神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

キリスト教音楽「神は肉による働きでのみ人を獲得できる」キリストの愛は確かなものだ

2020-08-31 20:54:22 | キリスト教賛美歌

キリスト教音楽「神は肉による働きでのみ人を獲得できる」キリストの愛は確かなものだ
1
実践的な神の言葉を通して
人の欠点と反抗心が裁き明かされる
人は必要とするものを受けて
神が人の世界に来たことを見る
実践的な神の業は
サタンの影響下からもれなく全ての者を救い
穢れと悪魔で堕落した性質から解放するため
神のものとされるとは 人の完全な模範として神に従うこと
実践的な神に従い 正常の人間性を生き
神のことば・要求・語ることを十分守り
彼の求めることをやり遂げれば
その時あなたは神のものとされる
2
人が神の行いを見られるように
神は肉として地上に降りてきた
人が神に触れることができるよう
神の霊が肉の姿となった
神を見つめ知るようになる
実践的な方法のみ 神は人を完全にする
彼により人生を送り彼の心に従える
神のものとされるとは
人の完全な模範として神に従うこと
実践的な神に従い 正常の人間性を生き
神のことば・要求・語ることを十分守り
彼の求めることをやり遂げれば
その時あなたは神のものとされる
3
もし神が天から語ることしかせず
地上に降りてこなかったとしたなら
人はどのように神を知れるだろう
神の業についての虚しい言葉で
現実の神の言葉でないならば
神は人の模範として地上に降りてくるので
人は神を見て「触れること」「神のものとなること」ができる
神のものとされるとは
人の完全な模範として神に従うこと
実践的な神に従い 正常の人間性を生き
神のことば・要求・語ることを十分守り
彼の求めることをやり遂げれば
その時あなたは神のものとされる
『言葉は肉において現れる』より

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


終わりの日に神によって表わされた真理はなぜ人を清め、人を完全にし、人のいのちになることができるのか

2020-08-30 10:54:50 | 天の国の福音

終わりの日に神によって表わされた真理はなぜ人を清め、人を完全にし、人のいのちになることができるのか

 

いのちの道は、誰でも持てるものではなく、誰にでも簡単に得られるものでもない。なぜなら、いのちは神のみに由来しているからだ。それはすなわち、神自身のみがいのちの本質を持っており、神自身なくしていのちの道は存在せず、神のみが、いのちと永遠に流れつづけるいのちの生ける泉の源であることを意味する。神が世界を創造したとき以来、神はいのちの活力に関わる多くの働きをし、人にいのちを与える多くの働きをし、人がいのちを得られるよう多大な代償を払ってきた。神自身が永遠のいのちで、神自身が、人が復活できる道だからである。神が人の心に不在であることはなく、常に人の中に生きている。神は人の生活の原動力であり、人の存在の基盤であり、誕生後の人の存在にとっての豊かな鉱物である。神は人を生まれ変わらせ、人が自分の持つあらゆる役割においてしっかりと生きられるようにする。神の力と、神の消えることのないいのちの力のおかげで、人は何世代も生きてきた。その間ずっと、神のいのちの力は人の存在の支えであり、神は普通の人間が誰も払ったことのないような代償を払ってきた。神のいのちの力は、いかなる力にも勝る。そしていかなる力をも超越する。神のいのちは永遠であり、神の力は非凡であり、神のいのちの力はいかなる被造物や敵の力によっても簡単に圧倒されない。神のいのちの力は存在し、時と場所にかかわらず明るい輝きを放つ。天地は激変するかもしれないが、神のいのちは永遠に不変である。万物は過ぎ去るが、神のいのちは依然としてそこにある。それは、神が万物の存在の源であり、それらの存在の根幹だからだ。人のいのちは神に由来し、天の存在は神に拠り、地の生存は神のいのちの力から生じる。活力を有するいかなる物体も神の主権を越えることはできず、いのちの力を有する何物も神の権威の及ぶ範囲から逃れ出ることはできない。このようにして、誰もが神の支配下に服従し、神の命令の下で生きねばならず、誰も神の支配から逃れられない。

