神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

日々の神の御言葉「あなたは人類全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである」抜粋149

2020-07-28 22:42:34 | 朗読

日々の神の御言葉「あなたは人類全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである」抜粋149

神が受肉するとき、神の霊は人に降る。言い換えれば、神の霊は肉をまとう。神は、この世で自身の働きを行うが、その働きは神が複数の制限された段階を経るのではなく、むしろ全く無制限のものとなる。聖霊が肉で行う働きは、依然として神の働きの効果によって決められる。そして神は、自身が肉で行う働きの期間を、それらの効果によって判断する。聖霊は、神の働きのそれぞれの段階を直接示す。神は働きをする中で自身の働きを検証する。それは人間の想像力の限界を超えるほど超自然的なものではない。それは天と地および万物の創造時におけるヤーウェの働きのようなものである。神はその計画と働きを同時に行った。神は闇から光を隔て、そして昼と夜が生まれ、それには1日を要した。第2日目に神は空を造ったが、それにも1日を要し、それから神は、陸、海、およびそこに生きるさまざまなものを造り、それにも1日を要した。神は、6日間を通して創造の働きを続け、6日目に人を創造し、人にこの世のすべてのものを管理させ、7日目までに万物の創造を完了し、7日目に休んだ。神は7日目を祝福し、その日を聖なる日とした。神はこの聖なる日を、万物を創造する前ではなく、創造した後に定めたのである。また、その働きは自然発生的に実行された。神は、万物を創造する前、6日間で世界を創造して7日目に休息することを決めてはいなかった。事実は決してそうではない。神はそれを口にすることも計画することもなかった。神は万物の創造が6日間で完了し、7日目に休息するとは全く言っていない。神はむしろ自身が良いと思う通りに創造した。神が万物の創造を完了したとき、すでに6日の時が経っていた。神が万物の創造を完了したのが5日目であったなら、神は6日目を休日としていただろう。けれども神は6日目に万物の創造を完了したので、7日目が休日となり、今日のように広まったのである。そのため、神の現在の働きは同じ方法で実行される。神は、状況に応じてあなた方が必要とすることを語り、必要を満たす。つまり、それぞれの状況に応じて霊は語り、働く。霊はすべてを見守り、いつでもどこでも働きを行う。わたしが行うこと、語ること、あなた方にもたらすもの、そしてあなた方に与えるものは、例外なく、あなた方が必要とするものである。わたしの働きは現実から離れたものではないというのは、そのような理由である。そのすべては現実であり、あなた方は皆、「神の霊はすべてを見守る」ことを知るのである。それがすべて前もって決められていたら、あまりに陳腐ではないか。あなたは、神が六千年間働きを行い、そして人間を反抗的、不従順、陰険、狡猾で、肉を持ち、堕落した悪の性質、目の欲望、および無節制といった性質を持つものとして運命づけたと考えている。それは運命づけられていたのではなく、むしろサタンによる堕落のためである。「サタンも神の手の中にあったのではないのか。神がサタンによるこのような人の堕落を運命づけ、その後人の間でその働きをされたのだ。」と言う者もいるだろう。神は人間を堕落させるようにサタンを実際に運命づけたのだろうか。神はあまりに熱心であるため、人間が普通の人間生活を生きることを認めていないだけである。神は人間の生活を苦しいものにするだろうか。もしそうであれば、サタンを倒して人間を救うことは無駄な努力ではないか。人間の不従順が運命づけられていたはずがない。それは実際にはサタンの悪行によるもので、神により運命づけられていたはずはない。あなた方が理解している神の手の中にあるサタンと、わたしが語っている神の手の中にあるサタンとは全く別のものである。「神は全能で、サタンは神の手の中にある」というあなた方の言葉に従えば、サタンは神を裏切ることはなかっただろう。あなたは神は全能だと言ったではないのか。あなた方の認識はあまりに抽象的で現実味がない。それは筋が通らず、意味をなさない。神は全能であり、そのことに少しも偽りはない。大天使は神を裏切った。なぜなら神は最初にその大天使に一部の権威を与えたからである。もちろん、蛇の誘惑に負けたエバのように、それは予期しない出来事だった。しかしどれほどサタンが裏切ろうとも、神と異なり、サタンは全能ではない。あなた方が述べたように、サタンは強大だが、サタンが何を行っても、神の権威はいつでもそれを打ち負かす。それが「神は全能で、サタンは神の手の中にある。」と言う言葉の裏にある真意である。そのため、神とサタンとの戦いは、一段階ずつ実行されなければならない。さらに神は、サタンの策略に対応して自身の働きを計画する。つまり神は時代に従って、人々を救い、英知と全能性を示す。同じように、終末の日における神の働きは、恵みの時代以前には運命づけられてはおらず、以下のように秩序立った方法での運命付けはなかった:第一に、人の外的性質を変える。第二に、人に神の裁きと刑罰を受けさせる。第三に、人に死を経験させる。第四に、人に神を愛する時代を経験させるとともに、被造物としての決意を表明させる。第五に、人が神の心を知るようにし、完全に神を知らしめ、そして人を完全にする。神は恵みの時代にそれらの事柄を計画してはいなかった。むしろ神はこの時代にそれらを計画し始めた。サタンは神と同じように働きを行っている。サタンはその堕落した性質を表現する一方、神は直接語り、本質的なものを明示する。それが今日行われている働きであり、同様の働きの原理は、世界が創造された後のずっと昔に用いられていた。

