リートリンの覚書

散策日記・両国

運動不足解消のため
今回は両国駅近辺を散策しました。

両国といえば、
両国国技館、江戸東京博物館
が思い浮かびます。

しかし、
江戸東京博物館は
コロナ感染拡大防止のため休館中。

そこで、
今回は、普段行ったことのない
東口方面を散策してみようと思いました。

JR両国駅(東口)


まずは線路に沿って
錦糸町方面に向かいました。

そして、右折。
京葉道路方面に向かいます。

京葉道路につき合ったたら、
両国三丁目交差点を渡ります。

さらに錦糸町方面へ向かいます。
ファミリーマート両国四丁目店が見えたら右折します。
この写真は右折したあとに振り向いて撮影しました。

右折したらまっすぐ進みます。
すると、両国公園が見えてきました。
今回の目的地です。

両国公園


ちなみにこの近くには
赤穂浪士の討ち入りで有名な吉良邸跡がありますが、
正直血なまぐさい史跡には
行きたくないので今回はパス。

公園に入りますと、

緑があり心休まります。
この公園の奥に今回の目的地があります。

勝海舟の生誕の地
両国公園には記念碑があります。
勝海舟は文政6年(1823)、
この地の父方の実家男谷家に誕生しました。
勝海舟は少年期、
本所入江町(緑四丁目)など、
本所を転々としました。

石碑の裏側。



勝海舟幕末絵巻
説明はパネルの文章を引用させていただきました。
勝海舟幕末絵巻

勝海舟の歩みと、様々な出会い
鳶が鷹を生んだ
勝海舟誕生 文政6年1823年

勝海舟(かつかいしゅう)
通称「麟太郎(りんたろう)」、本名「義邦(よしくに)」のち「安芳(やすよし)」
【文政6年1月30日-明治32年1月19日】
(1823年-1899年)
 海舟は本所亀沢町にあった、父の実家である、男谷(おたに)家の屋敷(現在の両国公園)で生まれました。
 海舟の曽祖父検校(けんぎょう)は元々地方の出身で、江戸に出て成功し富を得て旗本男谷家の株を買い入れ、息子(海舟の祖父)平蔵(へいぞう)に男谷家を継がせました。
 海舟の父惟寅(これとら)は後継ぎのいない勝家の婿養子となり勝小吉(こきち)と称することとなりました。勝家は三河以来の古参の幕臣でしたが、小普請組(こぶしんぐみ)に属する無役で、いわゆる貧乏旗本でした。
 若年期の海舟は貧しい生活を送りながらも、剣術、蘭学、参禅(さんぜん)と修行に励み、この時の剣術と参禅の修行が自分の精神の土台とつくったと、後に本人が語っています。

黒船来航(くろふねらいこう)
【嘉永6年6月3日】(1853年)
 ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の艦船が、浦賀に来航しました。
 アメリカの軍事力を前にして、対応に苦慮した老中阿倍正弘は、幕閣のみならず広く意見を求めました。
 このとき海舟が提出した意見書が幕府内で注目され、海舟は、次いで大阪湾の防備体制を検討するための現地調査団の一員に命じられ、自らの手で出世への足がかりを掴みました。

島田虎之助(しまだとらのすけ)
【文化11年4月3日-嘉永5年9月16日】
(1814年-1852年)
 男谷道場の師範代を勤めたのちに自らの道場を開き、直心影流島田派の祖となった剣客(けんかく)。
 海舟の従兄である男谷信友の道場で剣術を学んだのち、彼の道場に入門、21歳で直心影流(じきしんかげりゅう)免許皆伝となります。
 彼の薦めもあって蘭学や参禅(さんぜん)修行も修めました。
幕府海軍の礎となる
長崎海軍伝習所(ながさきかいぐんでんしゅうじょ)
安政2年 1855年
【安政2年7月29日】(1855年)
 海軍創設を目指す幕府が、オランダからの支援を受け設立された教育機関。
 海舟は伝習生を監督する「海軍伝習重立取扱(かいぐんでんしゅうじゅうたつとりあつかい)」として、伝習所へ派遣されました。このとき小十人組となり、ようやく無役の小普請組(こぶしんぐみ)から脱しました。
 ここで海舟はオランダ語とともに近代西洋技術、実践的な船舶技術も習得しました。