『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より

神自身がいのちであり、真理であり、神のいのちと真理は共存している。真理を得られない者がいのちを得ることは決してない。真理による導き、支え、施しがなければ、あなたは文字と教義、そしてさらには死しか得られない。神のいのちは常に存在し、神の真理といのちは共存する。真理の源を見つけることができないなら、いのちの栄養は得られないだろう。いのちの施しを得られないなら、もちろん真理は全く得られないので、想像と観念以外には、あなたの肉全体はただの肉、臭い肉でしかない。活字による言葉はいのちとはみなされず、歴史の記録は真理として敬われることはなく、過去の教義は神が現在話している言葉の記録とはみなされない。神が地上に来て人の間に生きているときに告げたものだけが真理であり、いのちであり、神の心であり、神が現在働くやり方である。昔神が語った言葉の記録を現代に適用しようとするのなら、あなたは考古学者であり、あなたにぴったりの表現は歴史的遺産の専門家ということになる。なぜなら、あなたは常に神が過ぎ去った時にした働きの痕跡を信じており、神が以前人の間で働いた時に残した神の影しか信じておらず、神が昔自分を信じる者に与えた道しか信じていないからである。あなたは、神の今日の働きの方向を信じておらず、今ある神の栄光に満ちた顔を信じておらず、現在神が表している真理の道を信じていない。それゆえに、あなたは間違いなく完全に現実から遊離した空想家である。もし今、あなたがなお人にいのちをもたらすことのできない言葉に固執するなら、あなたは望みのない一片の枯れ木[a]だ。あなたは保守的すぎで、あまりに強情で、理性がなさすぎるからだ。

『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より

終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人による神の真の顔の認識と、人間自らの反抗的性質についての真理である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理を以てもって裁きの働きを行う」より

「言葉」という語句は単純でごく普通であるが、受肉した神の口から出る言葉は宇宙全体を揺るがせる。それは人間の心、観念、古い性質、世界全体が以前にはどのように表れていたかを変革する。時代をとおして、今日の神だけがこのような働き方をし、今日の神だけがそのように語り、そのように人間を救いに来る。それ以降は、人間は言葉の導きの下に生き、言葉により牧され、施しを受ける。全人類は言葉の世界に、神の言葉の呪いと祝福の内に生きるようになった。そして言葉の裁きと刑罰との下に生きるようになったさらに多くの人間がいる。これらの言葉とこの働きはすべて人間の救いのため、神の旨を成就するため、過去の創造における世界の元来の状況を変えるためである。神は言葉をもって世界を創造し、宇宙の人間を言葉をもって導き、言葉をもって征服し救う。ついに、神は言葉を使って古い世界全体を終わらせる。そのときはじめて、経営(救いの)計画がくまなく完了する。

