京都名所巡り
旧三井家下鴨別邸
京都府京都市左京区下鴨宮河町にある豪商・三井家の旧別邸です。
明治13年(1880)、木屋町に建てられた別邸で、大正14年に現在の場所に移築・増築されました。
平成23年(2011)に重要文化財に指定。平成25年~平成28年(2013~2016)にかけて復元修理がされ、平成28年(2016)より一般公開が開始されました。
旧三井家下鴨別邸は、旧財閥で知られる三井家の先祖を祀った顕名霊社への参拝の休憩所として大正14年(1925)に、三井家10代三井八郎右衛門高棟が建築しました。建築に当たっては、明治13年(1880)、建築の木屋町別邸の主屋を移築し、あわせて玄関棟を増築し、以前からあった茶室も修復し、別邸として整備しました。建物は、三階に四方を見渡せる望楼をもつ開放的な造りや、次の間に円窓を開けた茶室などが特徴です。旧三井家下鴨別邸は、戦後、旧三井家から国に譲渡され、昭和26年(1951)から長らく京都家庭裁判所の宿舎として使用されていましたが、明治初期に建築された主屋を中心として、大正期までに整えられた大規模別邸の屋敷構えが良好に保存されており、高い歴史的価値有していることから平成23年(2011)に重要文化財に指定されました。
間取り図
主屋1階
1880年(明治13年)建築/1925年(大正14年)移築(建築面積230・02㎡)
旧三井家下鴨別邸のあゆみ1880年(明治13年)建設8代目高福の隠居所として建築。当初は木屋町三条上ル東側に所在しており、背面が鴨川に接する奥行の深い町屋であった。9代目高朗(たかあき)が使った後は空き家となっていた。1925年(大正14年)移築増築。すでに事業の中枢を京都から東京に移していた三井家は、歴代一族の法事のたびに京都に戻り「顕名霊社」を参拝していた。その際、親族が集う休憩所が必要であったため、空き家となっていた木屋町の邸宅を移築し、大勢が利用できるよう玄関棟の増築を行った。1949年(昭和24年)国に譲渡第2次世界大戦後の財閥解体政策に伴い、国有財産となる。顕名霊社と下鴨別邸を含む広大な土地は国に納められ、顕名霊社の社殿は取り壊された。解体された社殿の一部は10代目高棟夫人ゆかりの福井県・佐佳枝廼社(さかえのやしろ)に、また、門は平安女子院有栖館に移築された。1951年(昭和26年)京都家庭裁判所の所長宿舎となる裁判所長の宿舎に転用され、2007年までの56年間、宿舎として使用された。2011年(平成23年)重要文化財に指定公売にかけられそうになる危機もあったが、建物の価値が認められ保存がきまり、建物と塀、敷地の全体が重要文化財に指定された。2013年(平成25年2月)京都府が復元修理を開始大正時代の図面や昭和初期の写真を手掛かりに復元を開始。2016年(平成28年9月)復元修理完了予算2億4620万円をかけ、工事期間3年7か月を費やし、三井家利用当時の状況に復元。2016年(平成28年10月)一般公開開始旧三井家下鴨別邸運営コンソーシアムの運営により一般公開を開始。掲示板より引用
門
主屋北側
内玄関
玄関棟
床の間
床柱は檳榔樹(びんろうじゅ)でトコ構えは明治期の木屋町別邸当時のものである。
南面ガラス障子
南面ガラス障子は木屋町別邸時代のもので明治期に遡る。
移築前(木屋町別邸時代1880年~)は座敷南面のガラス越しに鴨川を望むことができた。現在地への移築後(1923年~)は目の前に日本庭園が広がる。作庭は薮内紹智によるものとされており、現在は曽根造園が管理を行っている。
水屋
襖を閉じれば隠すことが出来る隠し水屋。
銅が貼られており、手入れがしやすく設計されている。
座敷で茶会を行なった際に利用していたものと考えられる。
南洗面所
南洗面所の壁や階段の腰板は大正期の化粧ベニヤ(トネリコ材)からなる
脱衣所
南浴室
天井には花びら型の通気口があるのが特徴
ねずみ漆喰・棕櫚竹
ねずみ漆喰
汚れが目立たないようにすることと、当時の時代背景を踏まえてねずみ色にしていると考えられる
シュロチク(棕櫚竹)
修理前から存在するシュロチク(棕櫚竹)
※説明文は掲示板より引用
折り返し階段
裏階段
2階3階は、通常非公開となっていて、申し込みをすれば貸室として利用出来るそうです。
茶室
茶室は、通常非公開となっていて、こちらも申し込みをすれば茶会の会場として利用できるそうです。
縁側からの庭
夫婦椋
縁結び・夫婦和合夫婦椋(めおとむく)樹齢推定二五〇年の二本のムクノキが天に向かって互いに寄り添い合う様に佇むその姿は、永遠の愛の象徴と言われる「連理の枝」さながらです。在天願作比翼鳥、在地願為連理枝(天に在りては願わくは比翼の鳥、地に在りては願わくは連理の枝とならん)白居易 長恨歌より
所在地
京都府京都市左京区下鴨宮河町 58番地2
最後に
別邸は、第2次世界大戦後の財閥解体政策に伴い、国有財産となり、顕名霊社と下鴨別邸を含む広大な土地は国に納められ、顕名霊社の社殿は取り壊されています。
近代の歴史に疎いので、財閥の方々が戦争に加担していたのか、いないのかが、ちょっと分からないですが。
ご先祖様たちが築き上げてきたものが、奪われ、
しかも、ご先祖様を祀った社殿が壊されてしまうとは。
当時の三井家の方々の心中を思うと、胸が苦しくなります。
ともあれ、
様々な危機を乗り越え、現在に残る、旧三井家下鴨別邸。
その姿を後世まで残して行きたいものです。