よこしまな日々

瀞なる妄想と暴言の垂れ流し。
主に古代史、好きなこと、好きなものの話。

少し口角が上がった。

2022-04-13 | 日々雑感

鈴木砂羽 note

無性に書きたくなって
https://note.com/sawasuzuki/n/n9f158e9b878b

最近話題のあの方の話だろう。
砂羽さんの淡々とした語り口が胸に染み入るようだった。

太陽が明るければ明るいほど陰も深いように、
華やかに見える世界は醜悪な闇も多いのだろう。

色んなことを乗り越えた女優さんの
強さと美しい横顔に少し口角が上がった。

 

 


この世の久遠を思う。

2022-04-13 | 日々雑感

この世の久遠を思う。

などと偉そうなタイトルを付けてみたけれど、
天壌無窮ではない我々人類の世を儚んでも
仕方ないので、私達が見通せる古えと未来
を考えてみる。

さて。

典型的な弥生人顏と言われた私ですが、

縄文+弥生の海人系、
飛騨縄文+弥生系木工技術者、
秦氏眷属系渡来、
秦氏下層系部民、
帰順系隼人、
山伏??(笑

など色んな血を引いていると思われます。

現代では普通の家のコとして暮していますが、
古代へと遡れば、所謂、アウトカーストであった
者も多かったのだろうなと思います。

ま、そういった細かい話も楽しいですが、今、
我々がここに在ることを形成する歴史を少し
だけ俯瞰的に見てみましょう。

東アジア(大陸)の歴史を見てみると、色んな気候変動
などで移動や絶滅をくり返した後、BC2500年~BC2000
年頃には3つの文化に集約されていくのですが、こここそ、
今の東アジアのアウトラインを形成することになった歴史
の分岐点だった私は思っています。
 
二里頭文化 → 黄河中流域~夏(伝説)と考えられている
下七垣文化 → 黄河中下流域~商(殷)の前段階とされている
岳石文化 → 黄河下流域・山東半島 遼河文明を担っていた人達  

この3つに集約された後、下七垣文化はクニを形成しはじめ、
それまで一番勢いのあった二里頭文化(夏)に取って代わり
商(殷)となる。その後、気候の変動などのせいか、夏へは
共闘関係であった岳石文化を駆逐すべく東へと侵攻していく。

地理感の参照
https://chinahistory.web.fc2.com/point48.html 

BC5000~3000頃の気候変動によって遼河地域に栄えて
いた文明は一度途絶えてしまいますが、その遼河文明を
支えた人達は四散したというよりは、より生きやすい
場所へ移動したと考えられます。

言語学的データと一致するようなことが言われているので
まずまず信用していいのではないだろうかと思っている説
として、遼河文明を支えた人達は山東半島あたりへ移動し
たというものです。

それまで、黄河下流域・山東半島に展開されていた
山東龍山文化は、それまでの行李文化、大モン口文化
(だいもんこうぶんか)との関係性は高いと見られる
けれど、岳石文化はそれまでとは関係性が無い全く違
う文化だと指摘されています。

考えるに、BC5000~3000頃の気候変動によって
大陸では一番南に展開していた良渚文化(長江)
でさえ衰退してしまったことを考えると、山東
龍山文化を担った人達は、山東半島を棄て新天地
を求めたのだと思われます。

日本の縄文の遺跡として有名な三内丸山の
遺跡が棄てられたのも、丁度同じ時期です。
BC5000~3000頃の気候変動によって衰退
していったのでしょう。

その後空白地帯となった山東半島に、遼河文明
の夏家店下層文化を担った人々が入り岳石文化
を展開したと考えられています。

その後に遼河文明を担う夏家店上層文化は、
それまでの夏家店下層文化とは連続性が
無いとされています。

夏家店下層文化 → 農耕文化  
夏家店上層文化 → 狩猟採取文化

気候変動によって、夏家店下層文化を担った人達が
空白地帯になっていた山東半島へ移動し、それゆえ
に空白地帯になっていた遼河地域に夏家店上層文化
を担った人達がやって来たと考えられます。

夏家店上層文化を担った人達は内モンゴル
などからやってきたと考えられています。

古代の気候変動というのは、人の生死に直結して
いたんだなと考えさせられますね。現代を生きる
私達にはそういうことをあまり感じられないかも
しれませんが、本当は今だって、私達の生活を大
きく左右しているんですよね。