『言葉は肉において現れる』の「神の国の時代は言葉の時代である」より

終わりの日の働きにおいては、言葉はしるしや不思議の顕示よりも力強く、言葉の権威はしるしや不思議の権威を超越する。言葉は人の心のすべての堕落した性質を現す。あなたは自分でそれらを認識することはできない。それらが言葉を通して明らかにされるとき、あなたは当然それを認識し、否定することはできず、完全に確信するであろう。これは言葉の権威ではないであろうか。これは言葉の現在の働きによって得られる成果である。だから、病気を癒したり悪霊を追い出したりすることで、人が罪から完全に救われることはなく、またしるしや不思議を顕すことによっても、すっかり完全にされることはないのである。癒したり悪霊を追い出したりするための権威は人に恵みを与えるだけで、人の肉は依然としてサタンに属し、堕落したサタン的な性質は依然として人の中に残っている。すなわち、まだ清められていないものは依然として罪と汚れに属しているということである。人は言葉によって清められて初めて、神のものとされ、清められる。人から悪霊を追い出したり、人を贖ったときは、それはただサタンの手から人を捕まえ、神のもとに戻したことでしかなかった。神によって清められていないし、変えられてもいないなら、人は堕落したままである。人の中には、依然として汚れ、敵対心、そして不従順が存在する。人は贖いを通して神のもとに帰っただけで、人は神について何の認識もなく、依然として神に抵抗し、神を裏切っている。人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、清くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。実際、この段階は第二段階の救いの働きであるとともに征服の段階である。人は言葉による裁きと刑罰を通して、神のものとされる。精錬し、裁き、明らかにする言葉をもちいることで、人の心にあるすべての汚れたもの、観念、動機、そして個人的な願望などが完全に明らかにされる。人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。たとえば、自分たちがモアブの血統であることを知った人々は、愚痴をこぼすと、いのちを探求することをやめ、すっかり消極的になってしまった。これは、人々がいまだに神の支配に完全に服従できないでいることを示していないだろうか。これこそが、まさに堕落した悪魔的な性質ではないだろうか。刑罰を受けていなかったとき、あなたの手は他の誰よりも、イエスすら超えて、高く上げられていた。そしてあなたは大声で叫んだ。「神の愛する子になりたまえ。神の親密なものとなりたまえ。サタンに服従するなら死ぬほうがましだ。あのいまいましい悪魔に対抗したまえ。赤い大きな竜に対抗したまえ。赤い大きな竜が完全に権力から落ちるようにしたまえ。神によりわたしたちを完全にしたまえ」。あなたの叫び声は他の誰よりも大きかった。しかし、刑罰のときが訪れ、再び人々の堕落した性質が明らかになった。人々の叫びは途絶え、彼らは決意を失ってしまった。これが人間の堕落である。それはサタンによって植えつけられて人の心の奥深くに根ざし、罪よりも深くはびこっている。人が自分の罪に気づくのは容易ではない。人は自分自身の深く根ざした本性を認識することができない。言葉による裁きに頼らなければそのような成果を達成することはできない。これによって初めてその時点から次第に人は変えられていくのである。人間は自らの元来の堕落した性質を理解していなかったので、過去にこのように叫んだ。これが人間の中にある不純なものである。これほどの長い裁きと刑罰の期間中ずっと、人間は緊張状態の中で生きた。これはすべて言葉をとおして成されたのではなかったのか。効力者の試練の前には、あなたも大声で叫んだのではなかったのか。「神の国に入れ。この名を受け入れる者は皆、神の国に入るであろう。皆、神とともにあるであろう」。効力者の試練が訪れたとき、あなたはもう叫ばなかった。初めに、皆が「神よ。いかなる場所に私をお置きになろうとも、わたしはあなたの導きに服します」と叫んだ。「誰がわたしのパウロになるのか」という神の言葉を読むと、「わたしがなります」と人間は言った。次には「ヨブの信仰についてはどうであろうか」という言葉を読んだので、人間は「ヨブの信仰をもちます。神よ、どうかわたしを試みてください」と言った。効力者の試練が訪れたとき、人間はただちに崩れ落ち、ほとんど立ち上がることができなかった。この後、人間の心の中の不純なものは徐々に減少した。これは言葉をとおして成されたのではなかったのか。だから、あなたがたが現在経験したことは、言葉により達成された結果であり、イエスのしるしや不思議の業をとおして達成されたものよりもさらに大きなのである。あなたに見える神自身の栄光と権威は、十字架上の死や病の癒し、悪霊を追い払うことだけをとおして見えるのではなく、言葉による神の裁きをとおしてさらにはっきりと見えるのである。これはつまり、しるしや病の癒しや悪霊を追い払う業だけが神の権威と力なのではなく、言葉による裁きが神の権威をよりよく象徴的に表し、神の全能を明らかにできることを示している。

