130・日本の神様
・磐之媛命
磐之媛命
(いわのひめのみこと)
仁徳天皇の皇后
別名
石之日売
磐姫
「日本書紀」では
日本書紀 巻第十一
本文では、
このように登場しています。
“二年春三月八日、磐之媛命を皇后としました。皇后は、大兄去来穂別、住吉仲皇子、瑞歯別天皇、雄朝津間稚子宿禰天皇を生みました。”
仁徳天皇の皇后です。
大兄去来穂別、住吉仲皇子、瑞歯別天皇、
雄朝津間稚子宿禰天皇を生みました。
仁徳天皇2年春3月8日、
皇后となりました。
仁徳天皇7年夏4月1日、
飢えに苦しむ百姓の為に課役をやめて3年。
炊煙が多く上がっているのを遠望し、
天皇は、
「今、百姓が貧しければ、
これすなわち、朕が貧しい。
百姓が富んでいれば、
これすなわち、朕も富んでいる。
百姓が富んで、
君が貧しいというのは、
いまだあったことがない」
と皇后に語りました。
秋8月9日、
大兄去来穂別皇子(おおえのいざほわけのみこ)
のために、
壬生部(みぶべ)を定めました。
また皇后のために
葛城部(かずらきべ)を定めました。
仁徳天皇22年春1月、
天皇は八田皇女を召し入れて、
妃にしたいと皇后にいいましたが、
皇后は聞き入れませんでした。
仁徳天皇30年9月11日、
皇后は紀国(きのくに)に遊行し、
熊野岬(くまのみさき)に至り、
そこの処の御綱葉(みつなかしは)を
取って還ってきました。
ここで天皇は皇后の不在を伺い、
八田皇女を娶りました。
皇后は難波済に至り、
天皇が八田皇女と交合したと聞いて、
大いに恨みました。
すぐにその採ってきた御綱葉を
海に投げ入れて、
着岸しませんでした。
こういうわけで、
時の人は葉を散らした海を、
葉済(かしわのわたり)と呼びました。
皇后は、大津に泊まらず、更に引いて、
河をさかのぼり、
山背(やましろ)から廻りこみ、
倭(やまと)に向かいました。
翌日、
天皇は舎人(とねり)の鳥山を遣わして、
皇后に還ってくるようにうながしましたが、
皇后は、還らずなおも行き、
山背河(木津川)に至り歌いました。
さらに山背に還って、
宮室を筒城岡(つつきのおか)の南に興し、
そこに居ました。
冬10月1日、
仁徳天皇は的臣(いくはのおみ)の祖、
口持臣(くちもちのおみ)を遣わして、
皇后を呼びました。
口持臣は筒城宮に至て、
皇后に一度、謁見しましたが、
皇后は黙って答えませんでした。
その時、
口持臣は雨雪(ゆきのふる)に濡れ、
日夜を経て、皇后の殿の前に伏せて、
避けませんでした。
口持臣の妹の国依媛(くによりひめ)は、
皇后に仕えていました。
この時、
兄が雨に濡れているのを見て、
哀しんで泣き、歌いました。
皇后は
「汝の兄に告げて、
はやく還らせなさい。吾は返りません」
、といいました。
口持臣は、すぐさま返って、
天皇に復奏(ふくそう)しました。
11月7日、
天皇は山背に行幸し、
筒城宮に行き、
皇后を呼びましたが、
皇后は参見(さんけん)しませんでした。
そこで、
天皇は歌を詠いますが、
皇后は奏言して、
「八田皇女に副って、
后になりたいと思いません」
といい、
とうとう会うことはありませんでした。
仁徳天皇35年夏6月、
皇后・磐之媛命が筒城宮にて薨去しました。
仁徳天皇37年冬11月12日、
皇后を乃羅山(ならやま)に葬りました。
祀る神社
高部屋神社(神奈川県伊勢原市)