勝海舟アメリカへ
咸臨丸の渡航
安政7年
1860年
【万延元年】(1860年)
 幕府は日米通商条約の批准書交換のため遣米使節団(けんべいしせつだん)をアメリカに派遣しました。
 海舟は随行艦咸臨丸(かんりんまる)に乗船し航海を指揮、アメリカまでの航海は悪天候が続き困難を極めましたが、同乗していたアメリカ海軍大尉ブルック他、アメリカ人乗員の助力もあって、日本の船として始めて太平洋横断に成功しました。
 安政7年1月13日(1860年2月4日)に品川から出帆したのち、浦賀に寄り、安政7年1月19日(1860年2月10日)に浦賀を出航、安政7年2月26日(1860年3月17日)にサンフランシスコに到着、約43日間に航海したとされています。
 海舟はアメリカの軍事技術のみならず、政治体制や社会構成について日本との違いを確認しました。
咸臨丸(かいりんまる)
 幕府がオランダから購入した船で、長さ約47m、幅約7.3m、質量380t、約100馬力の蒸気機関を搭載した木造、3本マスト、12門の大砲を備えた帆船で、幕府の所有した初期の軍艦です。
 安政4年(1857年)にオランダから日本に送られ、長崎海軍伝習所の練習艦となり、太平洋横断後は戊辰戦争(ぼしんせんそう)にも参加しました。新政府軍に拿捕され、明治政府の開拓史の輸送船となりました。
 明治4年(1871年)に輸送中に暴風雨に遭い沈没しました。

福沢諭吉(ふくざわゆきち)
【天保5年12月12日-明治34年2月3日】
(1834年-1901年)
 中津藩出身。明治維新後は平民となり主に教育者として尽力しました。慶応義塾の創立者であり、一万円紙幣の肖像にもなっています。
 軍艦奉行(ぐんかんぶぎょう)の木村摂津守(きむらせっつのかみ)の従者として、海舟とともに咸臨丸に乗船し、アメリカへと向かいました。アメリカから帰国した翌年には、欧州各国への文久遣欧使節団にも通訳方として同行し、西洋文化を目の当たりにした諭吉は、帰国後、著書。学校、新聞を通して西欧の文化や考え方を日本に広め、学問の大切さを説きました。

ジョン万次郎

【文政10年1月1日-明治31年11月12日】
(1827年-1898年)
 本名は中濱萬次郎(なかはままんじろう)。漁師の次男として産まれ、漁の最中に遭難しアメリカの捕鯨船に救助され渡米、アメリカで英語や造船技術などを学びました。帰国後は幕府の旗本となり通訳や教師として活躍しました。
 通訳として海舟とともに咸臨丸に乗船し、アメリカへと向かいました。

坂本龍馬との出会い
坂本龍馬(さかもとりょうま)
【天保6年11月15日-慶応3年11月15日】
(1835年-1867年)
 土佐藩出身。海舟に世界情勢と海軍の重要性を説かれ、その所説に感服し弟子となり、海舟の片腕となって神戸海軍操練所設立に尽力しました。
 龍馬は姉乙女に宛てた手紙で「日本第一の人物」と海舟を絶賛しており、深く尊敬していたことが窺えます。
 亀山社中(後の海援隊)を結成し薩長同盟の成立や、大政奉還の成立に尽力するなど、倒幕及び明治維新に大きな影響を与えました。

一年の夢の跡
神戸海軍操練所
元治元年
1864年
【元治元年5月開所-翌慶応元年閉所】
(1864年-1865年)
 海舟は幕府の許可を得て、海軍士官の養成機関である神戸海軍操練所を開設しました。
 幕府や雄藩の枠を超えた日本国海軍の創設を構想し、血筋、家柄、身分に拘泥(こうでい)せず、有能な人材を集めて養成することが急務と考えた海舟は、幕臣の子弟だけでなく、操練所とともに設けた私塾である海軍塾に諸藩の脱藩浪士も受け入れました。
 しかし、池田屋騒動や禁門の変などに塾生が参加していたことから、幕府から「激徒養成(げきとようせい)」とみなされ、海舟は海軍奉公を罷免され、操練所は閉鎖されました。