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『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

終わりの日に、神が肉になるとき、神はすべてを成し遂げるために、すべてを明らかにするために、主として言葉を用いる。神の言葉の中においてのみ、あなたは、神とは何かを知ることができる。神の言葉の中においてのみ、あなたは、神が神自身であることを知ることができる。肉となった神が地上に来るとき、神は言葉を話すこと以外のどのような他の働きもしない。したがって、事実は必要でない。言葉で十分である。神は主な役割として、この働きをするために、神の力と至高を人が自身の言葉の中に見られるように、神が身を低くして自身を隠すことを人が自身の言葉の中に見られるように、そして神の完全性を人が自身の言葉の中に知ることができるように、来たからである。神が所有するものおよび神が今あるところのものすべてが、神の言葉の中にあり、神の知恵や素晴らしさは神の言葉の中にある。この中にあなたは、神が自身の言葉を話す多くの方法を見ることができる。今までずっと、神の働きのほとんどは、人間への施しであり、暴きであり、取り扱いであった。神は軽々しく人を呪いはしないし、そうするときでさえ、言葉を通してそれを行う。したがって、この肉となった神の時代において、神が再び病人を癒やし、悪魔を追い出すのを見ようとすべきでない。いつもしるしを見ようとしていてはならない。無意味なことだからだ。そのようなしるしは、人を完全にしはしない。わかりやすく言えば、以下のようなことである。今日、肉となった実在する神自身は、話すことだけを行い、行動はしない。このことは真理である。神はあなたを完全にするために言葉を用い、あなたに食べ物を与え、あなたの渇きを癒すために言葉を用いる。神はまた、働きをするために言葉を用い、さらに神は自身の真実をあなたに知らせるために、事実の代わりに言葉を用いる。もしあなたが、このような神の働きを感じ取ることができるなら、受け身でいることは難しいだろう。否定的なことに集中する代わりに、肯定的な事柄にのみ、あなたがたは集中すべきである。つまり、神の言葉が成就されようとしまいと、あるいは事実の到来があろうとなかろうと、神は自身の言葉から人がいのちを得ることを可能にする。これはあらゆるしるしの中の最大のしるしである。そしてなお偉大であるのは、これが議論の余地のない事実であるということである。この事実こそ、神を知る論拠とするのにもっともふさわしい。そしてこのことこそ、しるしよりもさらに偉大なしるしである。このような言葉だけが、人を完全にする。

『言葉は肉において現れる』の「すべては神の言葉が達成する」より

脚注

a.「一片の枯れ木」は「救いようがない」という意味の中国の諺。

 


キリスト教賛美歌「このように神は全てを統べ治める」

2020-08-29 18:58:27 | キリスト教賛美歌

キリスト教賛美歌「このように神は全てを統べ治める」     

産声を上げ 
この世に生まれた時から
人は自分の義務を行う 
神の計画と采配の中 
自分の役割を担い
人生の旅を始める 
どんな経歴・旅路があろうと
誰も天にある指揮と采配を逃れられない
誰も運命をコントロールできない
全てを統べ治める方のみ 
全て為すことができる 

人間が存在するようになった日から 
神の業はゆるがない 
この宇宙を営みを 
万物の変転と運行を見守り指揮している
全ての被造物と同じように 
人は知らずに甘美な滋養・雨・露を神から受け
全ての被造物と同じように
人は知らずに神の指揮のもと生かされているのだ

人の心と霊は神の手の中にある
神の目は人の全生涯を見通しているのだ
それをあなたが信じようと信じまいと 
生きているもの  死んでいるもの 
あらゆるものが神の意思により移り変わり 
新たになり
そしてやがて消えてゆく
いつもこのように神は全てを統べ治めている
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

おすすめ音楽

キリスト教 美しい讃美歌「神の救いの業の目的」

教会音楽「神が救おうとする者たちは神にとってかけがえのないものである」

 

