神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

日々の神の御言葉「肉なる者は誰も怒りの日から逃れられない」抜粋204

2020-12-31 23:03:45 | 日々の神の御言葉

日々の神の御言葉「肉なる者は誰も怒りの日から逃れられない」抜粋204

 今日は、あなたがた自身が生き残るために、わたしの働きが順調に進み、全宇宙にわたるわたしの幕開けの働きがより適切に、また完全に実現するように、すべての国家の人々に対するわたしの言葉、権威、威厳、裁きを明らかにし、あなたがたに警告を与える。あなたがたの間でわたしが実行する働きは、わたしの全宇宙にわたる働きの始まりである。今はすでに終わりの日であるが、「終わりの日」は時代の名前であり、この言葉は律法の時代や恵みの時代とまったく同じように時代を意味し、最後の数年間や数カ月ではなく、時代全体を表すことを知りなさい。ただし、終わりの日は、恵みの時代や律法の時代とはまったく異なる。終わりの日の働きはイスラエルで実行されるのではなく、異邦人の間で実行される。それはわたしの玉座の前でのイスラエル以外の全ての国々と人々に対する征服であり、これにより全宇宙にわたるわたしの栄光が宇宙全体に満ちるのである。これは、それによりわたしがさらに大きな栄光を得、地上のすべての被造物がすべての国家にわたしの栄光を、世代を超えて引き継ぎ、天と地のすべての被造物が、わたしが地上で得たすべての栄光を見ることができるようになるためである。終わりの日に実現される働きは、征服の働きである。これは地上のすべての人間の生活に対する導きではなく、人類の絶えることのない地上での数千年にわたる苦難の生活の結末である。そのため、終わりの日の働きは、イスラエルでの数千年にわたる働きや、ユダヤでの十年間の働き、それに続く、神の第二の受肉まで数千年続いた働きとは異なる。終わりの日の人々が出会うのはただ受肉した贖い主の再現であって、この人々は神から自ら働きと言葉を受ける。終わりの日が終結するまでに二千年はかからない。イエスがユダヤで恵みの時代の働きを実行したときと同様に、終わりの日は短い。これは、終わりの日は時代全体の結末だからである。終わりの日は六千年にわたる神の経営(救いの)計画の完了と終結であって、これによって人類の苦しみの人生の旅路が終わる。終わりの日は、人類のすべてを新時代に連れて行ったり、人類の生活を続けさせたりするわけではない。それはわたしの経営(救いの)計画や人類の存在にとって何の意味もない。人類がこのようであり続けるなら、遅かれ早かれ悪魔によって完全に食い尽くされ、わたしに属する魂は最終的に悪魔の手によって取り去られるだろう。わたしの働きは六千年しか続かない。そしてわたしは人類全体に対する悪い者の支配もまた、六千年より長くは続かないと約束した。もう時間はない。わたしはこれ以上続けたり遅らせたりはしない。終わりの日に、わたしはサタンを打ち負かし、わたしの栄光をすべて取り戻し、わたしに属する地上のすべての魂を取り戻して、これらの苦悩する魂が苦しみの海から逃れられるようにする。これにより地上におけるわたしの働き全体が結末を迎えるのである。この日より先、わたしは地上で再び受肉することはなく、すべてを支配するわたしの霊が地上で働くことは決してない。わたしが地上で行うのはひとつのことだけである。わたしは人類を、聖なる人類に造り直す。それは地上におけるわたしの忠実な都である。わたしは世界全体を滅ぼしたり、人類すべてを滅ぼしたりはしないことを知るべきである。わたしはその人類の残りの三分の一、わたしを愛し、完全にわたしに征服された人類の三分の一を保ち、イスラエル人が律法の下でそうであったように、この人類の三分の一を、多くの羊と家畜、そして土地のすべての実りにより育み、豊かにし繁栄させる。この人類はわたしのもとに永遠にとどまる。ただし、この人々は今日のどうしようもなく汚れた人類ではなく、わたしに得られたすべての人の集まりである。この人類はサタンにより傷つけられ、混乱させられ、包囲されることはない。彼らはわたしがサタンに勝利した後も地上に存在する唯一の人類となる。これは今日わたしに征服され、わたしの約束を得た人々である。そのため、終わりの日に征服された人間は、永遠に続くわたしの恵みも受ける。これはサタンに対するわたしの勝利の唯一の証拠であり、わたしのサタンとの戦いの唯一の戦利品である。これらの戦利品はサタンの支配下からわたしにより救われたのであり、わたしの六千年にわたる経営(救いの)計画の唯一の結晶であり実りである。この人々はあらゆる国家と教派から、また全宇宙のあらゆる場所と国から来る。彼らはさまざまな人種、さまざまな言語、習慣、肌の色を持ち、地球のあらゆる国家と教派、世界のあらゆる場所に広がっている。彼らは、完全な人類、サタンの力が及ばない人間の集合を形成するために集まって来る。人々の内でわたしに救われ征服されていない者は、海の深みに音もなく沈み、永遠にわたしの焼き尽くす火により焼かれる。わたしは、エジプトで初子と牛、羊の初子を滅ぼし、子羊の肉を食べて子羊の血を飲み、かもいに子羊の血を塗ったイスラエル人だけを残したのとまったく同じように、この古い、きわめて汚れた人々を滅ぼす。わたしに征服され、わたしの家族である人々はまた、子羊であるわたしの肉を食べ、子羊であるわたしの血を飲み、わたしに贖われ、わたしを礼拝する人々でもあるのではないか。このような人々は常にわたしの栄光に伴われていたのではないのか。子羊であるわたしの肉を持たぬ者はすでに、海の深みに音もなく沈んだのではないか。今日、彼らはわたしに反対し、わたしの言葉はちょうどヤーウェがイスラエルの子孫に語った言葉のようである。あなたがたの心の深みにある頑なさによりわたしの怒りが蓄えられ、あなたがたの肉体にさらなる苦しみが生じ、あなたがたの罪に対してさらなる裁きが、不義に対してさらなる怒りがもたらされる。今日わたしをこのように扱うなら、誰がわたしの怒りの日に赦されるというのだろうか。わたしの刑罰の目を誰の不義が逃れられるだろうか。誰の罪が全能者であるわたしの手を避けられるだろうか。誰の反逆が全能者であるわたしの裁きを逃けられるだろうか。わたしヤーウェが異邦人の家族の末裔であるあなたがたに話す。わたしがあなたがたに語る言葉は、律法の時代と恵みの時代のすべての言葉を超えるものである。しかしあなたがたは、エジプトのすべての人々よりもさらに頑なである。わたしが穏やかに働いている間にも、あなたがたはわたしの怒りを蓄えているではないか。どうやってあなたがたは、全能者であるわたしの日から無事に逃れられるというのか。

『言葉は肉において現れる』より引用


救われるとは何か。完全な救いを得るとは何か

2020-12-30 23:23:50 | 終わりの日のキリストへの証し

 参考聖書箇所:

 「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる」(マルコによる福音書 16:16)

 「これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である」(マタイによる福音書 26:28)

 「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイによる福音書 7:21)

 関連する神の言葉

 当時、イエスの働きは全人類を贖う働きだった。イエスを信じるすべての人の罪は赦され、あなたがイエスを信じる限り、イエスはあなたを贖っただろう。イエスを信じるなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということ、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆らうものが残っており、それはやはり徐々に取り除く必要があった。救いとは、人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人がもう罪の中におらず、罪を赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないのである。『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より引用

