リートリンの覚書

1・神武天皇・改訂版3


神武天皇
(じんむてんのう)


出典:Wikipedia


神日本磐余彦天皇
(かむやまといわれびこのすめらみこと)
諱は彦火火出見彦尊
(ひこほほでみのみこと)といいます。

父は彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊
(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)
母は玉依姫(たまよりひめ)
その第四子として、
紀元前711年2月13日に誕生しました。

記紀によると
日向から大和国へ
東征を行い
畝傍橿原宮に都して
日本を建国したとされています。


別名 

・神武天皇
(じんむ)
・磐余彦帝
(いわれびこのみこと)
・若御毛沼命
(わかみけぬのみこと)
・豊御毛沼命
(とよみけぬのみこと)
・始馭天下之天皇
(はつくにしらすすめらみこと)
・彦火火出見
(ひこほほでみ)


彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊
(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)


玉依姫
(たまよりひめ)

兄弟

・五瀬命
(いつのせのみこと)
・稲飯命
・三毛入野命

配偶者

・皇后・媛蹈韛五十鈴媛命
(ひめたたらいすずひめ)
・妃・吾平津媛
(あひらつひめ)


・手研耳命
(たぎしみみのみこと)
・神八井命
(かんやいのみこと)
・神渟名川耳尊
(かんぬなかわみみのみこと)

略歴

初めは日向(ひゅうが・宮崎県)
おいでになりました。

45歳の時、日本国中、
いくつにも分かれて
相争っているのを御覧になり、

これを統一して
立派な国家としなければならないと
決心され、
兵を率いて東征に出発。

宇佐(大分県)、筑紫国(福岡県)岡水門、
安芸国(広島県)
吉備国(岡山県)・高島宮を経て、

浪速国(大阪府)に入り、
河内国(大阪府)から
生駒山を越えて
大和(奈良県)に入ろうとしたとき、
長髓彦(ながすねひこ)の抵抗にあい、
天皇の兄・五瀬命が重傷を負います。

そこで天皇は、
『今、私は日神の子孫でありながら、
日に向かって敵を撃っている。
これは天の道に背いていることだ。
ここは、いったん退き弱いとみせかけ、
改めて天神地祇を祭り、
日神の霊威を背に受けて、
一歩一歩影を踏んでいけばいいだろう。
そうすれば刃を血で濡らすことなく、
敵は自然と敗れるだろう』
といい、

方向を変え、大阪湾を南へ下り、
紀伊(和歌山県)に入りました。
ここで、五瀬命は亡くなりました。

その後、天皇は名草(和歌山県)
狭野(和歌山県)を越えて、
熊野到着します。

軍を率いて海路を進むと暴風に遭遇し、
兄・稲飯命と三毛入野命を喪います。

一人になられた天皇は、
皇子・手研耳命と共に軍を率いて進み、
熊野の荒坂津に到着します。

そこで敵を討伐するも、
悪神の毒気にあたり、
将兵はみな病に伏してしまいます。

この時、
熊野に高倉下というものがおりました。
彼は武甕雷神から
剣・韴霊(ふつのみたま)を与ります。
それを天皇に献上すると、
天皇・兵隊も目覚めました。

その後、
天照大神が遣わした、
頭八咫烏を道案内とし、
菟田(奈良県)に到着します。

その後、
皇軍は兄猾(えうかし)
八十梟帥(やそたける)
兄磯城(えしき)を討伐しました。

その後、
長髓彦と再び対戦しましたが、
頑強なる抵抗を打ち破ることができず、
皇軍は苦戦に陥りました。

その時、
忽然として天が陰り氷雨が降りました。
そこに金色の霊妙な鵄(とび)
飛翔してきて、
天皇の弓弭(ゆはず)に止まりました。
その鵄は光輝き、まさに稲妻のようでした。

これにより長髓彦の軍兵は皆目が眩み、
行く先も分からず戸惑い、
戦闘不能となりました。

長髓彦は元々、天皇の同族、
饒速日命を君とし仕えていました。

饒速日命は、
天神の懇ろな配慮を受けられるのは、
天孫だけが受けられることであることを
知っていました。

しかし、長髓彦は反抗的で、
天神と人との違いを教えたとしても
理解しそうにないことを見てとり、
それゆえに長髓彦を殺しました。

そしてその軍勢を率いて帰順しました。
これが、後世の物部氏の遠祖で、
子孫は長く武をもって
国の守護を担当しました。

やがて天皇は方々の敵を平定し、
橿原宮において御即位式をあげました。

古くはその御徳を讃えて、
『畝傍の橿原に、
底磐根(そこついはね)
宮柱(みやばしら)太しき立て、
高天原に千木高(ちぎたか)知りて、
はつくに知らす天皇(すめらのみこと)
と申し上げました。

