東京史跡巡り・人物編
南洲(西郷隆盛)留魂詩碑とその付近
南洲(西郷隆盛)留魂詩碑
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西郷隆盛の三回忌にあたる明治12年(1879)に、勝海舟が西郷を悼むために、私費で建立した石碑です。
大正2年(1913)に洗足池公園内に移設されました。
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南洲(西郷隆盛)留魂詩碑勝海舟が、親交のあった西郷隆盛(南洲)の死をいたみ、詩とその筆跡を遺すため、三回忌にあたる明治12年(1829)に自費で建てたものです。もとは葛飾区の浄光寺にあったものが、大正2年(1913)の荒川開削工事に伴い当地に移設されました。内容は西郷が沖永良部島の獄中で作った七言律詩で、天皇に対する忠誠心が詠まれています。「願留魂魄護皇城」の文言から留魂詩(りゅうこんし)と称されました。背面には勝の撰文で由来が記されています。案内板より引用
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朝に恩遇を蒙り 夕に焚阬せらる、人生の 浮沈は 晦明に 似たり。縦ひ光を回らさざるも 葵は日に向ふ、若し運を開く無きも意は誠を推さむ。洛陽の 知己 皆 鬼と為り、南嶼の 俘囚 独 生を竊む。生死 何ぞ 疑はむ 天の付与なるを、願わくは 魂魄を留めて 皇城を護らむ。獄中感有り 南洲
留魂祠
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留魂祠明治16年(1883)の西郷隆盛七回忌に際して、勝海舟から同士達に留魂詩碑の存在が明かされると、彼らはその傍らに小祠を建てて「留魂祠」と名づけ西郷の霊を祀りました。詩碑と同じく大正2年に当地へ移設されたものです。案内板より引用
南洲先生建碑記
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南洲先生建碑記留魂詩碑の工事を勝海舟に任された玉屋忠次郎が明治16年(1883)に建てたものです。留魂詩が明治12年7月27日に彫刻され、谷中の石工群鶴の元から浄光寺に至る経緯が記されています。なお、勝海舟追慕碑によると当地への運搬建設も群鶴が実施しています。案内板より引用
勝海舟追慕碑
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勝海舟追慕碑大正2年(1913)に勝海舟門下生の富田鐡之助が記したもので、留魂詩碑が建立されてから現在地へ移設されるまでの経緯や、有志による留魂祠が建てられたことが記されています。案内板より引用
徳富蘇峰詩碑
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徳富蘇峰詩碑昭和12年(1937)数名の者が計画し、勝海舟門下生の1人であった徳富蘇峰(1863ー1957)に詩を書いてもらい建てたものです。勝と西郷隆盛によって江戸庶民の命が救われた偉業を称え、両雄を偲ぶ内容が刻まれています。この碑が完成した際に、隣接する清明文庫で記念講演が開かれており、その様子が写真で残されています。案内板より引用
所在地
大田区南千束二丁目14番5号 洗足池公園内
アクセス
東急池上線 洗足池駅
徒歩10分
最後に
勝海舟が西郷を悼むために、私費で建立した石碑。
私費で建立するぐらいですから、勝が西郷隆盛を慕っていたことが伺えます。
二人が偉業で、江戸庶民だけでなく、日本が、西洋の波に飲まれず、生き残れたことに、感謝を捧げました。
参考
大田区HP