 神の働きの第二段階が終わるとすぐ、つまり十字架にはりつけになった後、人間を罪から取り戻す(つまり、サタンの手から人間を取り戻す)神の働きは成就した。そこで、その時から、人類は主イエスを救い主として受け入れるだけで罪が赦されるようになった。名目上は、人間の罪はもはや救いを得て神の前に出る妨げとはならず、サタンが人間を責める手立てではなくなったということである。それは、神自身が実際的な働きをし、罪深い肉の形を取り経験し、罪のための捧げ物となったからである。こうして、神の肉、罪深い肉の形をとった神のおかげで人間は贖われ、救われて、十字架から降りた。『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でのみ人は救われる」より引用

 神を信じることの意義は救われることですが、救われることの意義は何ですか。人はよく「救われる」とか「サタンの暗い影響から自由になる」といった事柄について語りますが、救われることが何を意味するのかを知りません。救われるとは、堕落した性質から自由になるという意味ですか。嘘をつかないという意味ですか。正直な人になって神に逆らわないという意味ですか。救われるとき、人は一体どのようになりますか。これは神の旨と関係しています。平易な言葉で言えば、救われるとは生き続けられること、生き返ることを意味します。ではその前は、話したり呼吸したりすることができても、あなたは死んでいるのですか。(霊が死んでいます)霊が死んでいるなら人は死んでいると言われるのはなぜですか。そう言われる根拠は何ですか。救われる前、人はどこにいますか。(サタンの支配下にいます)人はサタンの影響下で暮らしています。そのような人は何に頼って生きていますか。自分のサタン的本性、堕落した本性に頼って生きています。自分の堕落したサタン的本性によって生きるとき、肉だけでなく霊や考えといった他のすべての側面を含めて、その人の存在全体は生きていますか、死んでいますか。神の視点から見れば、彼らは死んでいます。表面上は呼吸をし、瞬きし、考えているように見えますが、考えていることはひとえに何ですか。絶えず考えていることはどれも悪であり、神に背いたり反抗したりすること、神が嫌い、憎み、断罪することを考えています。神の目から見れば、こうしたことはすべて肉に属するだけでなく、サタンと悪魔に完全に属してもいます。では、神の目から見て人は何ですか。人間ですか。神は人を悪魔、動物、サタン、生けるサタンとして見ます。人はサタンの物事、サタンの本質によって生きており、神の目から見れば、人の皮を被った生けるサタンなのです。神はこのような人を歩く死体、死人と定義します。神はこのような人、つまり堕落したサタン的な性質や堕落したサタン的な本質によって生きるそうした歩く死体に現在の救いの働きをします。つまり、これらのいわゆる死体を生ける者へと変えるのです。それが救われることの意味です。

 神を信じる目的は救いを得ることです。救われるとは何を意味しますか。それは死者から生ける者へと変わることを意味しています。その含意は、あなたの呼吸が蘇り、あなたが生きるということです。あなたは目を開き、神を知り、ひれ伏して神を崇めることができるのです。心の中に神への抵抗はもはやありません。神に抵抗したり、攻撃したり、反抗したりすることも、もはやありません。そうした人だけが神の目から見て本当に生きています。自分は神を認めているし、神が存在することを心の中で信じていると言うだけなら、その人は生きていますか。生きていませんか。(生きていません。)では、どのような人が生きていますか。生きている人はどのような現実を自分のものにしていますか。最後に救われる人は生きている人になります。生きている人は話すことができますが、では何を言いますか。生きている人には思考や思いがありますが、どのようなことを考えますか。それにどのようなことをしますか。彼らの言動の本質は何ですか。それは明らかにすること、考えること、行なうことのすべてが、神を畏れ悪を避けるという本質によってなされるということです。より適切に言えば、行ないや考えがどれも神に非難されず、嫌われたり拒否されたりもしません。むしろ神に認められ褒められます。それが生ける者の行なうことであり、また行なうべきことでもあります。 『キリストの言葉の記録』の「真に服従していることだけが本当の信仰である」より引用

 もし、人々が生きている存在になり、神への証しを立て、神に認められることを望むならば、神の救いを受け入れ、神の裁きと刑罰に喜んで服従し、神による刈り込みや取り扱いを喜んで受け入れなければならない。そうして初めて神が要求する真理のすべてを実践することができ、そうして初めて神の救いを得て、本当に生きた存在になることができる。生きている人々は神によって救われ、神から裁きと刑罰を受けており、進んで神に身を捧げ、喜んで神に命を投げ出し、全人生を神に捧げる。生きている人々が神への証しをたてる時のみ、サタンを辱めることができ、生きている人々だけが神の福音の働きを広めることができ、生きている人々だけが神の心にかない、生きている人々だけが本当の人である。神により造られた人は元々は生きていたが、サタンに堕落させられたために死の只中で暮らし、サタンの影響下で暮らすようになり、そこで人々は霊のない死人となり、神に反対する敵となり、サタンの道具になり、サタンの囚われ人になってしまった。神が造った生きている人々はすべて死人となり、そこで神は証しを失い、神が造り、神の息を吹き込まれた唯一の存在である人類を失ってしまった。もし神が証しを奪い返し、神の手で造られたがサタンに奪われた人々を奪い返すならば、神は彼らが生きている人々になるようによみがえらせなければならないし、神の光の中で生きるように彼らを奪い返さなければならない。死人とは霊を持たず、極端に無感覚で、神に反対する人々のことである。そのうえ、彼らは神を知らない人々である。彼らは神に従う意思など微塵も持たず、神に反抗し、反対するだけであり、忠誠心はまったくない。生きている人々は霊が再生しており、神に従うことを知っており、神に忠実な人々である。彼らは真理と証しを備えており、彼らだけが神の家で神に喜ばれる。『言葉は肉において現れる』の「あなたは生き返った人か」より引用

 人の肉はサタンに属しており、反抗的な性質に満ちており、嘆かわしいほど汚れて不純である。人は肉の喜びを過度に切望し、肉の現れは過多にある。そのため神は肉をある程度嫌っている。汚れて、堕落したサタンのものを人が捨て去れば、神の救いを得る。しかし、汚れや堕落から抜け出さないままでいるなら、相変わらずサタンの支配下に生きることになる。人の狡猾さ、不正直さ、ねじれた心はすべてサタンに属するものである。神があなたを救うのは、こうしたサタンのものからあなたを解放するためである。神の働きが間違っていることはなく、すべては人を闇から救うために行われる。ある程度まで信じ、肉体の堕落を脱ぎ捨てることができ、もはやこの堕落の束縛を受けないならば、救われるのではないのか。サタンの支配下で生きるなら、神を現わすことはできず、あなたは汚れており、神の嗣業を受け取ることはできない。いったん清められ完全にされると、あなたは聖くなり、正常な人になり、神の祝福を受け、神に喜ばれる。『言葉は肉において現れる』の「実践(2)」より引用