 

 

 


クリスチャンの証し 2020「誠実な人間になるための奮闘」日本語字幕

2020-08-28 21:06:53 | キリスト教映画

クリスチャンの証し 2020「誠実な人間になるための奮闘」日本語字幕

甄誠は、家電修理店の経営者。正直かつ誠実に商売を営んでいたものの、毎月の売り上げに苦しんでいます。妻からは不平を、妻の弟からは皮肉を言われて疲れた甄誠は、世間の風潮にも影響されて次第に自身の倫理観を曲げていきます。そしていかがわしい手口で稼ぎ、快適な生活を送り始めるのでした。しかし全能神への信仰を得てからは、神の御言葉から神が誠実な人を好まれることを知り、この神の要求に甄誠の心が揺れます。でも誠実な人間になれば儲けが減り、借金を背負って店を失うかもしれない。そんな葛藤を幾度か経験し甄誠は、最終的に何を選ぶのでしょうか。『誠実な人間になるための奮闘』で確かめてみましょう。


真理とは何か。聖書の知識と教義とは何か

2020-08-27 20:39:32 | 天の国の福音

真理とは何か。聖書の知識と教義とは何か

 

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネによる福音書 1:1)

「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。…めぐみとまこととに満ちていた。」(ヨハネによる福音書 1:14)

「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネによる福音書 14:6)

「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。」(ヨハネによる福音書 17:17)

「イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。…こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。また、このような事をしばしばおこなっている」。」(マルコによる福音書 7:6-13)

 

関連する神の言葉


人間の言語に置き換えられた真理は人間の格言です。人間は決して真理を完全には経験しませんが、それに頼って生きるべきです。真理の一欠片により、全人類が何千年にもわたって生き残ることができるのです。
真理は神自身のいのちであり、神の性質を表し、神自身の実質を表し、神におけるすべてを表わしています。
キリストの言葉の記録』の「真理とは一体何なのか知っていますか」より


真理は定式的なものでも、規則でもない。真理は死んだものではなく、いのちであり、生きているものであり、被造物が従うべき法則であり、人生に必要とされる法則である。真理は、経験によって一層深く理解する必要があるものである。自分の経験がどの程度に達しているかを問わず、あなたは神の言葉や真理と離別不可能であり、神の性質や神の中にある物事や神の存在に関して得た認識は、すべて神の言葉に明示されている。すなわち神の言葉と真理の間には、不可分な繋がりがある。神の性質と神の中にある物事や神の存在それ自体が真理であり、すなわち真理とは、神の性質や神の中にある物事、そして神の存在の真の顕現である。神の中にある物事や神の存在は真理により具体的なものとなり、明示的に述べられる。神が好む物事、神が好まない物事、神が望むあなたの行動、神が許さないあなたの行動、神が蔑む人々、神が喜ぶ人々が、真理により一層率直に述べられる。神が明示する真理の背景では、神の喜び、怒り、悲しみ、幸福、そして神の本質を理解することができる。これが神の性質の啓示である。
『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 3」より


実際、真理とは、人生の格言の中でも最も現実に則しており、人類の全ての格言に勝るものなのだ。それは神が人間に要求すること、神が自ら為した業である。だから、人生の格言と呼ばれる。これは何かから要約された格言ではなく、また、偉人の有名な引用でもない。そのようなものではなく、これは天と地と万物の主から人間に告げたものであり、人間によって要約された言葉ではなく、神本来のいのちなのである。だからそれは、至高のいのちの格言と呼ばれるのだ。
『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」より


神の業はすべて真理であり、いのちである。人間にとって真理とは、人間の生活に不可欠なものであり、真理なしで生活することは決して出来ない。真理が最も偉大なものであると言うことも出来るであろう。真理は、見ることも触ることも出来ないが、あなたがたにとってその重要性を無視することは出来ない。心の安息をもたらすことができるのは、真理だけである。
『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 3」より