『言葉は肉において現れる』より引用


日々の神の御言葉「神の現れによる新時代の到来」抜粋71

2020-07-14 21:31:51 | 朗読

日々の神の御言葉「神の現れによる新時代の到来」抜粋71

 

六千年間にわたる神の経営(救いの)計画が終わりを告げようとしている。そして、神の国の門は神の現れを求める人々にすでに開かれている。兄弟姉妹たちよ、何を待っているのか。あなたがたが探し求めているものは何か。神の現れを待っているのか。神の足跡を探し求めているのか。ああ、神の現れがどれほど慕わしいものか。だが、神の足跡を見出すことがいかに難しいことか。今のような時代に、このような世界で、神の現れる日をこの目で見るために何をしなくてはならないのだろうか。神の足跡をたどるには何をしなければならないのだろうか。神の現れを求める人であれば、だれでもそのような疑問を持つものである。あなたがたもそのような疑問を抱いたのは一度や二度ではないと思うが、その結果はどうだったか。神はどこに現れるのか。神の足跡はどこで見つかるのか。そうした疑問に対する答えは見つかっただろうか。そうした問いに対して、次のように答える人が多い。「神は自分に聞き従う人々に現れ、神の足跡は私たちのただ中にある。そんなに難しいことではない。」決まり切った答えであればだれにでも言える。だがあなたがたは、神の現れとは何かを、神の足跡とは何かを本当に理解しているのか。神の現れとは、神が仕事を行うためにみずから地上に来ることである。神としての身分と性質は保ったままで、また神自身の方法で、神は時代を始め、時代を終わらせるために人間世界に下ってきた。このような神の現れは儀式のようなものではない。それは何かのしるしでも、絵画でも、奇跡でも、大いなる幻でもない。ましてや宗教的な儀式でもない。それは、実際に手で触れ、見ることのできる動かしがたい事実である。このような神の現れは何かの手順を踏むためのものでも、短期間の仕事のためのものでもない。それは、神の経営(救いの)計画の中にある一つの段階を実現するためのものである。神の現れは必ず何かの意味があり、必ず神の経営(救いの)計画と関係している。ここで言う現れは、神が人を導き、先導し、啓くときの現れとは全く異なる。神は自身を現す度に、神の大いなる業の一つの段階を実行に移すのである。この働きは他のどの時代の働きとも異なる。それは人には想像もできないもので、人が経験したことがないものである。その働きは、新しい時代を到来させ、古い時代を完結させるもので、新しい、一歩進んだ、人類を救う働きである。さらには、人類を新しい時代に導き入れる働きである。神の現れが持つ意義はそこにある。