 霊の事柄に関する認識を追求しない者、聖さを追求しない者、真理を実際に生きることを追求しない者、否定的な側面で征服されることにのみ満足している者、そして神の言葉によって生き、聖なる人になることができない者――このような者たちは皆救われていない人々である。なぜなら、人間に真理がない場合、人間は神の試練の時に揺るぎなく立つことができないからである。神の試練の中で揺るぎなく立つことができる者のみが、救われた者である。わたしが望むのは、完全にされることを求めるペテロのような人々である。現在の真理は、真理を切望し、求める者たちに与えられている。この救いは、神により救われることを切望する者たちに授けられており、あなたがたが得るためだけのものではなく、あなたがたが神によって得られるためでもある。神によって得られるために、あなたがたは神を得るのだ。今日、わたしはあなたがたにこの話をし、あなたがたはそれを聞いたので、あなたがたはこの言葉に従って実践すべきである。最終的に、あなたがたがこれらの言葉を実践する時こそ、わたしがこの言葉によりあなたがたを得る時である。それと同時に、あなたがたはこれらの言葉を得る、すなわち、あなたがたはこの至高の救いを得るであろう。あなたがたが清められる時こそ、あなたがたは真の人間となるであろう。もし、あなたが真理を実際に生きること、あるいは完全にされた者の姿を実際に生きることができないなら、あなたは人間ではなく、生ける屍であり、獣であると言えるであろう。なぜなら、あなたには真理がなく、言ってみれば、あなたにはヤーウェの息吹がなく、したがってあなたは霊のない死人だからである。征服された後に証しすることは可能であるが、あなたが得るのは多少の救いだけであり、あなたは霊を持った生けるものとはなってはいない。あなたは刑罰と裁きを経験したが、その結果自分の性質が一新されることも変化することもない。あなたは依然として古い人のままであり、いまだにサタンに属しており、あなたは清められた者ではない。完全にされた者のみに価値があり、このような人々だけが真の人生を得たのである。『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」より引用


キリスト教賛美歌「人に対する神の愛は真実にして現実である」(男性ソロ)日本語字幕

2020-12-29 23:00:26 | キリスト教賛美歌

 

キリスト教賛美歌「人に対する神の愛は真実にして現実である」(男性ソロ)日本語字幕

人類に対する神の愛はおもに
肉となり働くこと、自ら人を救うこと
人と向き合って語り、共に生活すること
少しも離れていないこと
何のふりもしないこと完全に現実であることに表われます
神は人を救うためには
肉となり、世の人々と共に
何年もの苦痛を受けるほどですが
それはみな人類への神の愛と憐みの故です
それはみな人類への神の愛と憐みの故です

人に対する神の愛
無条件であり、何の要求もしません
神はその見返りとして人から何を受け取りますか
人は神に対して冷淡です
誰が神を神として扱いますか
人は神を少しも慰めず
神は今日に至るまで人から真の愛を受け取っていないのです
神はただ自らを無にして与え施すだけです
神はただ自らを無にして与え施すだけです
人は神を少しも慰めず
神は今日に至るまで人から真の愛を受け取っていないのです
神はただ自らを無にして与え施すだけです
神はただ自らを無にして与え施すだけです

『小羊に従って新しい歌を歌おう』より


 神の義なる性質を知る

2020-12-28 08:20:51 | 天の国の福音

 福音 Q&A:主イエスは慈悲深く愛に満ちた神である。自分たちが主イエスの御名を掲げて主の道を守る限り、再臨した主は自分たちを見捨てず、天国に直接引き上げてくださると私たちは信じているが、このような信仰は正しくないのか。

 答え:

 参考聖書箇所

 「聖書に、『わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである』と書いてあるからである」(ペテロの第一の手紙 1:16)

 「イエスは彼らに答えられた、『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。』」(ヨハネによる福音書 8:34-35)

 「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである」(ヨハネの黙示録 22:14)

 関連する神の言葉

 あなたはわたしがどのような人間を求めているかを知らなければならない。不純な人間は神の国に入ることを許されないし、また不純な人間が聖地を汚すことも許されない。あなたがたとえどれほど長くまたどれほど多くの働きを行なってきたとしても、最後のときになって未だ甚だしく汚れていれば、わたしの国に入ることは天の律法が許さないのである。世の初めから今日まで、人がいかに取り入ろうとも、人がわたしの国に入るのにわたしが便宜を図ったことはない。これは天の掟であり、誰にも破ることは許されない。あなたはいのちを追い求めるべきである。今日、神に完全にされるであろう人間はペテロのような人であり、自分の性質の変化を追い求める人であり、そして喜んで神を証しし、被造物の本分を尽くそうとする人である。そのような人だけが神によって完全にされるのである。もしあなたが見返りだけを求め、自分のいのちの性質を変えることを追い求めないのであれば、あなたの努力の一切は徒労に終わる。そしてこれは、不変の真理である。『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より引用

 あなたがたのように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである。『言葉は肉において現れる』の「呼び名と身分について」より引用

 どの時代においても、神は自身の働きを繰り返さない。終わりの日が到来したので、神は終わりの日に行なう働きを行ない、終わりの日における自身の性質を余すところなく現わす。終わりの日と言うとき、それは別の時代を指しており、その際イエスは、あなたがたは必ずや災害に見舞われ、地震、飢饉、疫病に遭遇すると言ったが、そのことは、それが新しい時代であり、もはや古くなった恵みの時代ではないことを示す。人々が言うように、神が永久に不変で、その性質は常に憐れみ深く慈愛に満ち、人間を自身のように愛し、すべての人に救いを提供し、決して人を憎むことがないのなら、神の働きが終わりを迎えることは果たしてあるだろうか。到来して十字架にかけられ、すべての罪人のために自分を犠牲にし、自身を祭壇に捧げたとき、イエスはすでに贖いの働きを完了させ、恵みの時代に終止符を打っていた。ならば、終わりの日にその時代の働きを繰り返す意味は何だろうか。同じことをするのは、イエスの働きを否定することではないだろうか。もしも神がこの段階に来た際に磔刑の働きを行なわず、慈愛に満ちて憐れみ深いままならば、時代を終わらせることができるだろうか。慈愛に満ちて憐れみ深い神は、その時代に終止符を打つことができるだろうか。時代を終わらせる神の最後の働きにおいて、神の性質は刑罰と裁きであり、神はその中で不義なるすべてのものを暴き、それによってすべての人を公然と裁き、真摯な心で神を愛する人たちを完全にする。このような性質だけが時代を終わらせることができる。終わりの日はすでに来ている。すべての被造物は種類ごとに選り分けられ、その本性を基にして異なる種類に分けられる。その瞬間、神は人の結末と終着点を明らかにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、その人の不従順と不義を暴く術はない。刑罰と裁きを通じてでなければ、すべての被造物の結末を明らかにすることはできない。罰せられ、裁かれて初めて、人は本当の姿を示す。悪は悪と共に、善は善と共に置かれ、すべての人は種類ごとに選り分けられる。刑罰と裁きを通じ、すべての被造物の結末が明らかにされ、それによって悪人は罰せられ、善人は報いられる。そして、すべての人が神の支配に従属することになる。この働きのすべては義なる刑罰と裁きを通じて達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順は極度に深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きから成り、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質だけが、人をすっかり変えて完全な者とすることができる。この性質だけが悪を暴き、よってすべての不義なる者を厳しく懲罰することができる。したがって、このような性質には時代の意義が吹き込まれており、神の性質はそれぞれの新しい時代における働きのために顕示され、表出される。そのことは、神が自身の性質を気まぐれに意味もなく明らかにするということではない。終わりの日に人の結末を明らかにする中で、神が依然として人に無限の憐れみと愛を授け、相変わらず人に愛情深く、人を義なる裁きにさらさず、むしろ寛容、忍耐、赦しを示し、人がどんなに深刻な罪を犯してもそれを赦し、義なる裁きが少しもないのであれば、神の経営のすべてはいったいいつ終わりを迎えるだろうか。このような性質がいつ人々を導き、人類の正しい終着点へと連れ出せるだろうか。いつも愛情に満ちている裁判官、優しい表情と柔和な心をもつ裁判官を例に取ってみよう。この裁判官は犯した罪に関係なく人々を愛し、また相手が誰であっても、愛情深く寛容である。そうであれば、いったいいつ正しい判決にたどり着けるのか。終わりの日には、義なる裁きだけが人を種類ごとに選り分け、新しい領域に連れて行くことができる。このように、裁きと刑罰から成る神の義なる性質を通じ、時代全体に終わりがもたらされるのである。『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より引用

