつけて成長を見守るという楽しみ方をする人がいると取り上げられていて、たまごっちとかがゲームとして成立するように、人は育てることとか資源をわかちあったり分け与えたりすること自体が喜びになると書かれている。

私のそのタレントさんに対する思いは多分これだったんだ。

なんとなく「素敵!かっこいい!!」というより「頑張って!」とか「努力が実ってよかったね」という気持ちで見ていた。

ここからはこの本とは別に私個人の推しに対する感じ方なんだけど、私としては自分の生活圏でタレントさんと出会うような生活をしていないし、実はそんなに会いたいとも思っていない。

ホントにちょっとだけど自分の生活圏に繋がりがあることがわかった途端、「人の身内をこんなテンションで応援している場合かな、自分」っていうとても現実的な考えが頭に浮かんで、何も考えずに楽しめなくなってしまった。

2次元と同じくらい壁があって、そういうコンテンツとして存在するからこそ、安心して感情移入できる。

例えば私がお隣の家の子に突然強い気持ちを向けて応援し始めて、しょっちゅう見てたら、言葉は悪いけど気持ち悪いと思うんだよね。距離感がおかしい感じ。

赤の他人に思い入れを持つのは、ただの人ではなくてその人自体が商業的なコンテンツとして存在するからこそ許されるというか。

本来は育てたい気持ちはプライスレスでお金を介さないで人間関係を築かないと(子供を産むとか近い身内を可愛がるとか)消化できない感情だったと思うんだけど、消費活動で代替できるあたりすっごく資本主義的だなと思った。

育てたい気持ちだけでなく、恋愛に近い感情をタレントさんに抱くこともあると思うんだけど、私は「性的な魅力をまったく感じないんだったらすごく好きでもカテゴリーは友情じゃないか」と思う派だから、ファンのほとんどが異性で疑似恋愛を提供しているアイドルは、キャラクターとかで程度の差はあっても自分の性的な魅了を売っている部分があると思うので、老婆心ながらあんまり低年齢化することに心配を感じてしまう。

育てたい気持ち的なことを考えたら幼いほうがいいのかもしれないけど、最近の騒動もあるし。

あと自分をコンテンツ化するのは向いてない人にはシンドイだろうから、その部分でもある程度分別がついてからやりたいかどうかを考えたほうがいいんじゃないかと思ってしまう。

例えば画家は絵を売っていてそれは目に見えるもの(絵具の付いたカンバス)ではない価値に値段がつくという点ではプロジェクション的だけど、売っている表現(絵)は表出された後は画家本人とは切り離されるものだから、絵が素晴らしければその画家の風貌とか行動とかは(よほど反社会的でない限り)好きかどうかにそれほど影響しなんじゃないかと思う。

でもタレントさんは自分自身がコンテンツだから、見た目やちょっとした行動がコンテンツの価値に深く関係してしまう。

(ほんとに歌唱力とか演技力だけを売っている方もいるかもしれないけど、それプラスキャラクターで人々に愛されることが多いと思う。)

見た面が変わってもイメージと異なる行動をしても応援してくれるファンも勿論いるだろうけど、商業的なコンテンツである以上、消費活動だから、より魅力を感じるコンテンツがあればそっちに移るのは当り前の行動でもある。

コンテンツだから「好きじゃない」という評価をする人も勿論いると思う。

自分はメンドくさいから、好きじゃないものに対しては黙って何も言及しないけど、コンテンツ・作品として世の中に提供されるものに対してネガティブな感想を言ってはいけないというのは、言論の自由・表現の自由という観点から無理だと思う。

もちろん人格を否定するような言葉とか脅迫するようなことを言うのは論外だけど。

昔は子役の将来を心配する人とか「うるさい大人だなー」と思っていたけど気持ちがわかるようになってきてしまった。

私も年を取った‥。

別の話だけど、私が大河ドラマの「どうする?家康」をつまらないとは思っていないのになぜかあまりハマれないのは、私の中の徳川家康のプロジェクションと一致しなくて、プロジェクションの共有ができないからなんだなと思った。

「解釈違い」っていう言葉がある通り、オタクにとって解釈(プロジェクションを共有できるか)は本当に肝!