陸奥宗光(むつむねみつ)
【天保15年7月7日-明治30年8月24日】
(1844年-1897年)
 紀伊藩出身。海舟の神戸海軍操練所で航海術などを学び、坂本龍馬の海援隊に加わり、貿易で才能を発揮しました。
 明治維新後は政治家や外交官として活躍、地租改正の立案や、第二次伊藤内閣では外務大臣として不平等条約の改正や下関条約締結に貢献しました。
山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)
【天保7年6月10日-明治21年7月19日】
(1836年-1888年)
 江戸生まれの幕臣。武術に天賦の才能を示しました。
 徳川慶喜の警護役高橋泥舟が、義弟である鉄舟を東征大総督府に徳川慶喜恭順の趣旨を伝える使者として、海舟に紹介しました。
 鉄舟は、東征軍参謀西郷隆盛と単身で面会し、慶喜恭順の意を伝え、新政府の徳川家に対する条件を確認し、江戸城開城の交渉に向けて大役を果たしました。
 勝海舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と称されています。

激動の幕末期と勝海舟
 ペリー来航以降、その対応をめぐって政争は激化、「安政の大獄」によって、長州藩や水戸藩を中心とする尊王攘夷派と幕府や薩摩藩を主体とする公武合体派の対立が顕著となります。これに朝廷の動静も加わり内政は混迷の度を深めていきました。
 その中で海舟は、攘夷を排し、有力諸藩と幕府が協力的に国内を統治する新たな政治体制の構築を目指すべきだと主張しました。
 将軍徳川慶喜はあくまで、幕権の回復、強化を目指しますが、武力倒幕などの動きに直面し、ついに大政奉還を上表します。その後、王政復古の大号令が発せられ、慶喜の辞官納地の方針が決定されます。
 鳥羽・伏見の戦いで完敗した慶喜は大阪城を脱出し江戸に戻ります。このとき慶喜は朝敵となり、官軍となった新政府軍は慶喜追討のため江戸を目指して進撃を開始します。
 海舟は恭順に意を決した慶喜から陸軍総裁に任命され、会計総裁の大久保忠寛と共に徳川方の首脳として、徳川家の存続に向けて、交渉の最前線に立つことになります。

勝と西郷で江戸を救う
江戸城開城
慶応4年
1868年
【慶応4年3月から4月】
(1868年)
東征軍が江戸に迫る中、海舟は徳川慶喜の助命と徳川家の存続のため、東征軍参謀西郷隆盛との会談にのぞみました。この会談は3月13、14日の2回にわたって行われ、江戸城明け渡しについての交渉がなされました。
 海舟は交渉が決裂した場合に備え、民衆を避難させた上で江戸市街を焼き払う焦土作戦と、慶喜を英国に亡命させえる準備をしており、和戦両様の態勢を整えていました。また、海舟は英仏公使への事前工作も行っていたと推測されています。
 海舟から嘆願書を受け取った隆盛は、薩長支持の英公使パークスに攻撃を反対されていることも考慮し、江戸総攻撃中止を決断、駿府の総督府に出頭し、その後、京都二条城での三職会議に臨み、隆盛の尽力によって、勝海舟の嘆願がほぼ受け入れられるに至りました。
 これにより、江戸城は天正18年(1590年)以来、278年間、徳川氏の居城でありましたが、ついに無血開城され、江戸市民は戦火から救われ、外国の軍事介入による内乱も防止されるに至りました。

「一朝不測の変あらば官軍へ駆入、其罪を一身に乞はむと決意す」

(ひとたび予測のつかない事態が発生したら、自分(海舟)が官軍(東征軍)に駆け入り責任はすべて自分が負うことを決意した。)
「海舟日記」慶応4年(1868)4月11日条(江戸城明け渡し、徳川慶喜水戸へ出発)