 神の六千年の経営(救いの)計画が終了するまで、つまり神が範疇ごとの人間の結末を明らかにするまでは、地上における神の働きは人の救いのためであり、その目的は神を愛する人を純粋にすっかり完全にし、神の統治の下に服従させることである。神がどのように人を救おうとも、そのすべては人を古いサタン的な性質から脱却させることによってなされる。すなわち、神は人にいのちを求めさせることで救うのである。人がそうしなければ、神の救いを受け入れることはできない。救いは神自身の働きであり、いのちを求めることは救いを受け入れるために人が負わなければならないものである。人の目から見れば、救いは神の愛であり、神の愛は刑罰、裁き、呪いであるはずがない。救いは愛、憐れみ、さらには、慰めの言葉を含んでいなければならず、神から授けられる無限の祝福も含んでいなければならない。神が人を救う時は、神は人を祝福と恵みで動かし、人が心を神に捧げることによって救うのだと人は信じている。すなわち、神が人を動かすのは神が人を救うことなのである。このような救いは取引によって行われる救いである。神が人に百倍のものを授けて初めて、人は神の名の前に服従し、神のために尽くして栄光をもたらそうと努力する。これは人類のための神が意図することではない。神は堕落した人類を救うために地上で働きに来た。このことに嘘はない。もしあれば、神が働きを行うために自ら来ることは絶対になかっただろう。過去において、神の救いは最大限の慈愛と憐れみを見せることで、神は全人類と交換するために自らのすべてをサタンに与えたほどであった。現在は過去とはまったく違っている。今日、あなたがたに与えられる救いは終わりの日に、各人を種類ごとに分類するときに起こる。あなたがたの救いの手段は愛や憐れみではなく、人が徹底的に救われるための刑罰と裁きである。『言葉は肉において現れる』の「地位の祝福は脇に置き、人に救いをもたらす神の心意を理解するべきである」より引用

 終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。もしこれらの真理を重要視せず、いかにこれらを避けるかや、いかにこれらとは関わりのない新しい逃げ道を見つけるかしか考えないのならば、あなたは恐ろしい罪人である、とわたしは言う。もしあなたに神への信仰があるのに、神の真理や心を追い求めず、またあなたを神に近づける道を愛さないなら、あなたは裁きを逃れようとしている人であり、偉大な白い玉座から逃げる操り人形であり裏切り者である、とわたしは言う。神の目から逃げる反抗的な者を神は誰一人として容赦しない。そのような人はさらに重い懲罰を受ける。裁かれるために神の前に来る人で、その上、清められた人は、永遠に神の国に住むであろう。もちろん、これは未来に属することである。『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より引用

 裁きとは何か、真理とは何かをいま理解しているか。もししているならば、裁かれることに従順に従うよう強く勧める。さもなければ、神に称賛され、神の国に連れて行かれる機会を得ることは決してないであろう。裁きを受け入れるだけで清められることのできない人、つまり裁きの働きの只中において逃げる人は、永遠に神に嫌われ拒絶される。彼らの罪は、パリサイ人の罪よりもさらに多く、深刻である。彼らは神を裏切り、神の反逆者だからである。奉仕することさえ相応しくないそのような人は、さらに過酷で、加えていつまでも終わることのない懲罰を受ける。言葉では一度は忠誠を誓いながらその後、神を裏切った反逆者を神は容赦することはない。このような人は霊、魂、体の懲罰を通して報復を受けることになる。これこそ、神の義なる性質の明示ではないのか。これが人を裁き、明らかにする神の目的ではないのか。神は裁きのあいだにあらゆる邪悪な行いをする人々すべてを邪悪な霊がはびこる場所に引き渡し、邪悪な霊に彼らの肉体を好きなように破壊させる。彼らの肉体は死臭を放つ。これは彼らにふさわしい報復である。神は、それら不忠実な偽信者、偽使徒、偽働き人の罪を一つひとつその記録書に書き留める。そして、その時が来ると、神は彼らを不浄な霊の真中に投げ入れ、不浄な霊が彼らの全身を思うままに汚すようにし、そのため彼らは決して生まれ変わることはなく、二度と光を見ることはない。一時期は神に仕えるが最後まで忠実であり続けることのできない偽善者は、神が邪悪なものに含めて数え、そのため彼らは悪人の言いなりとなり、烏合の衆の一部となる。最後には神は彼らを滅ぼす。キリストに忠実であったことがない人、自らの強みをもって何らの貢献をしたことのない人を神は脇へやり、省みることはなく、時代が変わるときに彼らをすべて滅ぼす。彼らはもはや地上には存在せず、神の国へ入ることなどなおさらありえない。神に誠実であったことはないが、状況のせいで強制的に神を表面的に取り扱うことになった人は、神の民のために奉仕する人に含めて数えられる。これらの人々のうちほんの一部だけが生き残るが、大半は奉仕をする規準にさえ達しない人々とともに滅ぶ。最後に、神と同じ考えをもつ人すべて、神の民と子ら、そして神に祭司となるよう予め定められた人々を、神は神の国に連れて行く。彼らは神の働きの結晶となる。神が制定した範疇のどれにも当てはめることのできない人は、未信者に含めて数えられる。彼らの結末がどうなるか、あなたがたは確実に想像できることであろう。わたしは既に言うべきことをすべてあなたがたに語った。あなたがたが選ぶ道は、あなたがただけの選択である。あなたがたが理解するべきことはこれである。神の働きは神と足並みをそろえることのできない人を誰も待たず、神の義なる性質はどんな人にも憐れみを示さない。『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より引用

