リートリンの覚書

縄文時代の詳細・1


縄文時代の詳細


今日からは、
縄文時代をこと細かく
調べていきたいと思います。


縄文時代の人口


縄文時代の総人口は約25万人で、
割合は東が4に対し西が1と
推理されています。
縄文時代の人口は東に偏っていたようです。


縄文時代
日本列島を二分する文化圏


縄文時代晩期は二分する土器文化圏があり、
関ケ原付近で交わっていたようです。

東西の縄文人の土器にも、
大きな差がありました。

西日本では
植物性食料を調達するための道具が
珍重され、

東日本では
動物性食料の調理のための石器が
目立ちます。


縄文時代の争いはあったのか?


日本列島は、
陸続きではなかったということで、
1万年の間、
独自の文化を育むことができました。

強い征服者が列島を
蹂躙していたわけでもなく、

何度かの渡来の波があったとしても、
緩やかに混血し
融合してきたと思われます。

残虐な手口で殺されていた
遺骨もあることから、

縄文時代に争いが
なかったというわけではありません。

しかし、
集団対集団の戦争の証拠が
挙がっていません。

縄文人は弥生時代と比べれば、
平和な時代を送っていたようです。


階級の差はあったのか?


農耕が本格化した弥生時代に
階級差が生まれたと考えられていましたが、

多くの遺跡が発掘されると、
縄文時代に階級の差が
存在していたことがわかってきました。

集落の住居も均等に並んでいたのではなく、
グループ分けがあったようです。

住居や墓は同じ様に
造られていたわけではなく、

配置や種類、
墓の場合など副葬品にも差がみられます。

「部族」や「氏族」の違いも
認識されていたようです。

ただし、
縄文時代の階級差は
我々の想像とは異なるようです。

少なくとも、
縄文時代に組織的な戦争は
ほとんど起きていないようですが、
強い王を求めた様子もありません。

むしろ独裁者を嫌っていた
可能性も考えられます。

縄文時代の階級化の証拠の一つが
装飾的な縄文土器で、
非現実用的な土器を
作らせ手に入れることができる富者
と貧者の差ができたと思われます。

非現実目的工芸が発達したのは
威信経済が存在したからで
集団儀礼が発達した社会だからこそ
成り立ちます。

それは
「自然界と儀礼的関係すなわち神々との関係の深さの差を意味する」

といい、
単純な権力社会ではないと思われます。


縄文の最後を飾る時代


日本列島の縄文文化は
東西二つの文化圏に分かれていました。

東の亀ヶ岡系土器文化圏と
西日本の突帯文系土器文化圏です。

そして、西日本に稲作が伝わり、
中国や朝鮮半島の影響を受け
突帯文系土器文化圏から紋様が消え、
無文土器へと変化し
三万田式土器が生まれました。


土偶


玩具とする説もありましたが、
現在では宗教にかかわる道具と
考えられるようになりました。

神像、女神像、精霊、安産、護符、
玩具、口只物など

土偶は何故か
壊されて発見されることが多いです。

早期のものは完全なものが多いですが、
中期ごろになると壊すために
土偶が作られるようになりました。
土偶の謎です。


土偶のその後


土偶や縄文の信仰は
弥生時代の始まりとともに
消えたのではありません。

弥生時代の水田跡でも
土偶が見つかっています。

また、弥生時代を代表する祭器、
銅鐸には縄文的な紋様が
刻まれていた可能性が高いと考えられます。

近年、縄文と弥生の
境目がわからなくなってきました。

縄文晩期から弥生時代中期にかけて
日本の土器が
朝鮮半島南部に流れ込んでいたことも
分かっています。

釜山市の東山洞貝塚から
九州の縄文土器が大量に発見されています。

縄文時代晩期末と弥生時代前期が
交錯していることがわかってきました。

縄文時代から弥生時代に
切り変わったというよりも、

少人数の渡来とともに稲作を受け入れ、
次第に朝鮮半島から持ち込まれた文化に
染まって行ったと考えらます。



縄文時代。

食や作る物の好みが
東の文化圏と西の文化圏に分かれていた。

しかもその両文化圏の境目が

関ヶ原!

今も好みの分かれ目は、関ヶ原ですね。

不思議ですね。

縄文人の心が、
今も尚我々の中に
刻まれているのでしょうか?

さて、
残忍な殺さられ方をした人骨が
出土していますが、
大きな争いをした形跡がありません。

縄文人は、
基本的に争いを好まない
人々だったのでしょう。

その心は、
今も日本人に受け継がれていますね。

日本人は、争いをするなら
白黒付けず誤魔化す😅

八方美人。

他国の人々もそうだったら
いいんですけどね。

まぁ、争わないのが一番だと思います。

格差に関しては、
自分の仮説としては、
シャーマンとそうでない者との
差ではないかと思います。

神と繋がることができる人は
尊敬されていたのでは?

人々は、
尊敬するが故に、
貢ぎものを献上したのではないかと
思います。

調べれば調べるほど感じる。
やはり、日本人の原点は縄文時代。

本日は、これにて。

明日も縄文時代シリーズ続きます。

最後まで読んで
頂きありがとうございました。






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