古事記 中つ巻 現代語訳 五十六
古事記 中つ巻
倭建命
書き下し文
尓して其の熊曽建白して言さく、「其の刀をな動かしたまひそ。僕白す言有り」とまをす。尓して暫し許し押し伏せつ。是に白して言さく、「汝命は誰ぞ」ともをす。尓して詔りたまはく、「吾は纏向之日代宮に坐して、大八らら、ほは島国知らしめす、大帯日子淤斯呂和気天皇の御子、名は倭男具那王ぞ。おれ熊曽建二人、伏はず、礼無しと聞こし看して、おれを取り殺せと詔りたまひて、遣はせり」とのりたまふ。尓してその熊曽建白さく、「信に然あらむ。西の方に吾二人を除き、建く強き人無し。然あれども大倭国に、吾二人に益して建き男は坐しけり。是を以ち、吾、御名を献らむ。今より以後、倭建御子と称ふべし」とまをす。是の事を白し訖へ、熟瓜の如く、振り析きて殺したまふ。故其の時より御名を称へ、倭建命と謂す。然して還り上ります時に、山の神、河の神と穴戸の神をみな言向け和して参上りたまふ。
現代語訳
尓して、その熊曽建(くまそたける)がもうして、申し上げることには、「その刀を動かさないでください。僕は、もうす言(こと)が有ります」と申しました。尓して、暫(しま)し許(ゆる)し押し伏せました。ここに申して、申し上げることには、「汝命(いましみこと)は誰ですか」と申しました。尓して、仰せになられて、「吾は、纏向之日代宮(まきむくのひしろのみや)に坐(いま)して、大八島国(おおやしまぐに)を知らしめす、大帯日子淤斯呂和氣天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)の御子、名は倭男具那王(やまとおぐなのみこ)だ。おれ熊曽建の二人は、伏(まつろ)わず、礼無しとお聞きになって、おれを取り殺せと仰せになられ、遣わされた」と仰せになられました。尓して、その熊曽建が、申し上げることには、「信(まこと)にその通りでしょう。西の方に、吾ら二人を除き、建く強き人は無い。然あれども、大倭国(やまとのくに)に、吾ら二人より益して建き男が坐(いま)した。是を以ち、吾が、御名を献(たてまつ)ります。今より以後、倭建御子(やまとたけるのみこ)と称(たた)うべし」と申しました。この事をもうし訖(お)えると、熟瓜(ほそぢ)の如く、振(ふ)り析(さ)きて、殺しました。故、その時より御名を称(たた)え、倭建命(やまとたけるのみこと)と謂います。然して、還(かえ)り上(のぼ)ります時に、山の神、河の神と穴戸の神をみな言向(ことむ)け和(やわ)して参上(まいのぼ)りました。
・大八島国(おおやしまぐに)
日本国の異称
・知らしめす
お治めになる。しろしめす
・おれ
二人称。相手をいやしめていう
・熟瓜(ほそぢ)
熟した瓜
現代語訳(ゆる~っと訳)
ここに、その熊曽建が、
「その刀を動かさないでください。私は、申したい事があります」といいました。
そこで、しばし許し、押し伏せました。
熊曽建の弟は、
「あなたはいったいどなたですか?」といいました。
小碓命が、
「私は、纏向之日代宮おいでになられ、大八島国をお治めになる、大帯日子淤斯呂和氣天皇の御子、名は倭男具那王だ。
おまえら熊曽建の二人は、従わず、無礼であるとお聞きになって、おまえらを取り殺せと仰せになられ、私が派遣されたのだ」といいました。
すると、その熊曽建が、
「まことにその通りです。西方には、私たち二人を除いて、建く強い人はいません。しかし、大倭国には、私たち二人より勇ましい男がいました。
これより、私が、御名を献上いたします。今より以後、倭建御子と名付けましょう」といいました。
この事を申し終えたところで、倭建御子は熊曽建を熟した瓜を切るように、振り割いて、殺しました。
こういうわけで、その時より御名を称え、倭建命と言います。
そして、都に帰り上られる時に、山の神、河の神と穴戸の神を皆平定し、上京しました。
続きます。
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ありがとうございました。
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