 終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。人はこの真理を通していのちを得ることができ、この真理を通してのみ、神を知り、神に良しと認められる。終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないなら、あなたは決してイエスに良しと認められず、天国の門をくぐる資格も得られない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり、歴史に囚われた人だからである。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることができず、永遠のいのちの道も得られない。と言うのも、彼らがもっているのはどれも、玉座から流れるいのちの水ではなく、何千年も執着してきた汚水だからである。いのちの水を施されない者は永遠に死体であり、サタンの玩具であり、地獄の子である。そのような者がどうして神を目にできようか。ひたすら過去にしがみつき、足踏みしながら現状を維持しようとし、現状を変えて歴史を棄てようとしないなら、あなたは絶えず神に反することになるのではないか。神の働きの歩みは、押し寄せる波や轟く雷鳴のごとく広大で力強い。それでも、あなたは自分の愚かさに固執して何もしないまま、座して滅びを待っている。このままで、あなたは小羊の足跡に従う者だと見なされようか。あなたが神として固執するものが、常にあたらしく古びない神だと正当化できようか。あなたの黄ばんだ本の言葉があなたを新しい時代に運んでくれることがあろうか。神の働きの歩みをたどれるよう導いてくれようか。そして、それらがあなたを天国に引き上げられるだろうか。あなたがその手でつかんでいる物は、つかの間の慰めを与えられる文字でしかなく、いのちを与えられる真理ではない。あなたが読む聖句は、あなたの舌を肥やせるだけで、あなたが人生を知るうえで助けとなる知恵の言葉ではなく、ましてやあなたを完全にするよう導く道などではない。この食い違いを見て、あなたはよく考えてみようとは思わないのか。そこに含まれる奥義をあなたに理解させることはないのか。あなたは、自分で自分を天に引き上げ、神に会わせることができるのか。神が来なくても、あなたは自らを天に引き上げ、神と共に家族の幸福を楽しむことができるのか。あなたはいまだに夢を見ているのか。それなら、わたしは勧める。夢を見るのを止めよ。今働いているのが誰かを見よ。今、終わりの日に人を救う働きをしているのが誰かを見よ。そうしなければ、あなたが真理を得ることは決してなく、いのちを得ることも決してない。『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より引用

 肉となった神を信じない人、すなわち、目に見える神の働きと言葉を信じない人、目に見える神を信じないで目に見えない天の神を崇拝する人はみな、心の中に神を持たない人である。彼らは、神に従わず、反抗する人たちである。このような人は真理を欠いているのは言うまでもなく、人間性と理知をも欠いている。このような人たちにとっては、目に見える神、触れることができる神はもっと信頼できず、目に見えない神、触れることのできない神こそが、いちばん信頼でき、またいちばん彼らの心を喜ばせるのである。彼らが求めるものは現実的な真理ではなく、いのちの本質でもなく、ましてや神の考えなどではない。むしろ彼らは、刺激を求めている。もっとも彼らの欲望を満たすことができるものならどんなものであっても、間違いなくそれが、彼らが信じ、追い求めるものである。彼らはただ自分の欲望を満たすためだけに神を信じるのであって、真理を求めるためではない。このような人たちはみな悪を行う人たちではないのか。彼らはひどく自信過剰で、天の神が彼らのような「善良な人々」を滅ぼすとは信じない。むしろ神は彼らを生き残らせ、しかも手厚く報いてくれると思っている。なぜなら、彼らは神のために多くの事をし、神のためにずいぶん「忠誠心」を尽くしたからである。もし彼らが目に見える神を追い求めることになった場合、彼らの欲望が満たされないとなれば、彼らは直ちに神に反撃するか、烈火のごとく怒るはずである。このような人たちはみな、自分の欲望を満たそうとする卑劣な人間である。彼らは、真理を追い求めることにおいて誠実な人々ではない。このような人々は、キリストに従ういわゆる悪者たちである。真理を求めないこのような人たちは真理を信じることはできない。彼らは、人類の未来の結末については、なおさら感じることができない。なぜなら、彼らは目に見える神の働きと言葉をひとつも信じず、人類の未来の終着点をも信じることができないからである。したがって、彼らは見える神につき従っていても、やはり悪を働いて真理を求めず、わたしの要求する真理を実践することもない。自分が滅ぼされることを信じない人たちは逆に、まさに滅ぼされる対象そのものである。彼らはみな、自分がとても賢明であると信じていて、自分が真理を実行する人であると信じている。彼らは自分の悪行を真理と考え、それを大事にする。このような悪者はみなひどく自信過剰である。彼らは真理は教義であるとし、自分の悪行を真理と見なす。最後に彼らは自分の蒔いた種から刈り取る。自信過剰で傲慢であればあるほど、真理を得ることができず、天の神を信じれば信じるほど、神に逆らう。このような人たちはみな罰せられる人々である。『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より引用

 神はさらに多くの人々が懲罰を受けることを望んではいないのだ。むしろ、もっと多くの人々が救われ、もっと多くの人々が神の足跡に従い、神の国に入ることを願っているのである。しかし、もし人々が自分の誤りを認めることを拒み、謙虚な心で真理を受け入れることができず、代わりにつまらぬあら探しをして、欠点を見つけようとし、本当は分かっていないのに分かっている振りをするなら、最後に損をするのは彼らである。神の働きは誰も待ってはくれない。神の救いは、誰にでも見境なく投げ付ける一片のゴミのようなものではない。それはむしろ、目標と選択によって的を絞るのだ。もしあなたがそれを大切にすることを知らぬなら、あなたを待ち受けているのは、神の義なる裁きと懲罰だけである。神は全ての人々を公正に扱う。あなたが何歳であるか、どれだけ年の功があるか、また、どれほどの苦しみを経験してきたかに関係なく、神の義の性質は、これらのことに関わらず、永久に変わることはない。神は誰であれ、過剰に評価したり、えこひいきしたりしないのだ。人々への神の態度は、彼らが、他の全てのものを放棄することによって、真理を受け入れられるかどうか、また神の新しい働きを受け入れられるかどうかに拠る。もしあなたが神の新しい働きを受けることができ、神が表す真理を受けることができるのなら、その時あなたは神の救いを得ることができるであろう。あなたがもし熟練者としての自分の地位を誇り、自分の年の功を見せびらかし、神に条件を押し付けるなら、神の救いはあなたから取り上げられてしまうだろう。イエス・キリストを受け入れることができず、ただメシヤを待っていたユダヤ人たちのように、最後に彼らに降りかかるのは、神の呪いと怒りだけである。これは全ての者たちが見ることのできる事実である。……私たちは神の働きと神の経営について、軽率に結論を出してはならない。さもなければ、私たちが得るのは神の約束ではなく、むしろ神の怒りと呪いと懲罰であり、私たちの一生の願いは無に帰するだろう。過去の苦い経験を生かす上で、私たちがもっと為すべきことは、神の救いを逃さないこと、神が私たちに授ける一つひとつの導きと機会をしっかりと掴み、そして予期せぬ時に神の呪いが私たちに降りかかることを避けることである。私たちは、神の出現を目にする時まで、神の来臨を忍耐して慎重に待ち、私たちが途上で出会う福音に注意深く臨み、神が私たちを信仰によって強固にしてくれるよう神に祈り、私たちが遭遇するあらゆる種類の人間、問題、事物を判別できるように、神が私たちに霊の目を授けてくれるよう祈らなければならない。