神の現れについて理解するとともに、神の足跡をどのように探し求めるべきなのだろうか。この問いに答えるのはさほど難しくはない。神の現れがあるところで神の足跡も見つかるからだ。そう言うと単純に聞こえるが、実際に見つけるのは単純なことではない。多くの人は、神がどこで自分を現すか、ましてや神がどこで自分を現したいか、現すべきかを知らないからである。ある人々は、聖霊の働きがあるところには神が現れると何の考えもなく思っている。または、霊的な指導者がいるところに神が現れると思っている。あるいは、人々の知名度が高いところに神が現れると思っている。そうした考えが正しいかどうかは、今のところは深く考えないでおこう。このような問題を解説するには、まず目的をはっきりさせる必要がある。私たちが探し求めているのは神の足跡である。霊的な指導者を求めているのでもなく、ましてや有名人でもない。私たちがたどっているのは神の足跡である。神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは「神は真理であり、道であり、いのちなのです」という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちだろうか。神の現れは人が思うようなかたちで来ることはない。ましてや神が人の言うままに現れるようなことはない。神は、自分の判断で動き、自分の計画に従って働く。さらに、神には神自身の目的と方法がある。神は自分のしようとすることを人に相談したり話し合ったりする必要はない。ましてや一人一人に自分がしようとすることを知らせるようなことはない。これが神の性質であり、それはすべての人が認めるべきことである。もし神の現れをその目で見たいと思うなら、神の足跡をたどりたいと願うなら、自分自身の観念というものを超越しなければならない。神にこれをせよあれをせよと命じることは許されない。ましてや神を自分の枠の中に閉じ込めたり、自分の観念の中に押し込めたりすべきでない。そうではなく、どのように神の足跡をたどるべきか、どのように神の現れを受け止めるべきか、どのように神の新しい働きに従うべきかと問うべきなのである。これが人のすべきことである。人は真理ではなく、真理を持っているわけでもない。人の本分は、探し求め、受け入れ、従うことである。

アメリカ人でも、イギリス人でも、どこの国の人でも、自分という枠を乗り越え、自分という存在を超越し、神の創造物として神の働きを見なくてはならない。そうすれば、神の足跡を枠にはめることはないだろう。それは、特定の国や民族に神が現れることはないだろうと考えている人が多いからである。ああ、神の働きの意義はなんと深く、神の現れはなんと重要か。それは人の観念や考えで測ることなどできるのだろうか。そのため、神の現れを探し求める際には、みずからの国籍や民族性という枠を突き抜けるべきである。そうすれば、自分自身の観念に制約されることなく、神の現れを喜び迎えることができる。そうでなければ、暗闇の中にいつまでもとどまり、神から認められることもない。

『言葉は肉において現れる』より引用

 

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朗読 聖霊が諸教会に語られた御言葉「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」

2020-05-25 19:33:01 | 朗読

朗読 聖霊が諸教会に語られた御言葉「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」


全能神は言われます「イエスが旅立って以来、彼に従った使徒たちや、彼の名前のおかげで救われたすべての聖徒はイエスを切望し待っている。恵みの時代にイエス・キリストの恵みによって救われた人々はすべて、終わりの日の喜びに満ちたある日、救い主イエスが白い雲に乗って到着し、人々のもとに現れる日をずっと待ち焦がれている。……しかし、救い主イエスはそうはしなかった。彼は人が心に抱いたこととは反対のことをした。イエスはその再来を切望していた人々のもとには到来せず、白い雲に乗ってすべての人の前に現れもしなかった。彼はすでに来ていたが、人は彼を知らず、その到来に気づかないままである。イエスがすでに白い雲(イエスの霊、言葉、全性質、そして彼のすべてである雲)に乗って降りてきて、終わりの日に彼が作る克服した者たちの一団のもとに今ではいることに人は気づかず、虚しく彼を待っているだけである。人はこのことを知らない。」

[東方閃電]全能神教会は、イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

 


