リートリンの覚書

125・日本の神様・平群木菟宿禰・的戸田宿禰 改訂版


125・日本の神様

・平群木菟宿禰
・的戸田宿禰


平群木菟宿禰
(へぐりのつくのすくね)


武内宿禰の子
平群氏の祖


別名


平群木菟(へぐりのつく)
木菟宿禰
平群都久宿禰
都久足尼


「日本書紀」では


日本書紀 巻第十
本文では、
このように登場しています。

“紀角宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、木菟宿禰を遣わして、その無礼の状を叱責しました。”

応神天皇3年、
百済の辰斯王(シンシオウ)は天皇に礼をしませんでした。

そこで、紀角宿禰(きのつののすくね)、羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)、石川宿禰(いしかわのすくね)、木菟宿禰を遣わして、その無礼の状を叱責しました。

すると百済国は辰斯王を殺して謝罪しました。紀角宿禰らは、阿花(アカ)を王に立てて帰国しました。

応神天皇14年、
弓月君が自国の120県の人を率いて帰化しました。

しかし、新羅人の妨害により、みな加羅国に留まっていました。

そこで、葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)を遣わして、弓月の人夫を加羅で召集しました。しかし、三年を経ても襲津彦は帰って来ませんでした。

そこで、
応神天皇16年8月、
平群木菟宿禰、的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)加羅に派遣しました。

そのさい精兵を授けて、詔して、「葛城襲津彦が、久しく還ってこない。新羅が拒むので滞っているのだろう。汝等は急ぎ行き新羅を撃ち、その道路をひらけ」といいました。

ここに木菟宿禰等は精兵を進めて、新羅の国境に相対しました。

新羅王は驚きあわてて、その罪に服しました。

それで弓月(ゆつき)の人夫を率いて、襲津彦と共に帰国しました。

巻第十一 本文では、

初め仁徳天皇の生まれた日に、木菟(みみずく)が産殿(うぶとの)に入りました。

翌朝譽田天皇は、大臣・武内宿禰を呼びだして、「これは何の瑞か」と問いました。

大臣が答えて、「吉祥です。また昨日、臣の妻が産む時にあたり、鷦鷯が産屋に入りました。是もまた異しいことです」といいました。

天皇は、「今、朕の子と大臣の子とは、同じ日共に生まれた。どちらも瑞があった。これは天の表(しるし)であろう。其の鳥の名を取り、それぞれ取り替え子に名づけ、後葉(のちのよ)の契としよう」といいました。

そこで鷦鷯の名を取って太子に名づけ、大鷦鷯皇子とし、また、木菟の名を取って、大臣の子に名づけ、木菟宿禰としました。

日本書紀 巻第十二
本文では、

仁徳天皇87年春1月
仁徳天皇が崩御しました。

太子は喪が明けて、天皇に即位する前に、羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)の娘の黒媛を妃にしようと思いました。

納采が終わり、住吉仲皇子(すみのえのなかつのみこ)を遣わして、吉日を告げさせました。その時、住吉仲皇子は太子の名をかたり、黒媛を犯しました。

仲皇子は事が表沙汰になるのを畏れて、太子を殺そうとし、密かに兵を興して、太子の宮を囲みました。

その時、平群木菟宿禰、物部大前宿禰、漢直(あやのあたい)の祖の阿知使主の三人が、太子に申しましたが、太子は信じませんでした。

そこで、三人は太子を助けて、馬に乗せて逃げました。

太子が不在なことを知った瑞歯別皇子は太子を尋ねて追ってきました。それを疑った太子は、皇子に会いませんでした。

そして人伝に告げて、瑞歯別皇子に邪心がないというのなら、仲皇子を殺せと命じました。

そこで、瑞歯別皇子は、仲皇子を殺した後も、私を疑うのではないかと恐れました。

そこで正しき人を得て、自分に欺きがないことを証明したいといいました。

そこで太子は、木菟宿禰を副えて遣わしました。

仲皇子ですが、太子が既に逃亡したと思って、備えをしていませんでした。

そこで、瑞歯別皇子は密かに仲皇子の近習の隼人・刺領巾を呼びだして、「私の為に、仲皇子を殺せ。私は必ず篤くお前に報いよう」と誘い、錦の衣・褌を脱いでこれを与えました。

刺領巾はその言葉を頼りに、仲皇子が厠に入ったところを矛で刺し殺しました。

ここで、木菟宿禰江は、瑞歯別皇子に申しあげて、「己の主君に愛しみがありません。生かしておけましょうか」といいました。そこで、刺領巾を殺しました。

履中天皇2年冬10月、
磐余に都を造りました。

この時に、平群木菟宿禰、蘇賀満智宿禰(そがのまちのすくね)、物部伊莒弗大連(もののべのいこふつのおおむらじ)、圓大使主(つぶらのおほみ)が、共に国事を執りました。


祀る神社


平群坐紀氏神社(奈良県生駒郡)
平群神社(三重県桑名市)


的戸田宿禰
(いくはのとだのすくね)


日本書紀等に登場する
古代日本の人物


別名


的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)

砥田宿禰

盾人宿禰(たたひとのすくね)

伊久波戸田宿禰命



「日本書紀」では


日本書紀 巻第十
本文では、
このように登場しています。

“八月、平群木菟宿禰、的戸田宿禰を加羅に遣わしました。そのさい精兵を授けて、詔して、”

応神天皇14年、
弓月君が自国の120県の人を率いて帰化しました。

しかし、新羅人の妨害により、みな加羅国に留まっていました。

そこで、葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)を遣わして、弓月の人夫を加羅で召集しました。しかし、三年を経ても襲津彦は帰って来ませんでした。

そこで、
応神天皇16年8月、
平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)
加羅に派遣しました。

そのさい精兵を授けて、詔して、「葛城襲津彦が、久しく還ってこない。新羅が拒むので滞っているのだろう。汝等は急ぎ行き新羅を撃ち、その道路をひらけ」といいました。

ここに木菟宿禰等は精兵を進めて、新羅の国境に相対しました。

新羅王は驚きあわてて、その罪に服しました。

それで弓月(ゆつき)の人夫を率いて、襲津彦と共に帰国しました。

巻第十一 本文では

仁徳天皇12年秋7月3日、
高麗国が、鉄の盾と鉄の的を献上しました。

8月10日、
高麗の客を招き朝廷で宴会を開きました。

そのとき、群臣及び百寮を集めて、高麗が献上した鉄の盾、鉄の的を射させました。

ほとんどの人は的を通すことが出来ませんでしたが、唯一、唯、的臣(いくはのおみ)の祖である盾人宿禰だけが、鉄の的を通すことができました。

その時、高麗の客等がこれ見て、その弓を射ることが勝れ巧みであると畏れいり、共に起(た)って朝拝しました。

明日、盾人宿禰をほめて、名を賜い的戸田宿禰といいました。

仁徳天皇17年
新羅が朝貢しませんでした。

秋9月
的臣の祖である砥田宿禰、小泊瀬造の祖である賢遺臣(さかのこりのおみ)を遣して、朝貢しなかった事を問わせました。

ここにおいて、新羅人はおそれて、ただちに貢献しました。調(つき)の絹千四百六十疋、それに種々の穀物、あわせて八十艘。


祀る神社


一宮神社 境内 伊久波神社(兵庫県神戸市)



勉強途中ですので
新しい知識を得た場合
随時更新予定です。


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