それを踏まえると、人は生き残る為に移動し
時に略奪したり殺したりする生き物なんだと
いうことです。

あと、同じ場所に文化が展開されても、人や文化に
連続性があるとは限らないということです。古代
ギリシアの栄華は有名ですが、あの栄華を担った
ギリシア人と、今のギリシア人に連続性は無いと
云われています。

面白いものですね。

さて、分岐点となった東アジアの話に戻りますと、、、。

気候が良い時代などは、3つの文化はお互いに行き来
などがあり上手くやっていましたが、「お腹がすいた」
が原動力である人間は、またも気候変動などのせいで
争い始め、下七垣文化(前商)を担った者たちと
岳石文化を担った者たちが協力し二里頭文化(夏)を
駆逐します。

そしてまた、力を付けた商(殷)は、岳石文化を担った
者達を駆逐していきます。それがBC1700~1600年頃。

そういったことを経て朝鮮半島でイネの栽培がされ
始めたのがBC1500年前頃。

合理的な考え方として夏家店下層文化(遼河文明)と
岳石文化(黄河中下流域文明)の欠片を持った人達が、
朝鮮半島へと移動したと考えられています。そして
同時に日本へもという流れもあったでしょう。

同じ頃に日本にもイネの栽培が伝わっています。
佐賀の菜畑遺跡などから水田跡と思われるものが
出ています。

もちろん、直接だけでなく、夏家店下層文化~岳石文化
を持った人達が朝鮮半島経由で、もう少し進んだ感じの
稲作を持って日本へやって来たという流れもあるでしょう。

イネの栽培に関して言うと、大陸から直接も
半島経由もどっちもあったってことでいいん
じゃないかな。

何故かどっちかにしたい人達が居て
そういうのホント面倒くさいんですけど(笑)

さて。

気候変動が激しかったBC5000年~3000年頃、

趙宝溝文化~紅山文化(遼河文明)
山東龍山文化(黄河下流文明)
良渚文化(長江文明)

を持った人々は、土地を棄て新天地を
求めた時、どこへ行ったのでしょうか?

もちろん、皆が皆同じ所へ行った訳ではないでしょう。
大きな集団があったのは確かですが、違う所へ行った
小集団とかも居たと思うのです。

さて、そこで。

故郷を捨てざる得なかった彼らは、
海を渡るという選択をしたでしょうか?

そう、三内丸山の遺跡を棄てた人々と
この列島で出会ったのでしょうか?

私はその流れもあったと思っています。

大きな集団ではなく小さな集団だったとは
思うのですが、小さな集団がいくつもあった
かもしれませんよね。

そして、扶桑の一番近い港を目指したはずが、
流されてこの列島の色んな所に流れついたと
思うし、何だったら、沖縄、台湾、フィリピン
などに辿り着いたりもしたでしょう。

大きな集団ではなかったかもしれませんが、極東の
小さな島で鎖国していた時代だってあるのに、日本人
の遺伝子が妙に雑多である説明は、そういった気候
変動や争いによって故郷を追われた人達が断続的に
やってきては定着していったことによる雑多さだと
思いませんか?

日本人を形成する遺伝子は、最新のゲノム解析の
結果は、夏家店下層文化まで連続性のある遼河文明
を担ったと思われる人達の遺伝子が多いとされてい
ますが、そうは言っても細かい所を見ると、雑多で
あることは間違いないのです。


遼河文明
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BC%E6%B2%B3%E6%96%87%E6%98%8E

興隆窪文化 BC6200年頃-BC5400年頃
新楽文化 BC5200年頃-BC4800年頃
趙宝溝文化 BC5400年頃-BC4500年頃
紅山文化 BC4700年頃-BC2900年頃
夏家店下層文化 BC2000年頃-BC1500年頃
夏家店上層文化 BC1100年頃-BC500年頃

本日の結語。

結果的に遼河文明と黄河中下流域を担っていた
人達が断続的に時に小さく時に大きく渡来して
来ることになったので遺伝子の大きな数を占める
とされる人々が西遼河集団といった様な括られ方
をしていますが、それぞれの時代やその時代の文化
によって、「違うものを持った人達」がやって来た
ように見えることが理解の混乱を招いているんじゃ
ないでしょうか。

違うものを持って来ても同じ系統の遺伝子を
持った人であった可能性は高いですよね。

簡単に言うと、3500年位前に稲作を持ってきた
人達と、1700年位前に伽耶(朝鮮半島経由)か
ら鉄を持ってやって来た人達は元をただせば
遼河文明を担った遺伝子系統を持っていた人
達だったってこと、ありそうでしょ?

