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リートリンの覚書

東京史跡巡り・人物編 渋沢栄一宅跡


東京史跡巡り・人物編

渋沢栄一宅跡



渋沢栄一が、1876~1888年まで住んだ、跡地です。



江東区登録史跡
渋沢栄一宅跡
永代二ー三七
 渋沢栄一は、明治から大正にかけての実業界の指導者です。天保11年(1840)武蔵国榛沢郡血洗島村(深谷市)に生まれました。二十五歳で一橋家に仕え、のち幕臣となり渡欧しました。帰国後、明治政府のもとで大蔵省に出仕しましたが、明治六年(1873)に実業界に転じ、以後、金融・産業・運輸などの分野で近代企業の確立に力をそそぎました。晩年は社会公共事業に貢献し、昭和六年(1931)九十二歳で没しました。
 栄一は、明治九年(1876)に深川福住町(永代二)の屋敷を購入し、修繕して本邸としました。同二十一年(1888)には、兜町(中央区)に本邸を移したため、深川邸は別宅として利用されました。
 栄一と本区との関係は深く、明治二十二年(1889)から同三十七年(1904)まで深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の発展のために尽力しました。また、早くから倉庫業の重要性に着目し、明治三十年(1897)、当地に渋沢倉庫部を創業しました。大正五年(1916)、実業界を引退するまでに五百余の会社設立に関与したといわれていますが、本区に関係するものでは、浅野セメント株式会社・東京人造肥料会社・汽車製造会社・旭焼陶器組合などがあげられます。
平成二十一年三月 江東区教育委員会


所在地

東京都江東区永代2丁目37


最後に

跡地は、緑豊かな公園となっていました。

お昼時間に訪れたので、近所のサラリーマンの方々の休憩されていました。

ちょっとした都会のオアシス。

さて、栄一の福住町の邸宅は、明治38(1905)年、現在の港区三田に、

その後、平成3(1991)年に青森県六戸町へと移り、


青森県六戸町時代の旧渋沢家住宅
(写真は江東区HPよりお借りしました)

平成30(2018)年、邸宅の建築を手がけた名工清水喜助に連なる、清水建設株式会社に受け継がれ部材の状態で保管されました。

令和5(2023)年に、江東区潮見(清水建設株式会社敷地内)に移築されました。

清水建設(株)が東京都江東区内に開設した「温故創新の森 NOVARE」にて、2024年4月から順次見学者の受け入れを開始するそうです。

2024年1月には「旧渋沢家住宅」として、江東区指定有形文化財に指定されています。

和洋折衷で素晴らしい建物ですね。

是非とも見学してみたいものですが、

関西に住んでいるので、物理的・金銭的に無理だわ。

残念です。


参考
江東区HP
清水建設(株)HP



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