古事記 中つ巻 現代語訳 二十一
古事記 中つ巻
安寧天皇
(あんねいてんのう)
書き下し文
師木津日子玉手見命、片塩浮穴宮に坐して、天の下治らしめしき。此の天皇、河俣毘売の兄縣主波延の女、阿久斗比売を娶ひ生れませる御子、常根津日子伊呂泥命。次に大倭日子鉏友命、次に師木津日子命。此の天皇の御子等、并せて三柱の中、大倭日子鉏友命は、天の下治らしめしき。次に師木津日子命の子、二の王坐す。 一の子の孫は、伊賀須知之稲置、那婆理之稲置、三野之稲置の祖。一の子、和知都美命は、淡道之御井宮に坐しき。故此の王、二の女坐しき。兄の名は蝿伊呂泥。またの名は意富夜麻登久邇阿札比売。弟の名は蝿伊呂杼なり。天皇の御年、肆拾玖歳。御陵は畝火山(うねびやま)の御陰に在り。
現代語訳
師木津日子玉手見命(しきつひこたまてみのみこと)は、片塩浮穴宮(かたしおのうきあなのみや)に坐(いま)して、天の下を治(し)らしめました。この天皇は、河俣毘売(かわばたびめ)の兄(え)の県主波延(あがたぬしはえ)の女(むすめ)、阿久斗比売(あくとひめ)を娶(めと)いて、お生まれになられた御子は、常根津日子伊呂泥命 (とこねつひこいろねのみこと)。次に大倭日子鉏友命(おおやまとひこすきとものみこと)、次に師木津日子命(しきつひこのみこと)。この天皇の御子等は、并(あわ)せて三柱の中(うち)、大倭日子鉏友命は、天の下を治らしめました。次に師木津日子命(しきつひこのみこと)の子は、二の王(みこ)が坐(いま)す。 一の子の孫は、伊賀須知之稲置(いがのすちのいなき)、那婆理之稲置(なばりのいなき)、三野之稲置(みののいなき)の祖(おや)です。一の子、和知都美命(わちつみのみこと)は、淡道之御井宮(あわじのみいのみや)に坐(いま)す。故、この王は、二の女(むすめ)が坐す。兄(え)の名は、蠅伊呂泥(はえいろね)。またの名は、意富夜麻登久邇阿礼比売命(おほやまとくにあれひめのみこと)。弟(おと)の名は、蝿伊呂杼(はえいろど)です。
天皇の御年、四十九歳。御陵は畝火山(うねびやま)の御陰(みほと)に在ります。
・片塩浮穴宮(かたしおのうきあなのみや)
奈良県橿原市四条町、大阪府柏原市、奈良県大和高田市三倉堂など諸説あり
・淡道之御井宮(あわじのみいのみや)
伝承地未詳。天皇の飲料水として運ばれたという御井の清水の伝承地が兵庫県淡路市佐野小井にある
現代語訳(ゆる~っと訳)
師木津日子玉手見命は、片塩浮穴宮においでになられ、天下を統治しました。
この天皇は、河俣毘売の兄の県主波延の娘、阿久斗比売と結婚して、お生まれになられた御子は、常根津日子伊呂泥命。次に大倭日子鉏友命、次に師木津日子命。
この天皇の御子たちは、あわせて三人。その中の、大倭日子鉏友命は、天下を統治しました。
次に師木津日子命の子は、二人の王(みこ)がいました。
一人の子の子孫は、伊賀須知の稲置、那婆理の稲置、三野の稲置の祖先です。
もう一人の子、和知都美命は、淡道の御井宮にいらっしゃりました。そして、この王には、二人の娘がいました。
姉の名は、蠅伊呂泥。またの名は、意富夜麻登久邇阿礼比売命。妹の名は、蝿伊呂杼です。
天皇の御寿命は、四十九歳。御陵は畝火山の山腹にあります。
続きます。
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