 ……パリサイ人たちの知識や見せかけの行いは、彼らのイエス・キリストとの関係を救いはしなかった。逆にそれは彼らを害したのだ。そして主イエスを罪に定めるよう彼らを駆り立てたのは、彼らの知識と観念、及び彼らの心の中にある神のイメージであった。彼らを迷わせ、彼らの霊の目を覆い、すでに到来したメシヤを認識できないようにし、主イエスを罪に定めるために証拠を見つけ足掛かりを得るよう、できること全てをさせたのは、彼らの想像と知性であった。神の元来の働きを支持することを口実に、現在における神の現実的な働きを非難する―これが彼らの醜い素顔である。もちろん、これはどの時代に生きる人々でも犯しやすい過ちである―彼らは古い教理と規則を使って、以前一度も聞いたこともない真理を秤に掛け非難している。また、彼らは、神の前に真の道を固守し、自分たちの純粋さを保持し、自分たちは神に忠誠を尽くしていると考えている。しかし、事実はどうであろうか。神は常に新しい働きを行い、神の経営を維持し、常に新しく、決して古くならない。それでは人々はどうであろうか? 彼らは、自分たちが神の表現の全容だと思い込んでいる古いものにいつもしがみ付き、自分の肩を叩いては自身を称賛し、傲慢で膨れ上がり、神は決して自分たちを捨てない、決して自分たちを悪く扱わないと信じる態度で、神が彼らに報酬を授けるのを待っている。その結果はいかなるものであろうか。神の働きは絶え間なく継続し、新しい時代のもっと多くの人々が神に従い、神の新しい働きを受け入れる一方、 神が自分たちに報酬を授けるのを待っている者たちは、神の新しい働きによって排除され、さらに多くの人々が神の懲罰の中へ落ち込むのだ。彼らの懲罰が始まる時点で、神を信じる彼らの人生は終わり、彼らの最後、また彼らの終着点には終止符が打たれるのである。誰もこのような目にはあいたくないと願うが、それは知らないうちに私たちの目の前で起こるのだ。これは神の性質がそれほどまで容赦ないことに起因するのだろうか。それとも人々の求め方に欠点があるからなのか? 果たして人類が徹底的に自分自身を吟味することには価値がないのだろうか。『全能神に抵抗することによる懲罰の代表的な事例』の「あとがき」より引用


 神の義なる性質を知る

2020-12-28 08:20:51 | 天の国の福音

 福音 Q&A:主イエスは慈悲深く愛に満ちた神である。自分たちが主イエスの御名を掲げて主の道を守る限り、再臨した主は自分たちを見捨てず、天国に直接引き上げてくださると私たちは信じているが、このような信仰は正しくないのか。

 答え:

 参考聖書箇所

 「聖書に、『わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである』と書いてあるからである」(ペテロの第一の手紙 1:16)

 「イエスは彼らに答えられた、『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。』」(ヨハネによる福音書 8:34-35)

 「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである」(ヨハネの黙示録 22:14)

 関連する神の言葉

 あなたはわたしがどのような人間を求めているかを知らなければならない。不純な人間は神の国に入ることを許されないし、また不純な人間が聖地を汚すことも許されない。あなたがたとえどれほど長くまたどれほど多くの働きを行なってきたとしても、最後のときになって未だ甚だしく汚れていれば、わたしの国に入ることは天の律法が許さないのである。世の初めから今日まで、人がいかに取り入ろうとも、人がわたしの国に入るのにわたしが便宜を図ったことはない。これは天の掟であり、誰にも破ることは許されない。あなたはいのちを追い求めるべきである。今日、神に完全にされるであろう人間はペテロのような人であり、自分の性質の変化を追い求める人であり、そして喜んで神を証しし、被造物の本分を尽くそうとする人である。そのような人だけが神によって完全にされるのである。もしあなたが見返りだけを求め、自分のいのちの性質を変えることを追い求めないのであれば、あなたの努力の一切は徒労に終わる。そしてこれは、不変の真理である。『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より引用

 あなたがたのように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである。『言葉は肉において現れる』の「呼び名と身分について」より引用

 どの時代においても、神は自身の働きを繰り返さない。終わりの日が到来したので、神は終わりの日に行なう働きを行ない、終わりの日における自身の性質を余すところなく現わす。終わりの日と言うとき、それは別の時代を指しており、その際イエスは、あなたがたは必ずや災害に見舞われ、地震、飢饉、疫病に遭遇すると言ったが、そのことは、それが新しい時代であり、もはや古くなった恵みの時代ではないことを示す。人々が言うように、神が永久に不変で、その性質は常に憐れみ深く慈愛に満ち、人間を自身のように愛し、すべての人に救いを提供し、決して人を憎むことがないのなら、神の働きが終わりを迎えることは果たしてあるだろうか。到来して十字架にかけられ、すべての罪人のために自分を犠牲にし、自身を祭壇に捧げたとき、イエスはすでに贖いの働きを完了させ、恵みの時代に終止符を打っていた。ならば、終わりの日にその時代の働きを繰り返す意味は何だろうか。同じことをするのは、イエスの働きを否定することではないだろうか。もしも神がこの段階に来た際に磔刑の働きを行なわず、慈愛に満ちて憐れみ深いままならば、時代を終わらせることができるだろうか。慈愛に満ちて憐れみ深い神は、その時代に終止符を打つことができるだろうか。時代を終わらせる神の最後の働きにおいて、神の性質は刑罰と裁きであり、神はその中で不義なるすべてのものを暴き、それによってすべての人を公然と裁き、真摯な心で神を愛する人たちを完全にする。このような性質だけが時代を終わらせることができる。終わりの日はすでに来ている。すべての被造物は種類ごとに選り分けられ、その本性を基にして異なる種類に分けられる。その瞬間、神は人の結末と終着点を明らかにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、その人の不従順と不義を暴く術はない。刑罰と裁きを通じてでなければ、すべての被造物の結末を明らかにすることはできない。罰せられ、裁かれて初めて、人は本当の姿を示す。悪は悪と共に、善は善と共に置かれ、すべての人は種類ごとに選り分けられる。刑罰と裁きを通じ、すべての被造物の結末が明らかにされ、それによって悪人は罰せられ、善人は報いられる。そして、すべての人が神の支配に従属することになる。この働きのすべては義なる刑罰と裁きを通じて達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順は極度に深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きから成り、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質だけが、人をすっかり変えて完全な者とすることができる。この性質だけが悪を暴き、よってすべての不義なる者を厳しく懲罰することができる。したがって、このような性質には時代の意義が吹き込まれており、神の性質はそれぞれの新しい時代における働きのために顕示され、表出される。そのことは、神が自身の性質を気まぐれに意味もなく明らかにするということではない。終わりの日に人の結末を明らかにする中で、神が依然として人に無限の憐れみと愛を授け、相変わらず人に愛情深く、人を義なる裁きにさらさず、むしろ寛容、忍耐、赦しを示し、人がどんなに深刻な罪を犯してもそれを赦し、義なる裁きが少しもないのであれば、神の経営のすべてはいったいいつ終わりを迎えるだろうか。このような性質がいつ人々を導き、人類の正しい終着点へと連れ出せるだろうか。いつも愛情に満ちている裁判官、優しい表情と柔和な心をもつ裁判官を例に取ってみよう。この裁判官は犯した罪に関係なく人々を愛し、また相手が誰であっても、愛情深く寛容である。そうであれば、いったいいつ正しい判決にたどり着けるのか。終わりの日には、義なる裁きだけが人を種類ごとに選り分け、新しい領域に連れて行くことができる。このように、裁きと刑罰から成る神の義なる性質を通じ、時代全体に終わりがもたらされるのである。『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より引用