一国を形成する人達が全て同じ系統の
遺伝子を持っているとは限らない。

上の方と下の方は違うのは当たり前。
何故なら征服していくから。

長い年月を経て遺伝子は
淘汰や均質化されていく。

気候変動などによって人は移動するので、同じ
場所に居た、展開された文化だったとしても、
時代が違えは、同じ遺伝子を持っていたり、
同じ文化の継承者とは限らないということ。

朝鮮半島由来の文化的特徴と思っていたものが、
実はその源流は中国大陸伝来の文化的特徴であ
ったりするということ。

古代朝鮮語だと決めつけている言葉のオリジンが
沿海州やモンゴル、遼河周辺にあったりもする。

また、中国大陸伝来の文化的特徴でさえ、中国
オリジンとは限らない。西方(インド、オリエ
ント、西洋)や南方からの影響が多大にある。

日本列島への文化、人の流入形態のまとめ

縄文前期~縄文中期
  趙宝溝文化~紅山文化集団(遼河文明)
  山東龍山文化集団(黄河下流文明)
  良渚文化集団(長江文明)

縄文晩期~弥生早期
  黄海沿岸集団(黄河下流域文明・夏家店下層文化・岳石文化集団)
 
弥生中期~弥生後期
  青銅器文化集団(朝鮮半島経由、黄河下流域文明+遼河文明)

弥生晩期~古墳時代~
  漢の武帝が楽浪四郡を設置したことによる中国大陸文化
  を受容した人々で、それらを持った、今来(いまき←最近
  来た人という意味)の半島渡来人・帰化人

大まかにはこんな感じだろうと予測。

そう、全ては影響し合っているということ。

21世紀になってもまだ雑多である我々日本人の
遺伝子がどう変化していくのか、あと30年ほどは
眺めていたいなと思う今日この頃です。

 

 


天使禁猟区。

2022-04-13 | 日々雑感

トレンドに入っていた「天使禁猟区」
懐かし過ぎて胸がキュっとした(笑)

私にはこの感じの属性はそれほど無いん
だけれどそれなりに面白く楽しんでました。

「天使禁猟区」が好きなコはだいたい
V系バンドとかも好きだったイメージ。
「伯爵カイン」でこじらせた系も多そう(笑)

わかると思うけど、私はこういうのにはあまり
食指が動かないタイプです。綺麗なものは
"綺麗"として好きだけど。

(天使禁猟区は好きですよ)

「破滅への美学」とか、わからなくもないんだけど、
「破滅への美学」とか面と向かって言われると
「うわ~それ安もんっぽいな」とか言ってしまいそう ^^;

ああいう感じは何ていうか、「生きることの絶望感」
を表現しているとしても、享楽的で派手なのよね~。
自分勝手に人を傷つけてる感じがしてヤだ(笑)

ルッキズムに支配されてそうな所も面倒くさい。
美しいものは好き。けれど、それが全てではないし
っていうか、陳腐なセリフみたいで恥ずかしいけれど、
それでもやっぱり「内面」なんだよね。

私の美意識というか好きな世界観は、儚さとか
厭世観とかこの世の理は単純でもあり複雑でも
あるんだという、知識への欲望と嫌悪みたいな
内面の葛藤。

なんか、人を巻き込んでゆくみたいな派手な
憂鬱感とか破滅とか、迷惑ですって感じ(笑)

紅顔の美青年が血を吐いて死んでいくような感じは
大好きなんだけど(笑)(もちろん袴か着物姿)それ
は生のへの執着があってこその美しさだと思うので、
享楽的なものとは正反対なストイックなものだと
思ってる。

それに、心のどこかで輪廻を信じたいのかも。
これが最後の生であるとは言いたくないんだと思う。
煩悩が捨てられないからね。

そんなに簡単には行かないのに、生まれ変わることで
今苦しんでいることから解放されるように思ってしまう
所にこそ自身の小者感が漂ってるなぁって苦笑して
しまうけれど、来世でもう一度逢いたい人達も居る
から煩悩を許して欲しい(笑)

まぁ、そんな訳で、新しい「天使禁猟区」楽しみですね。