画家のフィンセントと画商のテオのゴッホ兄弟と、パリに渡った日本人画商、林忠正と加納重吉の物語。
原田マハさんの本、いつも気になっていたんだけど、読み始めたら沼にはまる予感がして、なかなか手を出さなかったんだけど「ついに」の一冊。
書店に何作も並んでいた中でこの本を手に取ったのは、タイトルの響きが好きで。
フィンセント・ゴッホのイメージは「ひまわりを描いた人」の次が、「自分の耳を切り取って人に送り(贈り?)つけた人」だったから、ちょっと迷ったんだけど‥
救いのない話を読むと、引きずられてしまうから。
以前どなたか失念してしまったんだけど、「ゴッホは精神を病んでいたからすごいのではなくて、病んでいたにも関わらずあんなに素晴らしい作品が描けたからすごいんだ」とおしゃっていた方がいて、職業として画家を目指す方には心強い話だろうなと思ったけど、創作をしない立場からすると「本当にそうかな?」と思ってしまったことがある。
芸術作品って感情とか感性の揺らぎの元に生まれるものだと思っていた。
揺らぎやすい性質の人は(まったくイコールではないだろうけど)、多分病みやすいだろうし。
でもこの本を読んで、そもそも私が思っている「芸術」ってすごく狭くて偏った見方をしたものだったんだなと思った。
この本に出てくる絵を購入する顧客たちからは、家に飾ることを前提とした「暗さのない完璧に明るい絵」が求められていて、だからこそフィンセントの絵は売れない。
考えてみたら、写真がこの世に誕生する前の絵の需要は「そこにあるものをそのままいかに上手く写し取るか」にあったみたいだよね。
「絵は美術館で見るもの」だと思っていたし、「芸術作品というものは強く人の心を揺さぶるもの」と思っていたけど、家にあって気分をルンルンさせるものもアートでいいのかも。
ただ正直、「恵まれた環境に生まれて、早くから才能を認められて、美術の英才教育を受けて育ちました」よりも、「貧しい環境の中で飲まず食わずで精神を病み、それでも絵を描くことを捨てられず~」の環境の方の書いたものほうが、なぜか価値があるような気がしてしまうのも確か。
そう考えると苦労(病、貧しさ)は、成功後には付加価値ではあるかも。
絵は絵具代にそのまま値段が付くわけではないから、やっぱりそういう周辺情報とか解釈も無視できない要素なのかな。
めちゃくちゃ恵まれた環境の人も、飢えて亡くなってしまう人と同じように、その人生しかなくて、そこでベストを尽くすしかできることはないので、理不尽だし、創作活動をするでもない人間の無責任な感覚だなーと思ってはいる。
そもそもフィンセント本人は世間に認められる前に死んでしまったけれど‥。
フィンセント・ゴッホに兄の創作活動を支えた弟がいたことは事前に知っていて、なんとなく「フィンセント本人の死後に弟の尽力によって絵が売れて、弟は兄の成功を見ることができた」ようなストーリーを勝手に思い描いていたけど、弟のテオもフィンセントの死後、それほど経たずに亡くなってしまって、ますます切なかった。
この本を読んで、図書館でゴッホの画集を数冊借りてきた。
東洋の片田舎の図書館でも複数冊の画集が置いてあるほど、有名になる未来を、兆しだけでも少しでも見てほしかったな。
浮世絵に創作の刺激を受けているので、きっと日本でこんなに有名になっているのを知ったら、すごく喜んでくれるはず。
その後に寄った100円ショップで、ゴッホの「星月夜」がプリントされたトートバッグを見つけた。
自分の名前がちょっと関連することもあって、今のところゴッホの絵では星月夜が一番好き。
一瞬購入しようかと思ったんだけど、A4を入れるには小さくてランチを入れるには奥行きがないサイズだったので、止めておいた。(水筒とタオルくらいを入れるのにちょうど良いサイズだった。)
100円とはいえ、使わないものは買わないほうが良い。
自分はつくづく実用性重視の選択しかできないなーと思った。
ちょっと悲しい。
すごく楽しく読み進めたんだけど、最後の解説で実際はゴッホ兄弟と林忠正に密な交流があったことは確認されていないし、加納重吉にいたっては実在の人物ではないということを知る。
本当に面白いと思う本は、それが本当(事実に沿った物語)でもそうでない場合でも、感情移入したり、勝手に考察したりできる。
他の原田マハさんの本も読みたくなって、今久しぶりに読書欲がふつふつ沸いている。