 神の六千年の経営(救いの)計画が終了するまで、つまり神が範疇ごとの人間の結末を明らかにするまでは、地上における神の働きは人の救いのためであり、その目的は神を愛する人を純粋にすっかり完全にし、神の統治の下に服従させることである。神がどのように人を救おうとも、そのすべては人を古いサタン的な性質から脱却させることによってなされる。すなわち、神は人にいのちを求めさせることで救うのである。人がそうしなければ、神の救いを受け入れることはできない。救いは神自身の働きであり、いのちを求めることは救いを受け入れるために人が負わなければならないものである。人の目から見れば、救いは神の愛であり、神の愛は刑罰、裁き、呪いであるはずがない。救いは愛、憐れみ、さらには、慰めの言葉を含んでいなければならず、神から授けられる無限の祝福も含んでいなければならない。神が人を救う時は、神は人を祝福と恵みで動かし、人が心を神に捧げることによって救うのだと人は信じている。すなわち、神が人を動かすのは神が人を救うことなのである。このような救いは取引によって行われる救いである。神が人に百倍のものを授けて初めて、人は神の名の前に服従し、神のために尽くして栄光をもたらそうと努力する。これは人類のための神が意図することではない。神は堕落した人類を救うために地上で働きに来た。このことに嘘はない。もしあれば、神が働きを行うために自ら来ることは絶対になかっただろう。過去において、神の救いは最大限の慈愛と憐れみを見せることで、神は全人類と交換するために自らのすべてをサタンに与えたほどであった。現在は過去とはまったく違っている。今日、あなたがたに与えられる救いは終わりの日に、各人を種類ごとに分類するときに起こる。あなたがたの救いの手段は愛や憐れみではなく、人が徹底的に救われるための刑罰と裁きである。『言葉は肉において現れる』の「地位の祝福は脇に置き、人に救いをもたらす神の心意を理解するべきである」より引用

 終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。もしこれらの真理を重要視せず、いかにこれらを避けるかや、いかにこれらとは関わりのない新しい逃げ道を見つけるかしか考えないのならば、あなたは恐ろしい罪人である、とわたしは言う。もしあなたに神への信仰があるのに、神の真理や心を追い求めず、またあなたを神に近づける道を愛さないなら、あなたは裁きを逃れようとしている人であり、偉大な白い玉座から逃げる操り人形であり裏切り者である、とわたしは言う。神の目から逃げる反抗的な者を神は誰一人として容赦しない。そのような人はさらに重い懲罰を受ける。裁かれるために神の前に来る人で、その上、清められた人は、永遠に神の国に住むであろう。もちろん、これは未来に属することである。『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より引用

 裁きとは何か、真理とは何かをいま理解しているか。もししているならば、裁かれることに従順に従うよう強く勧める。さもなければ、神に称賛され、神の国に連れて行かれる機会を得ることは決してないであろう。裁きを受け入れるだけで清められることのできない人、つまり裁きの働きの只中において逃げる人は、永遠に神に嫌われ拒絶される。彼らの罪は、パリサイ人の罪よりもさらに多く、深刻である。彼らは神を裏切り、神の反逆者だからである。奉仕することさえ相応しくないそのような人は、さらに過酷で、加えていつまでも終わることのない懲罰を受ける。言葉では一度は忠誠を誓いながらその後、神を裏切った反逆者を神は容赦することはない。このような人は霊、魂、体の懲罰を通して報復を受けることになる。これこそ、神の義なる性質の明示ではないのか。これが人を裁き、明らかにする神の目的ではないのか。神は裁きのあいだにあらゆる邪悪な行いをする人々すべてを邪悪な霊がはびこる場所に引き渡し、邪悪な霊に彼らの肉体を好きなように破壊させる。彼らの肉体は死臭を放つ。これは彼らにふさわしい報復である。神は、それら不忠実な偽信者、偽使徒、偽働き人の罪を一つひとつその記録書に書き留める。そして、その時が来ると、神は彼らを不浄な霊の真中に投げ入れ、不浄な霊が彼らの全身を思うままに汚すようにし、そのため彼らは決して生まれ変わることはなく、二度と光を見ることはない。一時期は神に仕えるが最後まで忠実であり続けることのできない偽善者は、神が邪悪なものに含めて数え、そのため彼らは悪人の言いなりとなり、烏合の衆の一部となる。最後には神は彼らを滅ぼす。キリストに忠実であったことがない人、自らの強みをもって何らの貢献をしたことのない人を神は脇へやり、省みることはなく、時代が変わるときに彼らをすべて滅ぼす。彼らはもはや地上には存在せず、神の国へ入ることなどなおさらありえない。神に誠実であったことはないが、状況のせいで強制的に神を表面的に取り扱うことになった人は、神の民のために奉仕する人に含めて数えられる。これらの人々のうちほんの一部だけが生き残るが、大半は奉仕をする規準にさえ達しない人々とともに滅ぶ。最後に、神と同じ考えをもつ人すべて、神の民と子ら、そして神に祭司となるよう予め定められた人々を、神は神の国に連れて行く。彼らは神の働きの結晶となる。神が制定した範疇のどれにも当てはめることのできない人は、未信者に含めて数えられる。彼らの結末がどうなるか、あなたがたは確実に想像できることであろう。わたしは既に言うべきことをすべてあなたがたに語った。あなたがたが選ぶ道は、あなたがただけの選択である。あなたがたが理解するべきことはこれである。神の働きは神と足並みをそろえることのできない人を誰も待たず、神の義なる性質はどんな人にも憐れみを示さない。『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より引用

 終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。人はこの真理を通していのちを得ることができ、この真理を通してのみ、神を知り、神に良しと認められる。終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないなら、あなたは決してイエスに良しと認められず、天国の門をくぐる資格も得られない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり、歴史に囚われた人だからである。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることができず、永遠のいのちの道も得られない。と言うのも、彼らがもっているのはどれも、玉座から流れるいのちの水ではなく、何千年も執着してきた汚水だからである。いのちの水を施されない者は永遠に死体であり、サタンの玩具であり、地獄の子である。そのような者がどうして神を目にできようか。ひたすら過去にしがみつき、足踏みしながら現状を維持しようとし、現状を変えて歴史を棄てようとしないなら、あなたは絶えず神に反することになるのではないか。神の働きの歩みは、押し寄せる波や轟く雷鳴のごとく広大で力強い。それでも、あなたは自分の愚かさに固執して何もしないまま、座して滅びを待っている。このままで、あなたは小羊の足跡に従う者だと見なされようか。あなたが神として固執するものが、常にあたらしく古びない神だと正当化できようか。あなたの黄ばんだ本の言葉があなたを新しい時代に運んでくれることがあろうか。神の働きの歩みをたどれるよう導いてくれようか。そして、それらがあなたを天国に引き上げられるだろうか。あなたがその手でつかんでいる物は、つかの間の慰めを与えられる文字でしかなく、いのちを与えられる真理ではない。あなたが読む聖句は、あなたの舌を肥やせるだけで、あなたが人生を知るうえで助けとなる知恵の言葉ではなく、ましてやあなたを完全にするよう導く道などではない。この食い違いを見て、あなたはよく考えてみようとは思わないのか。そこに含まれる奥義をあなたに理解させることはないのか。あなたは、自分で自分を天に引き上げ、神に会わせることができるのか。神が来なくても、あなたは自らを天に引き上げ、神と共に家族の幸福を楽しむことができるのか。あなたはいまだに夢を見ているのか。それなら、わたしは勧める。夢を見るのを止めよ。今働いているのが誰かを見よ。今、終わりの日に人を救う働きをしているのが誰かを見よ。そうしなければ、あなたが真理を得ることは決してなく、いのちを得ることも決してない。『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より引用