働き、説教し、表面上は神の言葉を説いているように見えるものの、話していることは神の言葉の文字通りの意味だけで、実質的なことは何も述べていない人がいます。このような人の説教は語学の教科書をもとに教えているようなものです。神の言葉は項目ごと、側面ごとに配列され、説教が終わると誰もが賛美を唱え、「この人は現実を自分のものにしている。とても見事に詳しく説教した」と言います。彼らは説教を終えると、人々にそれを整理してあらゆる人に伝えるように命じます。彼らの行動は他人を惑わすものとなり、説くことはすべて誤りです。表面上は神の言葉だけを説き、真理と一致しているように見えます。しかし注意深い識別力があれば、それが文字と教義と誤った論法に人間の想像と観念が伴ったものに過ぎず、そして神の範囲を定める部分的なものでしかないことがわかります。このような説教は神の働きを妨げるものではないでしょうか。それは神に反抗する奉仕です。
『キリストの言葉の記録』の「真理がなければ、神を侵すのは簡単である」より


あなたたちの「真理の要約」は、人々が真理からいのちを得たり、性質の変化を成し遂げたりするために行なわれていません。そうではなく、人々が真理から何らかの知識や教義を習得するためです。人々は神の働きの背後にある目的を理解したかのように見えますが、実際には言葉や教義をいくつか習得したに過ぎません。真理の暗示された意味を理解しておらず、神学を学んだり聖書を読んだりするのと何ら変わりません。あなたはあれこれ書籍や資料をまとめ、人々は教義や知識の側面をあれこれと自分のものにします。そうした人たちは教義については第一級の語り手ですが、語り終えたあとはどうなりますか。人々は経験できないままで、神の働きについての認識を持たず、自分自身についての認識も持ちません。最終的に、彼らが得たのは公式や規則だけであり、そのようなわずかな事柄以外には何も語ることができません。神が何か新しいことをしたならば、それを自分の知っているすべての教義と突き合わせることができますか。つまり、あなたが有しているのは規則に過ぎず、人々に神学を学ばせているだけであって、神の言葉や真理を経験できるようにはしていないのです。書籍を編纂することで、人々は神学や知識、公式や規則、慣習にたどり着けるだけです。書籍は人々を神の前に連れて行くことも、真理や神の心を認識させることもできません。書籍が次から次へと問題を提起し、そしてそれに答え、概略や要約が書き出されれば、兄弟姉妹は簡単にそれらの問題を理解できるようになる、とあなたは考えています。簡単に覚えられるだけでなく、問題が一目でわかり、これは素晴らしい方法だとあなたは考えています。しかし人々が理解していることは、真理の実際の暗示された意味ではなく、現実と符合しません。単なる言葉と教義に過ぎないのです。
そうすることは、人々に知識を理解させ習得させることです。あなたは宗教の教義に他人を連れ込み、その内部で彼らが神に従い、神を信じるようにさせます。それはまさにパウロと同じではありませんか。あなたたちは、真理の知識を習得することはとりわけ重要で、神の言葉の文章を暗記し、教義について語り、神の言葉の中にある公式を発見することが極めて大事だと考えていますが、人々がどのように神の言葉を理解するかはまったく重要ではないのです。そのため、誰もが同じ賛美歌集で歌い、同じことを言い、同じ教義を語るように、また誰もが同じ知識を持ち、同じ規則を守るように、あなたたちはいつもこれらの物事を体系化したいのです。それがあなたたちの目的なのです。あなたたちがそうするのは、人々が理解を得るためのように見えますが、それとは逆に、神の言葉の真理から外れた規則の中に人々を連れ込んでいるとは、これっぽっちも考えていません。
『キリストの言葉の記録』の「真理がなければ、神を侵すのは簡単である」より