終わりの日のキリストの語られる言葉「神の現れによる新時代の到来」

2020-05-14 11:58:31 | 朗読

神の現れによる新時代の到来


六千年間にわたる神の経営(救いの)計画が終わりを告げようとしている。そして、神の国の門は神の現れを求めるすべての人にすでに開かれている。兄弟姉妹たちよ、何を待っているのか。あなたがたが探し求めているものは何か。神の現れを待っているのか。神の足跡を探し求めているのか。神の現れがどれほど慕わしいものか。だが、神の足跡を見出すことはいかに難しいことか。今のような時代に、このような世界で、神の現れる日をこの目で見るために何をするべきであろうか。神の足跡をたどるには何をするべきであろうか。神の現れを待つすべての人が、このような疑問を抱いている。あなたがたもこのような疑問を何度か抱いたが、その結果はどうであったのか。神はどこに現れるのか。神の足跡はどこにあるのか。答えは見つかったのか。多くの人は、「神は自分に従う人々に現れ、神の足跡は私たちのただ中にある。単純なことだ」と答える。決まり切った答えであればだれにでも言える。だがあなたがたは、神の現れとは何かを、神の足跡とは何かを本当に理解しているのか。神の現れとは、神がその働きを行うためにみずから地上に来ることである。神としての身分と性質をもち、また神に固有の方法で、一つの時代を始め、別の時代を終わらせる仕事を行うために、神は人類のもとに下ってくる。このような神の現れは儀式の一形式ではない。それはしるしでも、図画でも、奇跡でも、大いなる幻でもない。ましてや宗教的な過程でもない。それは、実際に手で触れ、目で見ることのできる現実的で実際的な事実である。このような現れはただ表面的な動作をするためでも、短期間の作業のためのものでもない。それは、神の経営(救いの)計画の中にある一つの働きの段階のためである。神の現れは必ず何かの意味があり、必ず神の経営(救いの)計画と関係している。ここで言う「現れ」は、神が人を案内し、導き、啓く「現れ」とは全く異なる。神は自身を現す度に、神の大いなる働きの一段階を実行する。この働きは他のどの時代の働きとも異なる。それは人には想像もできないもので、人が経験したことがないものである。その働きは、新しい時代を到来させ、古い時代を完結させるもので、人類を救う働きの新しく向上したかたちである。さらには、人類を新しい時代に導き入れる働きである。これが神の現れの意義である。

ひとたび神の現れが何であるかがわかれば、神の足跡をどのように探し求めるべきであろうか。この問いに答えるのは難しくはない。神の現れるところはどこであれ、そこに神の足跡も見つかる。このような説明は単純に聞こえるが、実際にはそれほど単純ではない。多くの人は、神がどこに現れるか、ましてや神がどこに現れるつもりか、あるいは現れるべきかを知らないからである。聖霊の働きがあるところには神が現れると、感情にかられて考える人がいる。または、霊的な指導者がいるところに神が現れると思っている。あるいは、名声が高い人のいるところであれば、どこであれ神が現れると思っている。そうした考えが正しいかどうかは、今のところは深く考えないでおこう。このような問題を解説するには、まず目的をはっきりさせる必要がある。私たちが探し求めているのは神の足跡である。霊的な指導者を求めているのでもなく、ましてや有名人でもない。私たちがたどっているのは神の足跡である。このため、神の足跡を探し求めている私たちは、神の心意、神の言葉、神の発する声を探り求めなければならない。神が語る新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところに神が現れ、神が現れるところには真理、道、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは「神は真理であり、道であり、いのちである」という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちであることか。神の現れは人の観念と一致することはない。ましてや神は人の言うままに現れない。神は自らの判断で、自らの計画に従って働く。さらに、神にはその目的と方法がある。神がどのような働きをしようと、人と話し合ったり人の助言を求める必要はない。ましてや神が人間一人一人にその働きを知らせる必要などなおさらない。これが神の性質であり、さらにそれはすべての人が認識すべきことである。もし神の現れをその目で見、神の足跡をたどりたいと願うなら、自分自身の観念を捨て去らなければならない。神にこれをせよあれをせよと命じてはならない。ましてや神を自分の枠の中に閉じ込めたり、自分の観念の中に押し込めたりすべきでない。そうではなく、どのように神の足跡をたどるべきか、どのように神の現れを受け止めるべきか、どのように神の新しい働きに従うべきかと問うべきなのである。これが人のすべきことである。人は真理ではなく、真理を自分のものにしていないので、人は探し求め、受け入れ、従うべきである。