 肉となった神を信じない人、すなわち、目に見える神の働きと言葉を信じない人、目に見える神を信じないで目に見えない天の神を崇拝する人はみな、心の中に神を持たない人である。彼らは、神に従わず、反抗する人たちである。このような人は真理を欠いているのは言うまでもなく、人間性と理知をも欠いている。このような人たちにとっては、目に見える神、触れることができる神はもっと信頼できず、目に見えない神、触れることのできない神こそが、いちばん信頼でき、またいちばん彼らの心を喜ばせるのである。彼らが求めるものは現実的な真理ではなく、いのちの本質でもなく、ましてや神の考えなどではない。むしろ彼らは、刺激を求めている。もっとも彼らの欲望を満たすことができるものならどんなものであっても、間違いなくそれが、彼らが信じ、追い求めるものである。彼らはただ自分の欲望を満たすためだけに神を信じるのであって、真理を求めるためではない。このような人たちはみな悪を行う人たちではないのか。彼らはひどく自信過剰で、天の神が彼らのような「善良な人々」を滅ぼすとは信じない。むしろ神は彼らを生き残らせ、しかも手厚く報いてくれると思っている。なぜなら、彼らは神のために多くの事をし、神のためにずいぶん「忠誠心」を尽くしたからである。もし彼らが目に見える神を追い求めることになった場合、彼らの欲望が満たされないとなれば、彼らは直ちに神に反撃するか、烈火のごとく怒るはずである。このような人たちはみな、自分の欲望を満たそうとする卑劣な人間である。彼らは、真理を追い求めることにおいて誠実な人々ではない。このような人々は、キリストに従ういわゆる悪者たちである。真理を求めないこのような人たちは真理を信じることはできない。彼らは、人類の未来の結末については、なおさら感じることができない。なぜなら、彼らは目に見える神の働きと言葉をひとつも信じず、人類の未来の終着点をも信じることができないからである。したがって、彼らは見える神につき従っていても、やはり悪を働いて真理を求めず、わたしの要求する真理を実践することもない。自分が滅ぼされることを信じない人たちは逆に、まさに滅ぼされる対象そのものである。彼らはみな、自分がとても賢明であると信じていて、自分が真理を実行する人であると信じている。彼らは自分の悪行を真理と考え、それを大事にする。このような悪者はみなひどく自信過剰である。彼らは真理は教義であるとし、自分の悪行を真理と見なす。最後に彼らは自分の蒔いた種から刈り取る。自信過剰で傲慢であればあるほど、真理を得ることができず、天の神を信じれば信じるほど、神に逆らう。このような人たちはみな罰せられる人々である。『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より引用

 神はさらに多くの人々が懲罰を受けることを望んではいないのだ。むしろ、もっと多くの人々が救われ、もっと多くの人々が神の足跡に従い、神の国に入ることを願っているのである。しかし、もし人々が自分の誤りを認めることを拒み、謙虚な心で真理を受け入れることができず、代わりにつまらぬあら探しをして、欠点を見つけようとし、本当は分かっていないのに分かっている振りをするなら、最後に損をするのは彼らである。神の働きは誰も待ってはくれない。神の救いは、誰にでも見境なく投げ付ける一片のゴミのようなものではない。それはむしろ、目標と選択によって的を絞るのだ。もしあなたがそれを大切にすることを知らぬなら、あなたを待ち受けているのは、神の義なる裁きと懲罰だけである。神は全ての人々を公正に扱う。あなたが何歳であるか、どれだけ年の功があるか、また、どれほどの苦しみを経験してきたかに関係なく、神の義の性質は、これらのことに関わらず、永久に変わることはない。神は誰であれ、過剰に評価したり、えこひいきしたりしないのだ。人々への神の態度は、彼らが、他の全てのものを放棄することによって、真理を受け入れられるかどうか、また神の新しい働きを受け入れられるかどうかに拠る。もしあなたが神の新しい働きを受けることができ、神が表す真理を受けることができるのなら、その時あなたは神の救いを得ることができるであろう。あなたがもし熟練者としての自分の地位を誇り、自分の年の功を見せびらかし、神に条件を押し付けるなら、神の救いはあなたから取り上げられてしまうだろう。イエス・キリストを受け入れることができず、ただメシヤを待っていたユダヤ人たちのように、最後に彼らに降りかかるのは、神の呪いと怒りだけである。これは全ての者たちが見ることのできる事実である。……私たちは神の働きと神の経営について、軽率に結論を出してはならない。さもなければ、私たちが得るのは神の約束ではなく、むしろ神の怒りと呪いと懲罰であり、私たちの一生の願いは無に帰するだろう。過去の苦い経験を生かす上で、私たちがもっと為すべきことは、神の救いを逃さないこと、神が私たちに授ける一つひとつの導きと機会をしっかりと掴み、そして予期せぬ時に神の呪いが私たちに降りかかることを避けることである。私たちは、神の出現を目にする時まで、神の来臨を忍耐して慎重に待ち、私たちが途上で出会う福音に注意深く臨み、神が私たちを信仰によって強固にしてくれるよう神に祈り、私たちが遭遇するあらゆる種類の人間、問題、事物を判別できるように、神が私たちに霊の目を授けてくれるよう祈らなければならない。

 ……パリサイ人たちの知識や見せかけの行いは、彼らのイエス・キリストとの関係を救いはしなかった。逆にそれは彼らを害したのだ。そして主イエスを罪に定めるよう彼らを駆り立てたのは、彼らの知識と観念、及び彼らの心の中にある神のイメージであった。彼らを迷わせ、彼らの霊の目を覆い、すでに到来したメシヤを認識できないようにし、主イエスを罪に定めるために証拠を見つけ足掛かりを得るよう、できること全てをさせたのは、彼らの想像と知性であった。神の元来の働きを支持することを口実に、現在における神の現実的な働きを非難する―これが彼らの醜い素顔である。もちろん、これはどの時代に生きる人々でも犯しやすい過ちである―彼らは古い教理と規則を使って、以前一度も聞いたこともない真理を秤に掛け非難している。また、彼らは、神の前に真の道を固守し、自分たちの純粋さを保持し、自分たちは神に忠誠を尽くしていると考えている。しかし、事実はどうであろうか。神は常に新しい働きを行い、神の経営を維持し、常に新しく、決して古くならない。それでは人々はどうであろうか? 彼らは、自分たちが神の表現の全容だと思い込んでいる古いものにいつもしがみ付き、自分の肩を叩いては自身を称賛し、傲慢で膨れ上がり、神は決して自分たちを捨てない、決して自分たちを悪く扱わないと信じる態度で、神が彼らに報酬を授けるのを待っている。その結果はいかなるものであろうか。神の働きは絶え間なく継続し、新しい時代のもっと多くの人々が神に従い、神の新しい働きを受け入れる一方、 神が自分たちに報酬を授けるのを待っている者たちは、神の新しい働きによって排除され、さらに多くの人々が神の懲罰の中へ落ち込むのだ。彼らの懲罰が始まる時点で、神を信じる彼らの人生は終わり、彼らの最後、また彼らの終着点には終止符が打たれるのである。誰もこのような目にはあいたくないと願うが、それは知らないうちに私たちの目の前で起こるのだ。これは神の性質がそれほどまで容赦ないことに起因するのだろうか。それとも人々の求め方に欠点があるからなのか? 果たして人類が徹底的に自分自身を吟味することには価値がないのだろうか。『全能神に抵抗することによる懲罰の代表的な事例』の「あとがき」より引用