神の言葉における実際の意味を本当に理解することは、決して単純なことではありません。神の言葉の文字通りの意味を解釈できて、みんなにいいと言われて賛成してもらえれば、それで神の言葉を理解したことになる、と考えてはいけません。それは神の言葉を理解することと同じではありません。神の言葉の内側から何らかの光を得て、神の言葉の真の意義を感じ取ったなら、またそれらの言葉における神の心は何か、それらが最終的に成し遂げるのは何かを表現できるなら、そのすべてがいったんはっきりしたところで、神の言葉についてある程度の理解に達したことになります。ゆえに、神の言葉を理解することはそれほど簡単ではないのです。神の言葉の文面を美辞麗句で説明できるからといって、神の言葉を理解していることにはなりません。神の言葉の文面をどれだけ説明できたとしても、それはやはり人間の想像であり考え方でありに過ぎず、何の役にも立ちません!…あなたがそれを文字通りに、または自分自身の考えや想像によって解釈するなら、どれだけ雄弁に解釈できるとしても、あなたの理解は本物ではありません。文脈から意味を切り離して神の言葉を誤って解釈することさえあり得ますが、それはさらに大きな問題です。ゆえに真理は、神の言葉を知ることで聖霊から啓きを受け取ることによっておもに得られます。神の言葉の文字通りの意味を理解している、あるいはそれを説明できるとしても、真理を得たとはみなされません。神の言葉の文面を解釈するだけでいいのなら、聖霊からの啓きに一体何の意味があるのでしょうか。そうであれば、ある程度の教育を受けていなければならず、教育を受けていない人はまったく困った状況に置かれることになります。神の働きは人間の頭脳で理解できるものではありません。神の言葉を真に理解することは、おもに聖霊からの啓き次第です。それが真理を得る過程なのです。
『キリストの言葉の記録』の「真理を追い求めることでのみ、性質の変化を成し遂げられる」より


たとえあなたがたが、神の言葉をたくさん読んでいても、文章の意味を理解するだけで、実際の体験を通して得た、神の言葉に関する実地の知識がなければ、神の言葉を知ることはないであろう。あなたにとって、神の言葉はいのちではなく、いのちのない文字の羅列に過ぎない。そして、いのちのない文字に固執するだけなら、神の言葉の真髄を把握することはできず、神の意志を理解することもないであろう。あなたが神の言葉を実体験で経験して初めて、神の言葉の霊的な意味が明らかになる。また、あなたが多くの真理の霊的な意味を把握できるのは、体験の中だけであり、体験を通してのみ、神の言葉の奥義の鍵を開けることができるのである。あなたが神の言葉を実践しないなら、神の言葉がいかに明瞭でも、あなたが把握するのは、空文と教義だけであり、それはあなたの宗教的規則となってしまうのだ。それはパリサイ人たちが行ったことではなかろうか。あなたがたが神の言葉を実践し、経験するならば、神の言葉はあなたがたにとって実践的なものになる。あなたがたが神の言葉を実践することを求めないなら、神の言葉はあなたがたにとって第三の天の逸話程度のものに過ぎない。…


…ほとんどの人々が神の言葉の文面を理解するだけで満足し、その深さを実際に体験せずに、教義を身に付けることに重点を置くが、それはパリサイ人のやり方ではなかろうか。ならば、彼らにとって、どうして「神の言葉はいのちである」という言葉が本当でありえようか。人間が神の言葉を実践する時のみ、いのちが真に花開くのであり、単に神の言葉を読むだけでは、それは成長できない。神の言葉を理解しさえすれば、いのちと霊的成長を得ることができる、というのがあなたの信仰ならば、あなたの理解は歪んでいる。神の言葉の真の理解は、あなたが真理を実践する時に生まれる。あなたは「真理は、実践して初めて理解できる。」ということが解からなければならない。
『言葉は肉において現れる』の「いったん真理を理解したら、それを実践すべきである」より