アメリカ人であれ、イギリス人であれ、国籍がどこであれ、自分の国籍の枠を乗り越え、自分自身を超越し、神の被造物として神の働きを見なくてはならない。そうすれば、神の足跡を枠にはめることはない。それは、現在は特定の国や民族に神が現れることは不可能だと多くの人が考えているからである。神の働きはなんと意義深く、神の現れはなんと重要なことか。どうして人の観念や考えで測ることができようか。そのため、神の現れを探し求めるためには、国籍や民族性という観念を突き抜けるべきである、とわたしは言うのである。そうして初めて、自分自身の観念に制約されることなく、神の現れを迎えるにふさわしくなる。そうでなければ、暗闇の中にいつまでもとどまり、神から認められることもない。

神は全人類の神である。神は自らを一つの国や民族の所有物とみなさない。神が自ら計画したとおりに働きを行い、形式や国、民族といった制限を受けることはない。これまであなたはこのような形式を想像したこともなかったかもしれないし、そのような形式を否定するかもしれない。神が現れる国や民族はたまたま誰からも差別されている地上で一番遅れている国や民族かもしれない。しかし、神には神の知恵がある。神はその偉大な力とその真理と性質により、神と心を一つとする人々の一群を本当に得ている。それは神が完成させたいと願う人々の一群で、神に征服され、あらゆる試練と困難、あらゆる迫害に耐え、最後の最後まで神に従うことのできる一群である。神が形式や国の制約を受けずに現れる目的は、その計画どおりに働きを完成させることである。それはちょうど神がユダヤの地で肉となったときと同じである。神の目的は全人類をあがなうことで十字架の働きを完成させることであった。しかし、ユダヤ人は神がそれを行うのは不可能だと考えた。神が肉となって、主イエスの姿をとるのは不可能だと考えたのである。この「不可能」が、ユダヤ人が神を罪に定め、神に敵対する根拠となった。そして、最終的にはイスラエルの破滅へとつながった。今日、多くの人が同じような間違いを犯している。神は今すぐにでも現れると強く主張しながら、同時に神の現れを断罪している。その「不可能」が再び、神の現れを自分たちの想像できる範囲に押し込めているのである。神の言葉に出会うと、多くの人が騒々しく大笑いするのをわたしは見てきた。しかし、その笑いはユダヤ人による神への断罪と冒涜とどこか違うであろうか。あなたがたは真理を目の前にしても敬虔さがなく、ましてや真理を慕い求める態度もない。ただ手あたり次第に研究し、気楽に待っているだけである。そのように研究し、待っていることで得られるものは何なのか。神から直に導きを受け取ることができると思っているのか。神の発言を聞き分けることができないなら、どうして神の現れをその目で見る資格があるというのか。神が現れるところでは、真理が表され神の声がある。真理を受け入れることができる人だけが神の声を聞くことができる。そしてそういう人だけが神の現れを見ることができる。観念を捨てなさい。落ち着いて、これらの言葉を注意深く読みなさい。真理を慕い求めるなら、神はあなたを照らし、あなたは神の心意と言葉を理解できるようになる。「不可能」だと思うことについての意見を捨て去りなさい。人が何かを不可能だと思えば思うほど、それは実現しやすくなる。神の知恵は天より高く、神の思いは人の思いより高く、神の働きは人の考えや観念をはるかに超越するからである。何かが不可能であればあるほど、そこには探し求めることのできる真理がある。人の観念と想像を超えるものであればあるほど、そこには神の心意がある。神がどこに現れようとも、神はやはり神であり、神の本質が現れる場所や方法で変わることはないからである。神の性質は、神の足跡がある場所によらず、いつも同じである。神の足跡がどこにあろうとも、神は全人類の神である。それはちょうど主イエスはイスラエル人の神というだけでなく、アジア、ヨーロッパ、アメリカの人々の神でもあり、さらに、全宇宙で唯一無二の神であるのと同じである。だから、神の言葉に神の心意を探し求め、神の現れを発見し、神の足跡に従おう。神は真理であり、道であり、いのちである。神の言葉とその現れは同時に存在する。また、神の性質と足跡はいつでも人類に対して開いている。兄弟姉妹たちよ。あなたがたがこれらの言葉に神の現れを見てとり、新しい時代に向かって進みながら、神の足跡をたどり始め、神の現れを待ち望む人のために用意された美しく新しい天地に入れることを望む。

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2020-05-13 18:59:51 | 朗読

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。