御名は神日本磐余彦天皇、
後に神武天皇と
申し上げることになったのです。

出典:Wikipedia

東征の期間

日本書紀によれば、
日向を出発して、
大和の平定まで6年の歳月がかかったとあり、

古事記では、途中の御滞在、
御準備だけで十五年、
従って全体では十七、八年
かかったことになります。

国家建設ということは、
このように重大な、
そして苦難の多い大業です。

皇居

橿原の宮

陵・霊廟

陵の名は、
畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)

神格 

天業恢弘(てんぎょうかいこう)
世界平和
共存共栄
開運
延寿

主な神社 

橿原神宮(奈良県)
宮崎神宮(宮崎県)

神武天皇・年表

紀元前711年2月13日

0歳 誕生

紀元前696年

15歳 太子となる。

成人後、
日向の国の吾平津媛(あひらつひめ)と結婚。
子は手研耳命(たぎしみみのみこと)


紀元前666年 (45歳)

10月5日  
東征に出発する

10月          
筑紫国の菟狭へ到着

11月9日  
筑紫国の岡水門に到着

12月27日    
安芸国に到着


紀元前665年 (46歳)

3月6日 
吉備国に到着。仮の宮・高島の宮と造り、三年間滞在。その間、船の修理、武器や兵糧の準備をする。

紀元前662年(49歳)

2月11日 
再び東に向かい、浪速国に到着

3月10日 
河内国の草香邑の青雲の白肩之津に到着

4月9日 
龍田に進軍する。

5月   
長髓彦と孔舎衛坂で会戦。長髓彦と最初の戦い。

5月  
茅淳の山城の水門に到着。五瀬命が死亡

6月23 
日稲飯命と三毛入野命が軍から離脱。軍が悪神の毒により病に伏す。高倉下の助けによって回復する。頭八咫烏による道案内。

8月2日 
兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)を召集。兄猾はそれに応ぜず、討伐される。

9月5日 
八十梟帥(やそたける)との戦い。

10月1日 
八十梟帥を撃破。宴会をして他の敵も殺害

11月7日 
兄磯城(えしき)と弟磯城(おとしき)を召集。兄磯城それに応ぜず、討伐される。

12月4日 
長髓彦の再戦。長髓彦、饒速日命に殺される。
饒速日命、兵を率いて帰順。


紀元前661年(50歳)

2月20日 
土蜘蛛を破り、土地を磐余と改名する

3月7日 
畝傍山の東南橿原の地に都を開く

9月24日 
媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃に。皇子は神八井命(かんやいのみこと)、神渟名川耳尊(かんぬなかわみみのみこと)。


紀元前660年(51歳)

神武天皇元年 1月1日(2月11日) 
帝位につき、神武天皇となる


紀元前659年(52歳)

神武天皇2年 2月2日 
天皇は功を定め恩賞を行う


紀元前657年(54歳)

神武天皇4年 2月23日 
鳥見山に祭庭を設立。皇祖の天神を祭る。


紀元前629年(82歳)

神武天皇31年 4月1日 
国褒め。秋津洲(あきづしま)の名が起こる


紀元前618年(93歳)

神武天皇42年 1月3日 
皇子・神渟名川耳尊を、皇太子に。


紀元前585年(127歳)

神武天皇76年 4月9日 
崩御


紀元前584年

9月12日
畝傍山の東北の陵に葬りました。



※神武天皇が即位したという辛酉の歳は、そのまま西暦に換算すると紀元前660年であり、同時に弥生時代早期又は縄文時代末期に当たります。
 神武天皇の即位年月日は、「日本書紀」の記述に基づいて、明治期に法的・慣習的に紀元前660年の旧暦元旦、新暦の2月11日とされています。
 これに基づき年表にしました。素人ですので、旧暦を西暦になおすことが難しいため、西暦がわかる月日は、ブルーで記述。わからない月日は黒字で旧暦のまま記述しました。


感想

争いが絶えない国内を統一し
平和な国を作ろうとなされた。

神武天皇。

兄弟を喪い、
辛い思いをなされても、
志しを成し遂げた方。

御方の礎があったからこそ、
今も日本国が続いている。
感謝しきれません。

さて、
神武天皇が即位したという辛酉の歳は、
そのまま西暦に換算すると紀元前660年。

それは、
弥生時代早期又は縄文時代末期にあたる。

橿原遺跡からは、
様々な地方の特色をもった
縄文土器や土偶が出土している。

このことから、
その時代に、
橿原に大国があった可能性が高いと
自分は思っています。

ですから、
明治期に法的・慣習的に
紀元前660年の旧暦元旦、
新暦の2月11日とされたのも、
あながち嘘じゃないのではと思うのです。

是非、
専門家の方には
謎を解き明かしていただきたいものです。

期待しています。


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