戊辰戦争
【慶応4年1月3日-明治2年5月18日】
(1868年-1888)
 鳥羽・伏見の戦いから始まる、新政府軍と旧幕府勢力による一連の内戦で、鳥羽・伏見の戦いの後、旧幕府勢力の指導者である、徳川慶喜が恭順の意を示し、江戸城を無血開城したことによって、以降の戦闘は恭順に従えない旧幕臣及び東北諸藩による戦いとなります。新政府軍に装備で劣る旧幕府軍は、敗戦を繰り返し、東北各地での戦闘ののち箱館戦争を最後に終結しました。


しかし、かっこいいなぁ。
勝海舟。

勝海舟がいなかったら、
おそらく
江戸幕府と薩長同盟の武力による衝突が起き、
その隙に欧米が
日本に攻め込んで来たに違いありません。

そして日本は
欧米の植民地となっていたことでしょう。

彼がいなかったら今の日本はなかった。
勝海舟には感謝しきれません。

ここで幕末絵巻を読んでいて、
疑問が思い浮かびました。

薩長同盟を結ばせるのに成功した
龍馬は本当に日本の英雄だったのか?

薩長同盟の真実は、
江戸幕府と武力衝突させるために
結ばせたのでは?

なぜなら、
彼は日本の神話を軽視し、
天の逆鉾を引っこ抜いた人物。
(日本の伝統を軽視している)

そして、
彼のバックには外国の商人の影が…

己の野心を成就させるために
国体を破壊しようとしていたのでは?

そのために日本の敵と手を組み
新たな火種を画策していたのでは?

だから危険人物として
日本を陰から守る秘密組織に
暗殺されたのでは?

残念ながら
その商人らの影響は
彼の死後も続き、現在でも…

な〜んて、
ファンの皆さんごめんなさい。
ただの私の妄想です。

さて、
勝海舟の生誕の地を見学した後、
看板を見ると、

両国公園の側に
芥川龍之介の生育の地があることを
知りました。

これは行ってみるべきと思い
散策を続けました。

看板の地図を頭に叩き込みいざ出発。

変なこだわりがあり、
外ではGoogleマップを極力使わない人間

しかし、覚えた通りに進んだのですが、
一向に見つからない。

仕方がないのでポリシーに反しますが、
地図を検索。

あれ?通り過ぎているぞ。
戻って見ると…

両国小学校の一角に
芥川龍之介文学碑がポツンとあった。

はいはい、
こりゃ〜うっかり通り過ぎてしまうわけです。
小学校の卒業記念碑だと思っていたよ。

一応文学碑撮影しましたが、
停まっていたトラックが反射して写っている。

両国は芥川龍之介の育成の地です。
両国小学校の片隅に
芥川龍之介の文学碑があります。
文学碑には芥川龍之介の
代表作「杜子春」の一節が刻まれています。
芥川龍之介はこの辺で育ったんだぁ
と感慨深く辺りを見渡しましたが、
近代建築ばかりでした。

当時の面影は全くないんでしょうね。

さて、次の目的地へ。

次の目的地は
線路の反対側にある野見宿禰神社です
こちらは相撲の神様で知られる
野見宿禰を祀った神社です。

以前は一般開放されていましたが、
現在は関係者以外立ち入り禁止
となっています。
ので前から失礼して撮影しました。

野見宿禰神社に関しては
私の第二ブログにて詳しく記事にしています。
興味のある方はそちらをご覧ください。





この後は、駅方面へ向かい。
すみだ北斎美術館のある場所は、
葛飾北斎の生誕の地です。

葛飾北斎は宝暦10年9月23日、
本所南割下水(墨田区亀沢)付近に
生まれました。

本来ならすみだ北斎美術館に
立ち寄ってみたいところですが、
現在はコロナ感染予防のため閉館しています。

両国は他にも
刀剣博物館
旧安田庭園など見所がたくさんあります。

現在はコロナ感染拡大防止のために
閉館となっていますので、
開館した際に再び両国を訪れたいと思います。

今日はこの辺で。

読んで頂き
ありがとうございました。


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